第8話 オリーブ畑が作りたくて

 午後になると、ネーヴェは侍従を連れて、シエロの葡萄畑におもむく。

 葡萄畑は、ヴェレゾンを迎えている。緑色だった実のいくつかが、うっすら赤紫に染まる。一斉に紫になるのではなく、同じ房の中でまだらに染まる上に、一粒は深紅、一粒は紫紺といったように色相もさまざまなので、色とりどりの果実がなっているように見える。

 実のチェックのために、上を見上げ続けていると、首が痛くなってくる。


「あそこの枝葉を切ると、日当たりが良くなりそう……」

 

 ネーヴェははさみを持った手を伸ばそうとするが、届かない。

 

「無理をするな」

「あ」

 

 いつの間にか、背後に現れたシエロが、さっと腕を伸ばして枝を切った。


「良いセンスだ。樹のバランスが良くなった」

 

 褒められて、ネーヴェは顔を背ける。

 薄紅に染まった頬を見られたくなかった。


「……そろそろ、虫の対策を教えてくださいませんか」

 

 この葡萄畑では、例の魔物の虫を一匹も見ていない。

 対策の秘密は、土にかかっている白い粉にあると見ているネーヴェだが、白い粉が何で出来ているかは見ても分からない。


「教えても構わないが、なぜ知りたい?」

 

 シエロに聞き返され、ネーヴェはまたたきする。

 どうして知りたいのか。

 自分の胸に改めて問いかける。

 最初は、国民のためだった。王子の婚約者として、伯爵令嬢として、多くの民を救わねばならないと考えていた。

 それに、救国を聖女にゆだねる国王や王子の判断に腹が立っていた。

 なんとかして、魔物の虫を駆除する方法を見つけたかった。

 しかし、ただ一人の人間として、ここ辺境の地モンタルチーノで生きていくとなった時、今の自分に大義名分が必要なのか、という疑問が胸をかすめた。

 もう、誰かのために一生懸命にならなくていい。

 只の女として、自分の幸せを追及しても、良いはずだ。


「立派なオリーブ畑を作るためですわ」

 

 考えた末に、ネーヴェはそう答えた。

 国民の生活のためという理由は、王子から婚約破棄された今のネーヴェには不相応だ。


「オリーブ? 葡萄畑に来ていて、オリーブか。葡萄は美味で酒にもできるが、オリーブは油っぽいだけではないか」

 

 シエロはきょとんとしている。

 ネーヴェはむっとして言い返した。


「オリーブの油は、料理に欠かせません! 加熱した実は、酒のつまみにもなります。肌に塗り込めば美容に良いし、実以外の樹木の部分も耐久性の良い木材として加工できます。オリーブは幸せを呼ぶ木だという者もいるくらいですわ!」

 

 まくし立てると、シエロはおかしそうに笑いだした。

 低い声には張りがあって、耳に心地よい。

 ただの農民にしておくにはもったいない声だ。


「ははっ、それは良い! 確かにオリーブは素晴らしい木だ。お前は、俺と同じ変わり者だな」

「一緒にしないでください。だいたいあなた、汚すぎます。風呂に入っていないのですか?」

 

 出会った日から、シエロは泥だらけの服装で、無精ひげも剃っていないようだった。乱れ放題の淡い金髪が、麦わら帽子の隙間からこぼれている。

 汗の匂いが薄いのが唯一の救いだった。

 

「これも虫除けだ……俺を馬鹿にする娘には、虫の対策方法を教えてやらんぞ」

「それは契約に反しています!」

「契約など知るか。虫の対策を教えなければ、お前はいつまでも、俺の畑の只働きだ」

 

 卑怯なことを言って、シエロは軽やかに笑う。

 ネーヴェは頬を膨らませたが、自分が子供っぽい表情を見せていることに気付いていなかった。

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