第29話 涼を求めて
旅館をオープンして最初の客は、アイーダだ。
彼女は、旅館に出資してくれた。誰よりも先に、無料でサービスを受ける権利がある。
「さすがお姉さま、あの館がこんなに綺麗になって……まあ、この爽やかな香りは、レモン?」
アイーダは、清潔な室内に目を輝かせた。
そして、窓際のテーブルに置かれた蒼硝子の器と、白い氷菓子を見つける。
氷菓子は、レモンソルベだ。砂糖水にミルクとレモン汁を入れたものを凍らせ、丁寧に潰して捏ねている。滑らかな舌触りと、レモンの酸味、ミルクのまろやかさが極上のハーモニーを奏でる、夏にふさわしい一品だ。
「甘くて美味。それに、この河のせせらぎの音! 癒される~~!」
早速、椅子に座り、銀の匙で氷菓子を口に含む。
窓から高山の爽やかな涼風と、小川の流れる音が入ってくる。窓際の特等席に座り、彼女は五感でその贅沢を味わっているようだった。
「まるで下界から遠ざかるようですわ。いつまでもここにいたい……」
「それはようございました」
うっとり呟くアイーダに、ネーヴェは顔に出さず歓喜する。
掴みは十分だ。
「知り合いに声を掛けて、泊まりに来るよう伝えますわ」
「そうして頂けると助かります」
アイーダの声掛けで貴族が泊まりに来れば、採算が取れる。
来年のことは考える必要はない。旅館経営は、今夏だけのつもりだからだ。
旅館の客対応や配膳は、アイーダから借りた侍女に任せた。ネーヴェは厨房に引っ込んで料理を作り、シエロは帳簿を管理し、カルメラは仕入れを手伝う。
空いた時間で、貝殻の粉の配布状況を確認し、オリーブ畑の様子を見に行く。
忙しくも充実した日々だった。
その噂を聞いたのは、先代フェラーラ侯バルドが、お忍びで宿泊に訪れた時のことだった。
「やあ、ネーヴェ姫。元気そうで何よりだ」
「バルド様こそ、ご健康そうで、安心いたしました」
杖を付いた老人は、ネーヴェを見て普通に挨拶してくる。
昔は戦場を駆けたという血の気の多い侯爵だが、引退した今は王都の片隅でゆっくり暮らしているらしい。
失うものは何もない年寄りだからと、ネーヴェの味方をしてくれている。
「これがレモンソルベか。私は甘味に目がなくてね。王都以外には、甘味の店が少ないのが残念だ。甘味さえあれば、田舎暮らしも悪くないのだが」
「ときにバルド様、今、王都で王子と聖女様はどうしているか、ご存知ですか?」
正直、ネーヴェが勝手にモンタルチーノから出て、いろいろやっていることが、まだ王子にばれていないのが不思議なくらいだ。
引退して政治から遠退いているバルドに聞いても、知らないかもしれないが、今エミリオ王子がどうしているか気になった。王子は、聖女と共に、災害から民を救う任に就いているはずだった。
「ああ……王子なら、夏風邪でダウンしているよ」
バルドは氷菓子を味わいながら、のんびり言った。
「は? 風邪、ですか」
「あの王子は、鍛練もろくにしておらぬようだからのぅ。王子が動かんので、魔物にどう対応するかも、後回しにされているようだ」
なんと。今までネーヴェの様子を確認しにも来なかったのは、単にそれどころではなかったらしい。
ネーヴェは時間稼ぎが出来て安心するやら、王子の阿呆さ加減に嫌気がさすやら、複雑な気持ちになった。
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