第7話 今の方が楽しいですわ

 労働契約について内容を詰めたかったネーヴェだが、帰れと言われ、退散せざるをえなかった。

 初日であるし、ここは大人しく引き下がろうと、シェーマンと共に葡萄畑を去ろうとした時。


「シエロ様」

 

 黒いワンピースの上にベールを被った修道女が、シエロを呼び止めているのが見えた。


「教会に寄進された食べ物を持って参りました」

「そこに置いて帰れ」

「……」

 

 恭しく頭を下げる修道女に対し、シエロの対応は素っ気ない。

 ネーヴェは一瞬振り返り、そのやり取りを確認した。

 教会とは、建国神話の天使を崇める天翼教会のことで、この国フォレスタの各地に、本部から派遣された司祭が取り仕切る小さな教会の施設がある。

 建国神話の天使は、天候を操る力を持っているとされ、天使の翼は王家に雷の加護を与えた。天使に祈りを捧げれば雨天は晴れとなり、乾いた大地には潤いがもたらされるという。

 国王に冠を授け、国民の信仰の拠り所となるのが天翼教会の役割だが、当代国王エルネストが異界から聖女召還を行ったせいで、教会と王の関係は冷えていると聞いた。

 あの男、シエロは、教会の関係者なのか。

 少し気になった。




 葡萄畑に就職と意気込んだネーヴェだが、翌日朝から行って、シエロに嫌な顔をされた。昼からで良いと言われたので、昼から手伝いに行くことにする。

 午前中の自由時間、ネーヴェはある実験を行っていた。


「姫様~、今度は何を作ってるんですか?! 煙が上がってるんですけど」

「石鹸よ」

「せっけん?!」

 

 シェーマンは目を白黒させた。

 屋敷の庭で火を焚いて、草木を燃やす。

 その灰を水に浸して、灰汁を作ろうとしていた。

 最初の頃、ちまちま雑草を抜いて庭に畑を作っていたネーヴェだが、効率が悪いことに気づいたのだ。草を燃やして畑の面積を増やす。灰は肥料にもなるし、灰汁を使って石鹸も手作りできる。一石二鳥、いや三鳥か?

 

「オリーブオイルと灰汁、ハーブを使って香りのよい石鹸を作りたいの。オリーブは今は実を買ってくるしかないけれど、いずれ庭にオリーブを植えて自家製オリーブオイルを」

「姫様、楽しそうですね……」

 

 とうとうと語るネーヴェに、シェーマンは呆れたようなコメントを漏らした。

 楽しそう、と言われたネーヴェは、灰に汚れた手で自分の頬を触る。


「楽しそう、かしら」

「姫様は無表情ですが、最近すこし表情の変化が分かってきましたよ……王都に帰りたくないのですか?」

 

 シェーマンに聞かれ、不意に自分の心と向かい合う。

 追放されてすぐは、生活基盤を整えるのに必死で、未来のことを考える余裕はなかった。しかし、今は自活できるようになり、考える余裕がある。


「王都、王子の婚約者の地位……それらは、私が望んで得たものではなかったわ」

 

 貧しい伯爵家に生まれたネーヴェだが、幼い頃からその美しさは有名で、だからエミリオ王子に見初みそめられた。

 それから何不自由ない生活をしてきたけれど、心のどこかが欠けていた。空虚を埋めるため、必死に理想の王妃になろうと努力したのだと思う。器用なネーヴェは、完璧な王子の婚約者を演じることに成功した。

 けれど本当は……


「前より、今の方が良いかもしれない。いっそ、このまま家事を極めて、洗濯用品を売りだそうかしら」

 

 冗談めいて言ったネーヴェに、シェーマンは複雑そうな表情を見せた。

 お人よしの侍従は、けしてネーヴェの不幸を望んでいない。しかし、下級とはいえ貴族出身の彼は、もう少し裕福な生活がしたいのだろう。

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