40話 突然の訪問者

こんな風に生活は日常に戻り、ぎこちなかった2人の間も徐々に慣れ親しんで穏やかなものになって行く。


怪我から2か月ほど経ったある日、


香世は日課の掃除をタマキと一緒にこなすようになっていた。


3人いた女中も、2人いつの間にか本宅へ移ったらしく、香世は簡単な料理もタマキに教えて貰いながら楽しく家事をこなしている。


どんなに失敗しても、正臣は食べてくれるし

それを楽しそうに喜んでくれる。


「何でもこなせる香世を知っているだけに、

今の初心の香世を見ていると、得した気分になる。」

そう正臣が言うから、無くした3年間を悔やみ

、もっと頑張って早く取り戻そうとしたくなる。


今朝も正臣の為、だし巻き卵を作ったのだが、火加減を誤り焼き過ぎて少し焦げて硬くなってしまった。


落ち込んでいると、正臣が台所までわざわざ来て、むしろそれが食べたいと失敗した卵焼きを指定してくる。


これはこれで美味しいと言って、パクパクと食べて心配する香世を尻目に、楽しそうに笑って仕事に行ってしまった。


正午前、 

タマキと2人で部屋の掃除をしていると、


「ごめんください。」

玄関の方から声がして、香世とタマキは掃除の手を止める。


「どなたでしょうか?ちょっと見て来ますね。」

と、タマキが襷掛けにしていた着物を解いて

身なりを整えながら玄関に向かう。


香世も急いで割烹着を脱いで着物をはたき、

身なりを整える。


「香世様、大変です!大旦那様です。

今、居間の方に通しましたので、急ぎでご挨拶に向かって下さい。」


普段落ち着いているタマキが慌てたように

香世を急きたてる。


「大旦那様は、陸軍大将をされていてとても威厳に満ちた方です。旦那様よりも倍怖い方ですから、くれぐれも粗相の無いようにお気をつけ下さい。」

そんな風に言われると、倍に心配になってしまう。


「何のご用意かしら?」

香世はビクビクしながら居間に向かう。


そっと襖を開け、廊下に正座をして指を揃え丁寧にお辞儀をする。


「初めまして、樋口香世と申します。」

震える心を何とか鼓舞して挨拶をする。


「ああ、君が香世さんか。

挨拶は良いから早くもっと近くに来てくれ。」

そう手招きされて居間に招かれる。


頭を上げて初めて正臣の父と対面する。


正臣から家族の事は怪我の後、何も聞かされていなかった。


記憶を失う前ならばもっと聞いていたのかもしれないが…


突然訪れた正臣の父に対して予備知識は無く、どんな人物かもついさっきタマキから聞いたぐらいしか知らない。


ただ、醸し出す空気は威厳に満ち、

只者では無いピリピリした緊張感が体を包む。


居間には部下なのか眼鏡を掛けた男が、少し離れた所に座っていて、そちらの方にもお辞儀をする。


「ここに座りなさい。」

と、座布団を指されおずおずと対面するように向かい合って座る。


しばらく品定めのようにじろじろと見られ、香世は居心地の悪さを感じながら、それでもこちらから声をかけるのは無礼になるのではと、凛として姿勢を保ち静かにしていると、


「正臣は良くしてくれるか?」

と声をかけられる。


「はい。いつも気にかけて頂いています。」

と控えめに答える。


「あいつは軍人気質の堅物で人を寄せ付けんような、扱い難い男だから苦労しているのでは無いか。」


「いえ、とんでもございません。

いつも優しく接して頂いております。」

正臣を思い浮かべる時、いつも屈託なく笑う笑顔しか浮かんでこないほど、穏やかな人だと思っている香世はびっくりして耳を疑う。


「アイツは子供の頃から腹の底を見せないような生け簀がないヤツだった。

香世殿に何度も会わせろと言っていたのに、

一向に機会を作らず、今日までほっとかれたから、痺れを切らせて勝手に来させて貰ったんだ。」

そう言って、正臣の父は盛大に笑う。


「そうだったのですか?

…何も知らずご挨拶もせずに、大変な無礼を申し訳ありませんでした。」

香世は頭を下げて自分の無礼を謝る。


「そなたのせいでは無い。

アイツがひた隠しにするから悪いのだ。

いずれ結婚はさせる気でいたが、

わしが勧める縁談はことごとく駄目にする始末。まったく我が子ながら正臣は手に負えん。」


「そう…なのですか。」

何とお声がけするべきか香世も戸惑う。


「まずは、この度の銀行での事件、怪我人も少なく早期解決が出来たのは貴方のお陰だと聞いている。ありがとう。」


思いがけずお礼を言われて香世は驚き恐縮する。


「そして何より怪我の具合も心配したが、

無事に安静期間も乗り切り普通の生活に戻ったと聞いている。その後、頭痛や眩暈などは無いか?」

香世の体の事まで全てお見通しのようだ。


「はい。今は普通に生活させて頂いております。正臣様にはいろいろと良くして頂き感謝の言葉もございません。」


香世は正臣の父の真意が分からず、ただ言われるままお礼を言葉にする。


「そこでだ。

そろそろ正臣の奉仕活動も、ここまでで良いのでは無いかと思われる。」


香世は唖然としながら、

「…奉仕、かつどう…?」

と繰り返す。


「あれは、あんな仏頂面して奉仕活動に余念が無くて、身寄りの無い子や居場所を失った人間に、やたらと目を向け手を貸そうとする。

軍人たる者、上に立つ者としてその優しさは命取りにもなる。」


そこで正臣の父は言葉を切って、付き人のような男に合図をする。


眼鏡の男は鞄から何かを取り出し、香世の前まで歩いて来たかと思うと、分厚く包まれた風呂敷包みを差し出す。


「ここに、1万円があります。

この先、女1人で生きるのには十分なお金だと思われます。

貴方にはこれを持って正臣様との縁を切って頂きたい。」


眼鏡の男は、感情も出さず淡々とした顔で香世に言い聞かせる。


香世はハッとして、一気に地面に叩きつけられたかのように、ズシンと体が重くなるのを感じた。


目の前の風呂敷包みを見つめ、

ああ、これは手切れ金なんだと頭の何処かで納得をする自分がいる。


決して私の存在は認められていた訳では無く、ただ正臣様によって守られていただけに過ぎないんだ…


しばらくその風呂敷包みを見つめたまま、

放心状態になる。


「まぁ、無理もない。

正臣に会ってから、貴方は愛されていると錯覚していたのかもしれないからな。

少し考える時間を差し上げよう。

ただ、正臣には早く跡継ぎをと言う声が上がっている。普通なら1人や2人子がいても良い年頃だ。貴方自身もそうであろう。

こんな所に長居をしていていいのか?」


私は…正臣様の人生の邪魔をしているんだろうか…香世はそう思うと、


頭の中でガンガンと音が鳴り響くのを感じ

こめかみがぎゅっと痛くなる。


その時、

玄関がガラガラと乱暴に開かれた音、その後ドカドカと廊下を大股で歩く音が聞こえて来たかと思うと、


バンッと居間の襖が力任せに開かれ、部屋にいる誰もが振り返る。


ブーツのまま和室にズンズンと入って来て

目の前に立ちはだかる。


「貴方は何をしているんだ!

俺に何の断りも無く勝手に来るなんて、無礼にも程がある。」


低く響く声はら確かに泣く子も黙る鬼のようだと香世はまるで他人事のように、自分の婚約者を見上げた。


「今日は大事な会議があったのではないか?

仕事を放っておいて何をこんな所に来ているんだ。」


父は念には念を入れ、正臣が帰って来られ無い時間帯を選びやって来ていた。


「俺にとって何よりも最優先は香世の事です。地位も名誉も例え家を捨ててでも、彼女から離れる事はありませんから。

こんな金なんかで彼女の価値は測れる訳がない。」

正臣は力任せに風呂敷包みを蹴り倒す。


香世はハッと目が覚めたかのように立ち上がり、正臣の目の前に立ち、


「正臣様…私は大丈夫ですからこれ以上は、堪えて下さい。」

必死になって止める。


「香世…

この人の言う事は一切気にしなくて良い。

俺自身が香世を求めているのだから、親が何と言おうが関係無い。」

正臣は香世をぎゅっと抱きしめる。


ああ、良かった……


香世はそう思いながら、フワッと頭から血が引くのを感じ、ガンガンと鳴り響く頭痛のせいかスーッと意識が遠のく。


「香世?…どうした⁉︎」


遠くで正臣が呼ぶ声が聞こえる。


必死で起きなくてはと思うのに、

まるで水の中に引き込まれるように、身体がどんどん沈んで意識を失ってしまう。


「香世、香世!!」

突然意識を失った香世に正臣は何度も呼びかける。

血の気を失った頬に触れ、何とも言えない恐怖に襲われる。


「タマキ、香世が倒れた!

至急病院に連絡を!今から車で病院に運ぶ。」


大声でタマキに伝え、父を睨みつける。


「もし、香世にもしもの事があったら一生恨む。」

そう投げ捨て、香世を抱き上げ玄関へと急ぐ。


父はしばらく思考が停止したかのように、

その場から離れられないでいる。


いつも冷静沈着な正臣が、声を荒げ親に刃向かうなんて…。


恋や愛にうつつを抜かしている場合では無い。そう言いたかった、冷静になれと…。


眼鏡の男が散らばった札束を拾い集める。


「大旦那様、この金はどうしますか?

彼女、受け取りそうもありませんね。

しかも、あの感じでは正臣様は、本気で全て捨ててしまわれますよ。」


「…アイツの、本気を知りたかっただけだ。」


「しかし、香世様にもしもの事があった場合、殺されかねませんよ。」

どんな時でも冷静な部下に苦笑いする。


「古賀、お前が正臣に教えたのか?

昔からお前はアイツ寄りだったよな。」

古賀と呼ばれた眼鏡の男はほくそ笑む。


「まさか。私は誰の味方でも無く、ただ任された仕事をするまでです。」


眼鏡の奥の目はどれだけホッとしたか分からない。

古賀は昔から二階堂家の金庫番で、香世の身請けの時も花街に居た。


あの時から、正臣の本気は分かっていた。


だから、何があろうと助けに来るだろうと思っていたのだ。

少し荒療治だったが、大旦那様にも痛いほど伝わっただろう。


香世様の体調が悪くなるのは予定外だったが…。

もしもの時は自分も殺されかねないな、

と古賀は思う。

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