第9話 天使の梯子

 その日は、朝から天気が悪かった。

 夏の陽射しは雲に遮られ、大粒の雨足が修理したばかりの屋根を叩く。赤茶けたテラコッタかわらはシェーマンが屋敷まで運んでくれたが、屋根に積む作業はネーヴェ自ら行った。


漆喰しっくいも塗り直して良かったですね」

 

 深みのある赤茶の屋根と、真っ白な壁の対比は美しい。

 ムラなく塗られた白い壁は、ネーヴェの力作だ。ひょっとして左官屋でもやっていけるのではないだろうか。

 屋根と壁をリフォームした屋敷は、元の幽霊屋敷から見違えるようだった。

 もう雨漏りすることはないので、ネーヴェは雨音をのんびり聞いていられる。


「今日は、葡萄畑には行きませんよね」

 

 シェーマンは、手ずから温かい麦珈琲をサーブしてくれる。

 この国では、麦を焙煎した真っ黒い茶を飲むのが一般的だ。隣国オセアーノの黒い飲み物は珈琲という名前なので、フォレスタの麦茶は麦珈琲と呼ばれている。

 ネーヴェは、市場で見つけた骨董品のティーカップで、優雅に茶を飲んだ。


「まあ、何故?」

「大雨ですよ! 近くの教会の天気予報では、昼から嵐だと言ってました!」

 

 教会では天気予報も行っている。

 貴族出身のシェーマンは、雨天に外に出たがらない。

 気持ちは分からないこともないけれど……

 ネーヴェは、空を見上げて思案した。


「嵐……葡萄の実が、落ちてしまわないでしょうか」


 午後に差し掛かり、猛烈な風が吹き始めると、ネーヴェはいてもたってもいられなくなった。


「やっぱり、葡萄畑を見に行きましょう、シェーマン!」

「こんな日くらい休みましょうよ、姫様~」

 

 丹精込めて育てた葡萄の実が落ちてしまわないか。

 今のネーヴェは、それだけが心配だった。

 しかし、シエロの葡萄畑に向かう道中、雨はますます激しくなり、風も大いに吹き荒れた。


「葡萄は……」

「姫様、どこか軒下で休まてもらいましょう。姫様!」

 

 止めるシェーマンを振り切り、雨に濡れるまま葡萄畑に飛び込む。

 雷鳴が轟いた。

 葡萄畑は暗くなって、実が見えない。


「なぜ、こんなところにいる?!」

 

 怒号が響いた。

 シエロだ。

 彼は雨に濡れるのも構わず、ネーヴェに大股に歩みよった。

 その迫力に圧され、ネーヴェはか細く反論した。


「だって、葡萄の実が」

「雨で体が冷える! ここまですることは無いだろう、馬鹿が! だいたい俺の畑は……」

 

 シエロは途中で苦々しい表情になり、口をつぐむ。

 そして、荒々しくネーヴェを抱き締めた。

 男の広い胸板に抱き寄せられ、ネーヴェは動揺して固まる。


「馬鹿が……」

 

 シエロの低い声。

 不意に風が止み、雨が途絶えた。

 さっきまでの雷雨が嘘のように雲が途切れ、陽光が天使の梯子のように射し込んでくる。

 葡萄畑は光を受け、枝葉に残ったしずくがダイヤモンドのように輝いた。

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