35話 退院
退院の日。
正臣は車で香世を実家まで送る為、退院荷物を車まで運び込む。
正臣と暮らしていた記憶の無い香世は、とりあえず実家に帰すべきだと思っている。
出来れば連れ帰りたいが無理強いはできない…。
でも、香世の父親は入院中一度も顔を出さず、実家に戻ったところで居場所が無いのではないかと、少なからず心配してしまうのだが…。
いろいろ理由をつけて連れ帰りたい気持ちもある。
要は、正臣自身が香世と離れて暮らす事が寂しいだけなのだ…。
そう思って1人苦笑いする。
香世が病室を一回りして忘れ物が無いか確認していると、パタパタと小さな足音が近付いて来る事に気付く。
続いて、ガラガラと扉を開ける音。
「お姉様ー!!」
香世が振り返ると同時に小さな弟が足元に抱きついて来る。
「龍ちゃん!」
香世もぎゅっと抱きしめて再会を喜ぶ。
「元気だった?龍ちゃんは大きくなったねー!」
3歳までの龍一の記憶しかない香世は弟の成長に驚き嬉しくなる。
続いて姉とマサが駆け付ける。
「龍一坊っちゃま、廊下は走ってはいけません。」
はぁはぁと息をしながらマサが言う。
正臣も戻って来てきて挨拶をする。
「こんにちは。ご家族お揃いですね。」
日頃から愛想がある方では無い正臣だが、
今日はやはり嬉しいのか若干の笑顔を見せている。
「お迎えのお車を手配して下さりありがとうございます。」
姉は正臣にお礼を言う。
正臣の計らいで、運転手の前田が香世の実家を訪れ、香世の家族を病院まで連れて来たのだった。
「いえ、きっとご家族で退院後の生活について聞いて頂いた方が良いと思いますし、その方が香世殿も心強いと思うので。」
正臣はそう言って、小さな来客を見つけて膝を折る。
「久しぶりだな、龍一君。俺の事は覚えているか?」
正臣は大きな手を出して龍一の小さな手を握り握手をする。
香世はその姿を見て、なんだかとても可愛らしいと笑みをこぼす。
「覚えてるよ!僕に剣道を教えてくれるの忘れてないよね?」
目をキラキラさせて龍一がそう言うから、
正臣も笑顔を返し、そんな龍一の頭をポンポン撫でる。
「もちろん、忘れていない。」
そう言って立ち上がる。
「香世、忘れ物は無さそうか?
医者がこちらに来てくれるそうだから、家族で今後の生活の事を聞いた方が良い。」
「二階堂様、ありがとうございます。何から何までお世話になりました。」
香世が頭を下げる。
「入院費さえも二階堂様に払って頂き、本当に心苦しいばかりです。」
姉も頭を下げてお礼を言う。
「いえ、婚約者として当たり前の事をしたまでです。」
二階堂は爽やかに笑う。
「あの、二階堂様!
二階堂様はいつお暇なんですか?
早く剣道を教えて欲しいです。」
龍一は期待の眼差しで正臣を見る。
正臣は苦笑いしながら龍一に話しかける。
「お姉様達を守れる強い男になりたいんだよな。姉様の体調さえ大丈夫なら、明日からでも剣道を教えてやろう。」
「ありがとうございます。
香世姉様、僕が悪い人からお姉様達を守るからね。」
香世は嬉しそうに龍一を抱き上げる。
「ありがとう。龍ちゃん重くなったねー。
姉様は龍ちゃんが怪我したり痛い思いをするのは嫌だから、ちゃんと正臣様の言う事を聞いてね。」
「はい。」
元気良く返事をして香世にぎゅっと抱き付く。香世もぎゅっと龍一を抱きしめる。
その横で正臣はハッと香世を見入っていた。
今、俺の事を名前で呼んだ…
目覚めてからの香世は二階堂様と他人行儀で呼んでいたのに。
本人は無意識だったのかも知れないが、
もしかしたら失った記憶をいつか思い出す事もあるのかも…と、淡い期待を持つ。
正臣は、香世から龍一を抱き上げ片手で抱え、片手で最後の荷物を持って歩き始める。
「荷物を運んで来る。」
そう言って病室を出る。
駐車場に向かう廊下を歩きながら龍一に問う。
「龍一君は何故、剣道をやってみたいんだ?」
「剣道だったら僕でも、お父様に勝てるんじゃないかと思ったんです。」
「君は樋口家にとってたった1人の男だから、家族を守らなければいけない。
だけど、父上だって家族なのだから、戦うよりも認めて貰うようにならなければいけないんじゃないのか?」
「でも、お酒を飲んで酔っ払って香世姉様に手をあげるお父様は嫌だよ。
だから、僕は強くなって守るんだ。」
正臣はやはり、香世を実家には帰したくないと本気で思う。
「そうか…俺も君と一緒に姉様を守りたいんだ。いいか?」
「本当に?良かった。だったら香世姉様は安心だね。」
ニコニコと笑う龍一がぎゅっと正臣に抱きついて来る。
可愛いな、と思いながら頭を撫でる。
「お姉様と二階堂様はいつ結婚するの?」
「出来れば今すぐにしたいけど、今の姉様は俺の事を忘れているんだ。」
子供に話す話では無いのかもしれないが、正臣は弱ったような顔をして龍一を見る。
「きっと姉様は心のどこかで二階堂様の事は忘れてないよ。
絶対思い出すから大丈夫だよ。」
「そうだな。思い出してくれるといいんだが。」
子供にまで慰められてしまったと、正臣は苦笑いする。
車に荷物を載せて、龍一を後部座席に下ろす。
「前田、香世の弟の龍一君だ。一緒に遊んでやってくれ。」
「了解っす。龍一君、運転手の前田です、よろしく。何して遊ぼうか?」
「チャンバラごっこしたい!
学校で男の子達がやってるんだ。僕、出来なくて仲間に入れないから…。」
前田は近くの小枝を拾って2つに折り、
「良し、どっからでもかかって来い。」
と前田が龍一を誘い楽しそうに遊び出す。
コイツは子供の扱いが上手いからきっと直ぐに打ち解けられるな、と思う。
正臣は、龍一に小枝を刀に見立てて握り方を教える。
龍一は今まで父親以外の大人の男達と、ここまで触れ合った事は無かったので、とても嬉しくて楽しくて気持ちも上がる。
しかも思った以上に正臣が、細かくしっかりと教えてくれるから、龍一は自分が少し特別になった気がしてくる。
「あの、二階堂様。」
そこに、樋口家の女中マサが正臣を呼びにやって来る。
「お医者様がいらっしゃったので、
二階堂様もご一緒にと清子お嬢様から言付かって来ました。よろしいでしょうか?」
遠慮気味に声をかけられ、正臣は龍一の頭を撫でて立ち上がる。
「自分は今の香世殿にとっては、知らない人間に近い存在だと思うので、席は外した方が良いかと考えております。」
丁重に断るべく言葉を選びながらマサに話す。
「香世様には二階堂様が必要です。
それは記憶を失っている今でもです。どうか、お早めに病室にお戻り下さい。」
マサは深く頭を下げて二階堂にお願いする。
はたして今の香世にとって、自分が側にいて本当に良いのだろうかと迷いがある。
ただ、自分の思いを香世に押し付けているようで、香世にとってはありがた迷惑なのではと…。
「自分が今の香世殿にとって相応しいのか
どうか、彼女の側にこのまま居て良いのか
迷うところですが…。」
正臣はあえて自分の気持ちを露とする。
「香世様には正臣様が必要です。
それはお側で見ていれば分かります。
記憶が無くなったとしても変わりません。」
マサは力強い言葉を正臣に伝える。
「今も、二階堂様が戻らない事に不安を感じておりますので、早くお戻り下さい。
龍一坊っちゃまの事は私も見ておりますので。」
マサはチャンバラごっこを楽しんでいる龍一
に目を向け微笑む。
「一つ伺いたいのだが、
香世殿の父親の暴力はそれほど酷いものなのですか?」
龍一が教えてくれた事を二階堂は気にかけていた。
「それは…香世様が?」
「いや、龍一君が教えてくれました。」
マサは一瞬目を伏せ、そして語り出す。
「会社の経営が酷くなってから特に…
ご自宅で自暴自棄になるような事が多くなって、物に当たったり時に香世様に当たったりと酷くなっていきました。
お姉様にお手は出さないのですが…
やはり最近も、物を壊す行為は度々見られます。」
「そうですか…。」
ますます正臣はそんな実家に香世を帰すのは心配でならないと思う。
「分かりました。
とりあえず、病室に戻ります。」
正臣は踵を返してスタスタと歩き出す。
その頼もしい後ろ姿をマサは見守りながら、どうか香世様をお守り下さいと手を合わさずにはいられなかった。
病室に向かう正臣の足はどうしても早歩きになってしまっていた。
これ以上香世を傷つける事は何人たりとも許せない。それが香世の父親だとしても。
正臣は強い憤りを感じながら香世達が待つ病室の扉を開ける。
「お待たせしました。自分も同席してよろしいですか?」
「勿論ですわ。」
姉が安堵の顔を向け、そっと香世を伺うと同じようにホッとしているように見える。
それから、医者と向き合って3人で今後の生活について聞く。
頭を強く打っている香世は、少なくても後1カ月程は安静に暮らす事。
頭痛や頭が重いなどちょっとした体調不良も見逃さないように、自分を労り休む事。
お風呂は短めに睡眠は多め、体が疲れたと感じた時はちゃんと休息を取り、水分は多めに摂る事。
週に一回の通院を忘れない事。
他にもいくつかの注意点があったが、何よりも再度頭を強く打つような事があった場合、命をも脅やかす事になると宣告された。
3人はそれぞれ真剣な面持ちで医者の話を聞き、噛み締める。
「それでは、もし何か心配な事がありましたら、いつでもご連絡下さい。
ご退院おめでとうございます。」
と、医者は頭を下げて病室を後にした。
それから諸事情を看護婦から聞き帰路に着く。
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