第30話 殿方は胃袋を掴めと言いますわね
ネーヴェが旅館経営に乗り出したのは、何も泊まる場所を無料にするためだけではない。
「湯を持ってきたぞ」
「ありがとうございます」
湯を使って体を洗うという贅沢を満喫するためだった。
毎日、火を焚いて湯を沸かすのは手間が掛かる仕事だ。一気に大量に沸かした方が効率が良く、旅館なら大きな
シエロが運んできた湯を受けとると、ネーヴェは嬉しくて頬がゆるんだ。氷のような美貌がわずかに
彼は苦々しく言った。
「そんな嬉しそうな顔をするな。襲うぞ」
シエロが脅してくるが、ネーヴェは何も怖くない。
「あら。そのためには、同室にしていただく必要がありますわね」
旅館経営を始めてから、ネーヴェ達はそれぞれ個室を得ていた。
今まで夫婦役で同室だったシエロから離れ、ネーヴェはほっと安堵していたが、同時に少し寂しく感じていた。
しかし彼は今も気遣って、毎日ネーヴェに湯を持ってきてくれる。
その
「姫の見る眼、疑ってた訳じゃないけど、あのシエロって旦那は超が付く真面目な男だね。キープしといた方が良いんじゃないの?」
キープとは。
そこまで考えていなかったネーヴェは、大層困惑している。
疑似夫婦を演じて、一緒に旅館経営をして……正直に言うと、とても楽しい。シエロとは趣味も違っていて話が合う訳ではないが、目指している方向が同じなのだ。彼もネーヴェと同じで、自分のためではなく誰かのために動き、些細なことにも全力を尽くす
最近、夏の終わりを思い描いて、不安になる。
リグリス州のオリーブの実を収穫したら、その次はどうしよう。次も、シエロは付いてきてくれるだろうか。
「……どうした?」
「いえ」
シエロの深海色の瞳が、ネーヴェの心を見透かすように見つめてくる。
王子で痛い目に遭っているので、婚約や結婚というワードには忌避感がある。しかしカルメラの言う通り、本当に結婚が必要になった時向けに男を確保するという
しかし、キープとは? 具体的にどうすれば良いのかしら。
ネーヴェはとりあえず、食べ物で釣ってみようかと考える。殿方は胃袋を掴めと、庶民の間ではまことしやかに囁かれているそうな。噂は本当か、検証が必要だろう。
(※シエロ視点)
氷薔薇姫という二つ名で呼ばれる通り、ネーヴェは
服装も華美よりも質実を好むので、余計にそう感じさせるのかもしれない。あの娘は化粧できる癖に、自分を飾り立てることを好まない。家事をする時などは、男用ズボンを履いているのを見て、驚きを顔に出さないよう苦労してしまった。
ただ、ふとした瞬間に、鉄壁の無表情が僅かに崩れる。
雪割草や初春に咲くスノードロップを思わせる、その初々しい笑顔が見たくて、ついつい毎日せっせと湯水を運んでしまっている。
「この俺が……」
王族や貴族などの身分など鼻で笑えるくらい、シエロは尊ばれてしかるべき存在である。奉仕されるのはともかく、自分が奉仕するなど頼まれてもやらない。
だというのに、自主的に一人の娘に尽くしてしまっている。
こんな気持ちになるのは、いつぶりだろう。
あれは確か、この国ができる少し前……
「シエロ様。ご託宣どおり、リグリス州のすべての教会に、貝殻の粉について行き渡らせました」
物思いに沈みかけた思考を、司祭の静かな声が引き上げる。
ここはリグリス州で一番大きな教会だ。
そして、シエロに報告をしたのは、リグリス州の最高司祭である。
「ご苦労だった。王家は相変わらず、か」
「礼拝のことでしたら、はい。王族の訪問が途絶えて、もう何年になるでしょうか……」
王家のうち一人は、必ず定期的に天使を礼拝しに教会を訪れる、古くからの約束がある。しかし、未来の国主になるエミリオ王子にその役が譲られてから、礼拝はぱったり途絶えていた。
国王はどうやら、息子が礼拝をサボっているのに気付いていないらしい。
指摘してやるのも面倒で、シエロはそのまま放置している。
王家は、王都から天使がいなくなっていることに、気付いてもいない。
「ところでシエロ様、今季はぜひ当教会で豊穣の祭儀を」
「髭を剃るのが面倒だ」
「そんな……! い、いえ、そのままで結構ですから。リグリス州の美味な食事を献上いたしますので」
祭儀には、その地方の特産品を使った豪勢な食事が並ぶ。
天から頂いた恵みを、天に一部返し、感謝の意を表す儀式だ。それは、翌年以降の永きに渡る天の恵みを願う儀式でもある。教会関係者の間では、祭儀を取り仕切る役目は最大の栄誉であり、無事はたしきった
しかし、シエロは揉み手をする最高司祭に背を向け、足早に歩き出した。
「どちらに……?!」
「帰るに決まっているだろう。美味な食事なら、もう十分に味わっている」
下手な料理人よりも、ネーヴェの作った料理の方が旨い。
そう考えるシエロは、自分が餌付けされつつあることに、気付いていなかった。
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