36話 退院祝い
3人で駐車場に行くと、楽しそうに汗をかきながらチャンバラごっこに精を出す龍一と前田が、マサに見守られて遊んでいた。
「あの…あちらの男性は?」
香世は不思議に思い正臣に聞く。
「あれは、うちの運転手の前田だ。
子供好きな奴だから気にせず今後も使ってやってくれ。」
正臣はそう言って龍一の側に寄って行く。
「龍一君、なかなか筋が良いぞ。
構え方にもいろいろあるからまた教えよう。」
「はい。とっても楽しみです。」
龍一は香世達が来たのに気付き元気に大きく手を振る。
香世もにこやかに微笑み手を振り返す。
3人は二階堂の車に乗り込む。
女中のマサは父を1人にする訳にはいかないと
樋口家へ帰る。
前田はそんなマサを送る為、正臣に一礼して車に乗り込む。
「前田、ご苦労だった。後はよろしく頼む。」
部下を労う正臣をそっと見つめて香世は思う。
目覚めてから毎日、正臣は仕事帰りに病室に寄ってはマッサージをしてくれた。
さすがに足は恥ずかしくて拒んでしまったが…
おかげで指の強張りは直ぐに取れ、リハビリがスムーズに進み退院も予定より早くなった。
毎日会う中で、不思議と彼がいない時間は長く、早く夕方にならないかと思うようになっていった。
そのくせ彼と過ごす時間はあっという間に通り過ぎ、帰った後からまた会いたいと思うような気持ちになった。
とどのつまり、正臣が特別で大切な人なのだと実感したのだ。
これから実家に帰ると、正臣とはなかなか会えなくなるのだろうか…
香世は人知れず寂しい気持ちになる。
車に揺られながら外の景色を楽しむ。
三年間の月日の間に建った建物や、取り壊され空き地になってしまった場所。
香世の目からは全てが新鮮で新しい物に感じ、思わず感嘆の声を上げる。
「うわあ。ここは何処ですか?こんな建物初めて見ました。」
目をキラキラして車窓を楽しんでいる。
「去年完成した武道館だ。」
正臣はバックミラー越しに香世を見る。
今の香世は15歳の少女に見えるから不思議だ。
隣に座っている龍一は遊び疲れたのか、眠そうに船を漕いでいる。
「この後、我が家に寄って欲しい。
香世殿の退院祝いをと、うちの女中が夕飯を用意しているので。」
「まぁ、わざわざありがとうございます。」
姉は嬉しそうに微笑む。
香世は恐縮して、
「あの、本当にいろいろして頂いて申し訳ない限りです。ありがとうございます。」
ペコリと頭を下げる。
「気にしなくていい。こちらがしたくてしている事だ。
それより龍一君が眠そうだな。」
香世が龍一の揺れる体を慌てて押さえる。
正臣はハハッと笑い、仲の良い兄妹をミラー越しで見守る。
どうかこれからは心穏やかに暮らして欲しい。
香世の害になるであろう父親の事をどうにかしなければと、正臣は強く思う。
二階堂家に着き、香世はどこか懐かしい思いに駆られる。
抜け落ちてしまった三年間の記憶の中に
確かにこの風景はあったのだと思うけど…
玄関先に、女中が3人並び頭を下げている。
正臣が龍一を抱き上げ先を歩き、香世と姉は後に続く。
なんだかこんな事も以前あった気がする。
霞がかった記憶の糸を手繰り寄せようとするのだが、その途端キーンこめかみが痛み、思い出す事をまるで妨害しようとするのだ。
「香世、大丈夫か?」
正臣は、こめかみを押さえる香世を心配する。
「少し横になった方が良いな。」
正臣は女中の1人に二組の布団を敷くように頼む。
香世が玄関を上がると、
「香世様、ご退院おめでとうございます。
本当に怪我の一報が届いた時は心臓が止まるかと思いました。」
タマキと言う女中に抱きしめられ、たじろぎながらもここに私は居たんだと実感した。
「タマキ、香世が驚いているから。」
と正臣が静かに制してくれる。
「申し訳ございません。つい、嬉しくて。」
タマキが目頭を抑えて微笑む。
「お夕飯を準備して頂きありがとうございます。」
この家での記憶の無い香世は曖昧なお礼しか出来ないが、それでも嬉しく思う。
タマキは慣れた手付きで客間に布団を敷いてくれた。
龍一を布団にそっと下ろした正臣は、隣の布団に香世を促す。
「大丈夫ですよ。そこまでではありませんから。」
と、香世は遠慮するのだが、正臣は有無を言わせず手を引いて寝かせる。
「少し横になっていろ。夕飯が出来たら呼ぶから。」
香世に対して極度の心配性になる正臣は、香世のほんの少しの変化も見逃さない。
「頭痛がするのはどういう時だ?」
香世の額にそっと大きな手を置いて、熱が無いかを確かめる。
「何か記憶を辿ろうとする時でしょうか?」
香世は正臣の手を心地よく感じながら目を閉じる。
「では、もう何も考えるな。
何も思い出そうとしなくていい。
香世が俺を必要としてくれるなら、これからまた新たに築けばいいんだ。」
優しく髪を撫ぜ香世に言い聞かす。
「思い出したいのです。
二階堂様の事…
こんなにも良くしてくれるのに申し訳ないのです。」
「気にしなくて良い。
俺は自分がしたい事をしているだけなのだから。」
と正臣は笑う。
それから正臣は少し待っていろ、と言って客間から出て行ってしまう。
隣には龍一がスースーと可愛い寝息を立てて眠っている。
香世も不思議と安らぎを覚えうとうとと眠ってしまった。
正臣が着流しに着替え、冷たい水を持って再び客間に戻ってみると、香世はぐっすり眠っているようでホッとする。
気休め程度かもしれないが、少しでも香世の頭痛が治れば良いと、濡れ手ぬぐいを額に置いてみる。
この家の記憶が無い香世が、どれほど不安で苦しい思いをしているのか、計り知れないが…
出来れば、このままこの家に留まって欲しいと思う。
幼さの残る寝顔を見ながら考える。
香世は幼い弟の為にも、実家に帰ると言うのだろうか。
正臣はなんと声をかければ良いか迷っている。
香世が目を覚ました時、
既に辺りは暗くなっていた。
額にある濡れ手ぬぐいをそっと取る。
まだそれは冷たくて、
きっと誰かが絶えず取り替えてくれた事が伺われる。
あっ!と思って慌てて隣の布団を覗くと、
寝ていたはずの龍一は既に居なくて、
驚き慌てて身なりを整える。
耳をすますと隣から子供のはしゃぐ声が聞こえてホッとする。
おずおずと立ち上がり部屋を出て隣の部屋へ向かう。
襖を開けて香世は廊下に正座をして手を付く。
「あの、ごめんなさい。
随分長く寝てしまった様で…お待たせして申し訳ありません。」
頭を下げて非礼を謝る。
サッと正臣は立ち上がり、香世の側まで来たかと思うと、手を引いて立ち上がらせ、明るい部屋の中に導いてくれる。
「香世は退院したばかりだからまだ体力が戻って無いのだ。
むしろ良く寝れたのなら良かった。」
正臣は香世を座布団に座らせて安堵した表情になる。
すかさず龍一が香世に走り寄り、正臣と将棋崩しをして遊んでいた事を嬉しそうに話して聞かせる。
「そう、良かったね。」
嬉しそうな龍一を見て香世もホッとする。
「私なんてお風呂を頂いてしまいましたよ。」
えっ⁉︎と思って姉を見ると浴衣姿の姉がいる。
「今夜は遅くなるから泊まっていって欲しい
と、いってくださったのよ。」
優雅な感じで既に寛いでいる姉に驚く。
「俺が提案したのだ。
時間を気にしなくて済むから泊まって欲しいと。
それよりもタマキが先ほどからソワソワしている。将棋を中断して先に夕食にしよう。」
将棋の側で龍一の世話を焼いていたタマキが立ち上がる。
「そうしましょう。さぁ、龍一坊ちゃんの
ご馳走を運んで参りますよ。」
タマキはそそくさと立ち上がり夕飯の準備に部屋を出る。
龍一も喜んで香世の側に座布団を並べ座り直す。
「私もお手伝いしてきます。」
と、香世が立ち上がろうとするから正臣は慌てて止める。
「今夜は香世の退院祝いなんだから、何もせず座っていろ。」
正臣に制され、若干申し訳な無さを感じながら頭を下げる。
姉をチラリと見ると、優雅に微笑んでまるで旅館にでも泊まっているかのように、寛ぎお茶を啜っている。
「少しは姉上を見習うべきだぞ。」
正臣は笑って立ち上がり、
部屋の片隅に置かれた茶道具に向かい、急須を持って香世の為にお茶を注ぎ、目の前の机に置いてくれる。
香世はその一部始終を目を丸くして驚き、正臣をつい見つめてしまう。
それに気付いた正臣は可笑しそうに笑いながら、
「以前も驚かれた事があったが、
俺の実家は男所帯だから男が茶を汲むのは当たり前だ。気にしないでくれ。」
香世の家では、父はもちろん姉さえもお茶を淹れないのだから驚いても仕方がない。
「龍一もお茶を飲むか?」
2人はすっかり仲良くなったようで、正臣に言われて龍一も立ち上がる。
「僕も自分で淹れてみたい。」
嬉しそうに急須に近付きお湯を注ごうとするから、正臣がすかさず手伝いちょっとした作法を教える。
へぇーと感心しながら聞く龍一は、完全に正臣を受け入れた様子で、敬語も取れてお喋りに花が咲く。
「香世姉様はお料理も上手なんだ。
正臣様はだし巻き玉子は食べた事ある?
凄く美味しいからおすすめだよ。後、煮魚もお味噌汁も僕大好き。」
嬉しそうに話す龍一に、
「俺も香世のだし巻き玉子は大好きだ。」
と、正臣も龍一にそう笑いかける。
記憶を失った香世にとって自分が料理をするなんて考えられない事だ。
「私が料理…」
自分の事を言われているのにまるで他人の事の様は不思議な感覚がする。
沈んだ香世の表情を見て正臣はしまったと
思う。
香世が料理をするようになったのはきっと、
家が成り立たなくなってからなんだ…。
「また1から学べば良いではないか。」
香世に声をかけるが、気休め程度にしかならない事は重々分かっている。
それでも香世は少し微笑み頷いてくれる。
料理が机に所狭しと並び贅沢な夕食になった。
龍一は好き嫌いなくなんでも食べた。
香世も久しぶりの家庭料理に、沈んでいた気持ちも浮上して楽しく食べる事が出来た。
正臣は龍一の世話ばかりをしてる香世が、余り食べてない事を心配し、分かっているかのように香世の好きな物ばかり、小皿に取り分けてくれた。
姉は好きな物ばかりを選び取り、デザートには洋菓子店のバターケーキまで出て来て、とても贅沢な宴になった。
全て食べ終えてさっきの続きの将棋で、正臣と龍一は風呂の順番を決める。
崩し将棋は小さな指の子供の方が有利で、正臣は負けてしまった。
「僕、香世姉様と一緒にお風呂に入りたい。」
龍一がそう香世に甘えてくる。
「龍一、香世はまだ退院したばかりだから長湯は良くない。俺と入るか?」
えっ⁉︎
それには香世が驚く。
「そんな…それは申し訳ないです。」
慌てて言うが、大喜びの龍一は既にその気になってしまい、止める事も出来ず、大丈夫だと正臣も龍一を連れ立って、風呂へ行ってしまった。
居間には手持ち無沙汰になった香世と、姉の2人だけが残りどうしようと顔を合わせる。
「良いんじゃないのかしら。
いずれ香世ちゃんの旦那様になるのだから、
もっと甘えてしまえば良いのよ。
私はそれが出来なかったから…。」
姉が結婚した事も離縁して帰って来た事も記憶に無い香世は、なんて言葉をかけて良いか迷ってしまう。
「お姉様は、その…政略結婚だったの?」
「あれは政略結婚だったのかしら?
お父様から紹介されて結婚したけど、好きとか嫌いとかそう言う感情は無かったわね。」
普段からふんわりした雰囲気の姉だから、本心がどうなのか香世には良く分からない。
「あの時ああしていればとか…
ちゃんと向き合って話をしていればって後悔する事はあるけど、相手には結婚前から好きな人がいたの。私はお飾りの妻だったのよ。」
笑いながら話す姉の気持ちは読めないけれど、少なからずの寂しさを感じる。
「お姉様を好きだって言ってくれる殿方は
これから絶対現れるわ。」
「出戻りの没落令嬢なんて貰い手は無いわ。
だから香世ちゃんは必ず幸せになって欲しいの。二階堂様にこれほど大切にされて、愛されていて羨ましいくらいよ。」
そんな風に姉から言われて香世は驚き、姉を見入ってしまう。
子供の頃から姉に敵うものは無かった。
花道も茶道も華のある姉に比べて自分は劣っていると思っていたし、努力をしなくてもなんなくこなしてしまう姉を羨むばかりだった。
だから、いつからか姉を助けて守る事が、
自分の使命のようなものだと思っていたところがあった。
その姉が自分の事を羨ましいと言う。
香世は驚くと同時に思い出せない記憶の中で、正臣にどれほど守られ大切にされていたのだろうと…。
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