第41話 入浴と洗顔

 モンテグロット温泉は、クラヴィーア伯爵領でも有数の大規模な公衆浴場だ。綺麗好きなネーヴェの我が儘で、娘に甘い伯爵が無い金を奮発して豪華な浴場を建てた。その後、少しでも資金を埋め合わせようと公衆浴場として解放し、入浴料金を取ることにした。モンテグロット市民は格安だが、旅人やお忍びの貴族からは金を取る。

 浴場の隣に食堂リストランテを作り、宿泊施設も作ったら、長期滞在の貴族が訪れるようになり、これが意外にもうかった。

 

「姫、あたしは別の場所で湯を浴びてくるよ。姫はシエロの旦那を洗濯してやんな」

 

 カルメラは手布タオルを持って、鼻歌混じりに去っていった。

 温泉は複数箇所あり、その中でネーヴェの浴場は一番奥まった場所にある。

 

「……」

「こちらですわ」

 

 どこか羨ましそうにカルメラを見送るシエロに、ネーヴェは声を掛ける。

 急勾配の道を登ると、山肌にめり込むような建物が見えてきた。目的地の温泉は、その建物内に浴場がある。

 フォレスタの公衆浴場は、男女混合だ。

 開放的な浴場で、水着代わりの腰布や短ズボンをまとって風呂に入る。なので、シエロと浴場に入るというのは、この国の常識からすると、そこまで変な話でもない。ただ、さすがに高位貴族の女性が他人に肌を見せるのは不適切なので、貸し切り風呂に入る事はある。もっとも高位貴族や王族ともなれば、真に一人で風呂に入ることはなく、必ず護衛や召し使いが同伴する。そういう意味でも、二人で風呂に行ってとがめられることはない。

 先触れが訪れて話が通っているらしく、受付の女性はネーヴェに恭しく頭を下げる。

 他に客がいないことを確かめ、二人は浴場へと歩みを進めた。

 岩盤をくりぬいて作られた湯船は広く、外気を取り入れるため天井の高さまで窓が開いており、ごつごつとした山肌が見えている。窓からは爽やかな風と、岩に反射する明るい日差しが入っていた。


「カミソリを貸せ。いくらなんでも、お前に剃られるのはごめんだ」

「残念ですわね」

 

 シエロは脱衣場に入ると、剃刀かみそりを要求する。

 幸いにも浴場に備品があったので、ネーヴェはそれをシエロに渡した。ついでに、手製の石鹸も渡す。

 ネーヴェに見られているにも関わらず、彼は堂々と衣服を脱ぎ始める。

 あまり日に焼けていない身体は引き締まっており、適度に痩せている。未婚の女性として、あまり男性の体を見る機会のなかったネーヴェは、思わず彼の体を凝視する。柔らかな女性と違い、硬く強靭な体付きだ。しかし、森豹のような優雅さも感じさせる、しなやかな裸身。

 やがて腰布だけになったシエロは、浴場に向かい歩き始める。

 こちらに向けた背中には、片側に白い傷痕が走っていた。

 剣術をやっていたと言っていたから、その際に付いた傷なのだろうか。


「お前も脱ぐか?」

「いいえ」

 

 さすがに裸身を見せ合うのは不味いと分かっている。

 それに今回ネーヴェは、彼を洗濯するだけのつもりなので、濡れて良い従業員のような服装で、同伴するつもりだった。

 シエロが浴場の片隅で髭を剃る間、ネーヴェは旅の外套を脱ぎ、長い銀髪を軽くまとめて、腕捲うでまくりした。

 髭の剃り残しがあったら、この手で綺麗にしてやろう。

 そう意気込んで、遠慮なく浴場に踏み入っていく。


「シエロ様、髭は剃り終わられましたか」

 

 ちょうど彼は、木桶で頭から湯水をかぶったところだった。

 淡い金髪が水に濡れて、背中に張り付いている。

 

「そうだな……」


 振り向いたシエロと視線が合い、ネーヴェは絶句した。

 むさ苦しい髭を剃って現れたのは、もはや別人とも言えるほど整った、美しい顔立ちだった。

 シエロは、いつも適当に丸めて後頭部でくくっている金髪を、今は洗うためか背中に流している。その長髪は、髭がある時は、むさ苦しさを倍増させる装飾だったが、今のすっきりした頬の稜線には不思議と調和する。

 歪みや角張を感じさせない端正な目鼻立ちと骨格なので、優美で女性的な容姿と言えなくもないが、きりりと鋭い目元や力強い雰囲気がそれを打ち消していた。

 総合的に、水もしたたる良い男としか言いようがない。

 シエロはネーヴェをからかうような、少し馬鹿にするような笑みを浮かべ、聞いてきた。

 

「見惚れているのか?」

「い、いいえ!」

 

 ネーヴェは咄嗟に否定した。

 正直、吃驚した。

 自分の顔と同等以上、王子より美形な男をはじめて見た。

 それにしても「見惚れているか」と聞くあたり、彼も自分の顔を自覚しているらしい。さもありなん、でなければ髭で顔を隠したりしないだろう。ネーヴェも平均以上の容姿で苦労することがあるので、気持ちは分からなくもない。


「石鹸はいかがでしたか」

 

 気を取り直し、感想を聞く。

 体を洗うのに使ってくれたらしく、付近にはうっすら花の香りが漂っていた。


「ああ……悪くない」

「さようですか」

 

 シエロは面倒くさそうに答えたので、ネーヴェはがっかりした。

 男性は女性ほど綺麗にこだわらないと言うし、感想が全くないよりましだろうと、自分に言い聞かせる。


「髪をもう少し、丁寧に流した方がよろしいのでは?」

 

 淡い金髪に石鹸の泡が付いているのに目敏く気付き、ネーヴェは手桶を持った。

 背中を流すという約束なのだから、構わないだろう。


「……」

 

 ゆっくりと、丁寧に手桶の中の湯水を彼の首筋に沿って流す。

 シエロは動かない。目を閉じて、されるがままになっている。

 ネーヴェはまるで、野生動物を洗っているような気分になった。動かないということは、それなりに信頼されているのだろうか。


「はい。これでよろしいですわ。ゆっくり湯に浸かって出てきて下さい」

 

 シエロもくつろぎたいだろうと思い、ネーヴェは引き上げることにした。

 廊下に出てから、不意に気付く。


「……はっ。顔の剃り残しをチェックするのを忘れてしまいましたわ」

 

 髪を洗って満足してしまった。

 今さら引き返すのは迷惑だろうと、ネーヴェは戻るのを諦める。磨けば光る男だと分かり、もっと洗いたかったのに、残念だ。

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