第3話 追いかけて
緋目は庭の池の前に座っていた。
奏夜は服の皺を伸ばし、深呼吸をする。そして緋目に声をかけた。
「やあ」
緋目は振り返りもせず、肩をビクッと震わせる。
「僕は奏夜。将来はこの家の」
当主と言おうとした途端、緋目は立ち上がり、逃げていった。
「ちょっと!」
追いかけると緋目は更に速度を上げ、気づけば屋敷の裏手にある雑木林の中に入って行き、そのまま見失う。
「奏夜さま。誰もいないからといって、飛び降りるようなことをしてはいけないと言ったじゃありませんか? 普段の癖が大事な場面で出たらどうするのですか?」
「爺……」
奏夜の耳に爺の説教は入ってこなかった。奏夜は振り返り、背後に立っていた爺に言う。
「爺、緋目さんに逃げられた……」
「今の話を聞いていましたか? いや、とにかくそれは後にしましょう。逃げたのは追いかけたからですよ」
「じゃあ、追いかけなければいいのか」
奏夜は雑木林の中に入る。
雑木林の地形は頭の中に入っている。だから緋目が行きそうな場所は大体分かる。
奏夜は先回りし、緋目を捕まえることにした。
奏夜は茂みに隠れ、緋目が来るのを待つ。緋目がこちらに近づいた時、奏夜は茂みから飛び出し、緋目を抱きしめた。
「捕まえた!」
「きゃあああああああああああああああああ!」
緋目は奏夜の顔面を殴るとそのまま走り去ってしまった。地面に倒れた奏夜のもとへ爺が慌てて駆けつけてくる。
「奏夜さま! ご無事ですか?」
「……追いかけていないのに殴られた」
「そりゃ捕まえるからですよ」
爺は奏夜の上半身を起こす。殴られた顔面がじんじんと痛む。
「あの方向……まずいな」
緋目の向かう方向には深く急な崖がある。一度落ちれば抜け出せない危険な崖だ。奏夜は跳ねて立ち上がり、全速力で駆ける。
*
不吉な目だと言われてきた。
緋目は生まれつき赤い目をしており、そのせいで、嫌厭されてきた。
「いやだわ、あの血の色の目」
「不吉だ。近づいちゃダメ」
「見つめられたら不幸が移るよ」
「こっち来るな、魔眼」
誰もが避けるせいで緋目はいつも独りぼっちだった。それは家族でも同じだった。
緋目が母親の所に行こうとした時、母親がこう呟いていた。
「どうしてあの子だけあんな目なのかしら? 他の子たちはまともな目をしているのに」
両親は黒と深紫の瞳だった。他の兄姉もどっちかの色で、赤い目なんていなかった。
たまたま母親と兄姉がおらず、緋目しかいなかったある日、父親の客が来ていたことがあった。その時、緋目はお茶を出しに行った。客は緋目にお礼を言ったが、緋目と目が合った途端、嫌悪の表情を浮かべた。
「なんて不吉な目だ! 嫌なもの見た」
客は怒って帰ろうとするのを、父親は必死に宥めていたが、結局無駄に終わっ
た。この時、父親は緋目を殴り、「絶対に誰とも目を合わせるな」と言った。
自分の目のせいだ。そう思った緋目はできるだけ目を閉じて過ごしてきた。視
覚が制限されたせいで聴覚と嗅覚が発達した。
迷惑をかけたくないから、なるべく外に出ず、誰とも会わないように努めてきた。
だが今回、長女の日和が体調を崩したせいで、仕方なく緋目が日和の代わりに父親に同行することになった。多分、取引先に娘に優しい父親の姿を見せるためだろう。それだけのために緋目を部屋から出したのだ。
本当は緋目を出したくなかったくせに。
雑木林の中を全速力で走る。目は閉じているが、音と匂いで状況は分かるから問題ない。
そのはずだったが、ふと足元がぐらつく。目を開けた時、緋目は足を踏み外し、崖に落ちる寸前だった。
気づかなかった。どうしよう、落ちる。
「よっと」
どこか間抜けな声がし、腕を掴まれた。そのまま引っ張られる。緋目はバランスを崩し、誰かの腕の中に納まった。
見上げるとさっき緋目が殴ったばかりの男性――奏夜が緋目を支えていた。
目が合うと、奏夜はハッとする。
(どうしよう……)
また、不吉だ、不幸だ、血の色だ、嫌な目だって言われる。
確か奏夜は、今回の父親の取引先の息子だったはず。もしかしたら緋目の目のことを報告して取引が破棄されるかもしれない。
嫌だ、お願い、目を見ないで。
緋目はぎゅっと目を閉じた。
奏夜は緋目を立たせると言う。
「きれいな目だ……」
緋目は瞼の力を緩め、ゆっくり目を開ける。
「ごめん、驚いて言葉が出なかったんだ。こんなにきれいな目をしている女性を初めて見たからさ」
「……」
気づけば目から涙がこぼれていた。今まで言われたことがなかった言葉に驚いたのか、感極まったのか、分からない。
「ええっ! なんで泣くの? 何か嫌なこと言った? だったらごめんねえ! 泣かせるつもりはこれっぽっちもなくて、あっ、そうだ」
奏夜はポケットの中から水色のセロファンに包まれたお菓子を出す。
「ほら、チョコレート。おいしいよ。落ち着くよ。ねえお願い、泣き止んでよ」
「奏夜さま! あなたはまた! チョコレートを台所から盗んだのですか!」
「説教は後! ねえ、緋目さん!」
緋目は返事をせず、奏夜の横をすり抜け、走り去る。
奏夜は呆然と立ち尽くすしかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます