第35話 靴磨きは気分転換に良いですわよ?

「姫、やっぱりあたしと国を出ないかい?」

 

 侯爵との会談中、護衛に徹してカルメラは口を開かなかった。

 しかし、敷地を出ると心配そうに声を掛けてくる。


「あの変態侯爵、姫を反乱のはたかつごうとしてるじゃないか。変なことに巻き込まれちゃ、たまらないよ」

「カルメラ……」

「世界は広い。姫は弓矢だってピカ一だし、あたしと一緒に傭兵になって、世界中を旅するのはどう? きっと胸踊る冒険の旅になる」

「そうですわね」

 

 ネーヴェは、姉のように慕っている女傭兵の言葉に、心揺れた。

 だが、容易く決められることではない。


「前向きに検討しますわ」

「はぁ……姫はモテモテだからな」

 

 曖昧に返事をすると、カルメラは苦笑する。


「姫~! こっちです!」

「シェーマン、良い場所は見つけてくれましたか?」


 大通りの片隅で、シェーマンが手を振っている。

 彼には場所取りをお願いしていた。

 絨毯を敷いた上に椅子を並べ、ブラシや油を用意している。


「はい。場所は取りましたが、姫様、これは一体……?!」

「靴磨きをするんですわ」

「「は?!」」

 

 カルメラとシェーマンが異口同音に驚いた。

 しかし、ネーヴェは既にブラシを取り上げて毛先をつつき、うっとりしている。


「靴が綺麗になると良い気分になりますし、小銭稼ぎになります」

「「……」」


 その日、ネーヴェは収穫祭を楽しむ人々を眺めながら、通行人の靴磨きをして小銭を稼いだ。

 靴磨きをしていると、情報も入ってくる。


「南のプーリアン州は、大変だそうですね」

「ああ……きなくさい雰囲気らしい。過激派のフェラーラ侯が、武器を買い集めていると聞いた」

 

 情報をくれた男は、南部の近い地域から引っ越してきたそうだ。

 魔物の影響が少なく豊作のリグリス州には、他の地域から移住してくる者が多くなっている。


「武器……サボル侯の懸念は、そういうことでしたか」

 

 ネーヴェは靴を磨きながら思案する。

 最初は小さな火だった。魔物の虫から始まった災厄は、フォレスタ全土に転移する。魔物を契機にそれまで抑えられていた国内の不満に火が付き、王子の行動は火種を煽る風のようだった。今や災火は、フォレスタそのものを燃やすが如く、燃え広がろうとしている。



 

 例の旅館経営は、夏を過ぎた後、規模を縮小して続けている。

 今は、食事を出さない素泊まりの宿にして、空いた部屋はネーヴェ達自身が寝泊まりするために使っていた。

 靴磨きを終えたネーヴェは、屋台で旨そうな食事や果物を購入し、旅館に持って帰る。

 夜になると、シエロが帰ってきた。

 彼は教会で着替えたらしく、青い高位司祭の服を着ている。髭はそのままだが、いつもより清潔な格好だ。


「おかえりなさいませ」

「ああ……ただいま」

 

 ネーヴェの出迎えに、彼は少し戸惑った様子を見せた。

 そういえば、「おかえり」と「ただいま」を言い合うのは、初めてかもしれない。夏の間、シエロは旅館の事務室にこもって、そのような機会は無かった。

 二人は、互いに初めて「おかえり」「ただいま」と言い合ったことに衝撃を受け、そのまま視線を逸らす。まるで新婚夫婦のようだと、ネーヴェは思う。そんなはずがないのに、なぜか気恥ずかしい。


「え~と、中にお入りになってはいかがでしょうか」

 

 空気を読まないシェーマンが発言し、カルメラに「しっ、せっかく甘酸っぱい良い雰囲気だったのに」と突っ込まれ、ネーヴェはいたたまれない気持ちになった。


「皆さん、夕食にしましょう」

 

 気を取り直して宣言し、旅館の食堂に全員集合となった。

 サボル侯爵とのやり取りや、街で聞いた噂を皆で共有する。

 南部の不穏な動きと、サボル侯の反逆に誘われた話をすると、シエロも真剣な顔つきになった。

 

「カルメラの言う通りだ、ネーヴェ。お前は厄介事に巻き込まれる前に、国外に逃げた方が良い」

「そうでしょうか……」

「お前は民にとって救世主だ。多くの者がお前を求めるだろうが、それがお前にとって幸せだとは限らない」

 

 シエロはカルメラの意見に賛同する。

 彼は、自分の益よりも、ネーヴェの心配をしてくれているのだ。無精な外見から今まで疑っていたが、根は良い男だとこれで確信が持てた。


「シエロ様の仰る通りかもしれません」

「シェーマン」

「王子は私が思い通りに動かなかったので捕らえようとし、姫様は私を逃がして下さいました。私は恩人である姫様に、不幸になって欲しくありません」

 

 シェーマンはネーヴェに恩を感じているようだ。その場にいる全員が、ネーヴェの身の安全を心配してくれている。

 晩餐の場に、しんみりとした空気が満ちた。

 その空気を変えるためか、シエロは手を伸ばしデザートに用意した葡萄をつまみ始めた。


「これは、シエロ様の畑の葡萄ですのよ」

「そうか。この手で収穫できなかったのは残念だ。お前も育てるのを手伝ってくれたのに……共に葡萄の実を摘めたら良かったな」

 

 これから先もその機会があるだろうとは、言い返せなかった。シエロは次があると言わない。

 ネーヴェは、葡萄をつまむ彼の横顔を見つめる。

 むさ苦しい無精髭が、彼の本当の気持ちも覆い隠しているように見えた。

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