第38話 広い湯船に浸かりたいですわ

 ネーヴェに言い負かされたせいか、ラニエリは気分を害したようで、チップだけ払って宿泊をキャンセルし、帰ってしまった。

 すごすごと去っていく後ろ姿を見送り、カルメラが喝采を叫ぶ。


「よく言ってやったよ、姫! あんな奴、こちらから願い下げだね」

「……売り言葉に買い言葉で、つい論破してしまいましたけれど、怒って力押しで来られると困りますわね。お父様にも被害が及ぶかもしれませんし」

 

 いきおい余って王子一派に、喧嘩を売ってしまった。

 ネーヴェ自身はサボル侯爵が守ってくれているが、北方のクラヴィーア伯爵領にいる父親が心配である。

 

「ラニエリ様は、きっと腹を立てていることでしょう。私と私に関わった人々を捕まえて、教会の配る聖なる粉の正体を聞き出そうとするはずです。そうなれば、私のせいでアントニオさん達にも迷惑が掛かります。秘密にしても意味がないので、手紙を書いて貝殻の粉だとラニエリ様に教えてしまいましょう」

「はぁ。結局、聖女様の奇跡ってことになってしまうのかい」


 カルメラは、ネーヴェの手柄が他人のものになるのが悔しいようだ。眉をしかめて苛立たしそうにしている。

 だが、ネーヴェは彼女ほど悔しいとは思っていない。


「仕方ありませんわ。フォレスタが救われることが一番です……それに、貝殻の粉だけでは、どうにもなりません」

「??」

「フォレスタ全土を救うには、途方もない量の貝殻が必要です」


 リグリス州で貝殻の粉を配ってみて分かったが、必要な粉の量が多すぎて、フォレスタ全土に配ることは不可能だ。


「やはり、魔物が発生した原因を調査し、根本を絶たねばなりません」

「そんなことができるのかい?」

「魔物の虫が最初に目撃された場所と、被害がどのように広まっていったかの調査資料を、アイーダに頼んで王都から取り寄せています。まだ届いていませんが」


 遠回りに見えるかもしれないが、きちんと資料を精査して共通点を見つけ出し、そこから対策を立てた方が、逆に解決の近道になるのではないかと、ネーヴェは考えていた。

 

「姫は頭が良すぎて、私には付いていけないよ」

 

 戦って倒せたら楽なのにとカルメラが嘆き、本当にそうだとネーヴェも思う。

 

「ラニエリ様や殿下が強硬手段に出る前に、リグリスを出てクラヴィーア伯爵領へ向かいましょう。久しぶりにお父様に会いたいですわ」

 

 王子の婚約者になって王都住まいになってから、ろくに里帰りしていない。さらにモンタルチーノに追放になったので、父親とは年単位で顔を合わせていなかった。

 

「お風呂にも入りたいですし」

「出た。姫の綺麗好き」

 

 クラヴィーア伯爵領には、父親に我が儘を言って作ってもらった、特大の浴場がある。

 久しぶりに風呂に入りたいと呟くと、カルメラは姫らしいと笑って賛同してくれた。


 

 

 もともとリグリス州に永住するつもりはなかった。

 旅館経営も夏の間だけで、その後のことはアイーダに引き継ぐつもりだったから、少し予定が早まっただけだ。

 ネーヴェはサボル侯爵に挨拶し、故郷クラヴィーアに戻ることを説明した。


「いつまでも我が領地に留まってくれて構わないのだぞ、氷薔薇姫」

「いいえ、私がもとで王家とサボル侯爵の間にいさかいを起こす訳にはいきませんわ」

 

 サボル侯オットーは引き留めてくれたが、ネーヴェは丁重に辞退した。

 リグリスに留まれば、サボル侯はネーヴェの身の安全を保証してくれるかもしれない。しかしそれは、ネーヴェがいることがリグリスの益になるからだ。このままではサボル侯が大恩人になり、逆らえなくなって、リグリス州に仕えることになる。

 この辺りが、潮時だった。


「ふむ。残念だ」

 

 オットーは自慢の髭をしごきながら言う。


「先日言ったことは冗談だと思われたかもしれないが、私は意外とアリだと思っているよ。君が国主になるというのも」

「ありえませんわ、そんなこと」

「いずれにしても国の命運は天使次第……今、王都に天使はいないらしい」

 

 天使……サボル侯の言い様は、天使の存在を確信しているようだ。王子の婚約者といっても身分の低い伯爵令嬢のネーヴェは知らないが、高位貴族は天使の正体を知っているのかもしれない。


「収穫祭のため、リグリスに来ているという噂もある。教会関係者は口が固くて、天使について話してくれんがな」

「……」

 

 もしかして。

 ネーヴェは、今朝よれた司祭服を着て出ていったシエロを思い浮かべた。彼の仕事は、収穫祭の行事の手伝いかと思っていたが、天使の接待も含まれるのではないだろうか。天使の来訪で人手が足りなくて駆り出されたのかもしれない。


「元気でな、氷薔薇姫。君の前途に天使の祝福があることを願っているよ」

「サボル侯爵様も、お元気で」

 

 別れの挨拶は平穏に終わった。

 アイーダにも挨拶したいが、彼女には王都で調べ物をしてもらっている。

 ネーヴェは祭日の屋台を見て回り、掃除用具や旅のための携帯食糧などを買い込んで、旅館に戻った。

 夜になると、シエロが帰ってくる。


「ネーヴェ、お前に手紙を預かってきた」

 

 彼は、小さく丸めた書状を持っていた。

 封蝋はクラヴィーア伯爵の紋章である、冠を載せた山羊ゴートの印だ。父親からだと気付いたネーヴェは、ありがたくそれを受けとる。


「クラヴィーアにいる俺の知り合いの高位司祭に、伯爵の様子を確認させている。今のところは、問題ないそうだ」

「ありがとうございます」

 

 ここまで気を回してくれるとは……ネーヴェは彼の無精髭を見上げ、感謝を述べる。本当に顔に見合わない気配りだった。


「お礼はどうすれば」

「気にするな。俺が好きでしたことだ」

 

 シエロはさらりと言って、自分の部屋に去っていった。

 いっそ見返りを求めてくれたら良いのに、とネーヴェは複雑な想いを抱く。ラニエリは妻になったら守ってやると言った。あの時は腹が立ったものだが、今はその言葉をシエロから聞きたいと思う。約束もなくただ守られるだけは、幸福過ぎて何故か不安になってしまう。

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