33話 悲しき現実

前田の運転で病院へ行く。


「お疲れ様です。午前中にタマキさんを連れて病院へ行ったんですけど、まだ意識は戻ってなくて…だけど呼吸も心拍も通常に戻ってきてるらしいのでもう直ぐです!」


「…そうか。香世が目覚めるまで帰って来るなと…大将からの命令だ。

家にいてもやる事が無い。しばらく病院で過ごす事にする。」


せっかくなら香世が目覚めた時に側に居たいと正臣は思う。


「へぇ。大将にしては粋な計らいっすね。

俺もボスは働き過ぎだと思ってたんです。」

前田も働き過ぎだから、正臣は同じように休めと伝える。


途中、病室に飾る花と香世の好きな味噌まんじゅうを買う。


病室には香世の姉と、樋口家の女中が付き添い香世の世話をしてくれていた。


「この度は、不甲斐ない自分のせいで、香世殿を守る事が出来ず、申し訳けありませんでした。」

正臣は深く頭を下げる。


「二階堂様、香世は元々こういう性分なのです。誰かの為に命を差し出す子ですから、沢山の人質の命を守る事が出来て安堵しているはずです。

決して貴方のせいではありまんから、謝罪いはお止めください。」


姉からそう言われ、正臣は幾分か気持ちが救われた。


夕方頃、香世の姉達はまた明日来ますと帰って行った。


香世と2人になりっきりになる。


「香世。」

と呼びかけても反応は無い。

頬や手先に触れると少し温かいのがせめてもの救いだ。


「香世、味噌まんじゅうが食べたいと思って買って来た。早く目覚めて一緒に食べよう。」

手を握りながら語りかける。


しばらくそうしていると正臣もいつしか寝てしまっていた。




香世が意識不明になって2日目。


正臣は全ての時間を香世の為に使い、出来るだけ側に居たいと、時間の許す限り病院に居続けた。


軽く病室で朝食を取った後、すでに日課になっていた香世の手や足のマッサージをする。

栄養剤の点滴だけで生きていると言っても過言ではない香世は、目に見えて痩せていっている。


その細い腕を見る度に心が痛む。

早く目覚めてくれ。

そう祈りながらマッサージをする。


その時、ピクッと指が動いた気がして、

ハッと正臣は目を凝らす。


「香世?」


顔を覗き頬に触れ呼びかけると、瞼が少し震えた気がする。


「香世、頼む、目を覚ませ。」

祈る様な気持ちで声をかけ続ける。


今にも動き出しそうな唇を見つめ、

衝動的に口付けをしてしまう。


すると、

ビクッとした香世が重たい瞼を懸命に開き、眩しそうに目を開け始めた。


「香世!香世!」



ぼぉーっとした頭で香世は正臣を見つめている。


「香世、ここがどこか分かるか?」


そっと、問いかけてみる。


香世はちょっとだけ首を動かして辺りを見渡す。


「ここ…病院?」

か細い声で呟く。


「そうだ。…良かった。良かった…。」


正臣は抱きしめたいのを我慢して、

香世の手をぎゅっと握りながら、

震える手で枕元にある呼び鈴で看護婦を呼ぶ。



「……あの…どちら様ですか?」


香世が不思議そうに正臣を見てそう言った…。




(正臣side)


こんなに嬉しくて、

そして辛い日はこの先なかなか無いだろう。


その後、駆けつけた医師の検査の結果、香世は頭を打った衝撃によって、一部の記憶が無くなっている事を聞かされる。


三年分…。


彼女が姉を通り魔から守って怪我をした

あの日の記憶までしか無い事が分かった。


今、彼女は自分がまだ15歳だと思っている。


俺の事はかろうじて、あの時助けてくれた軍人とだけ認識されているらしい。


2人で過ごした数ヶ月は香世の記憶から消し去られた。


だけど、香世が意識を取り戻してくれただけで良かったと、込み上げる感情を抑えながら思う。


他は何も望まない。


俺は病院の廊下にある長椅子に座りながら天を仰ぐ。


あの時、香世の事を早く助けたい一心で、

知らない女だと、犯人に告げた自分の言葉が胸に刺さる。


このまま…


本当は彼女を自由にしてやるべきなのだろうか…。


俺では無い誰かと幸せになる香世を思い浮かべてみる。


とても無理だ…

彼女のいない人生なんて…


俺自身が到底、手離せそうも無い。



数時間後、彼女の姉が女中と共に駆けつけて来た。


俺は病室の片隅で香世達の様子を伺う。


少し幼なく見えるのは精神年齢が15歳の

香世だからだろうか。

姉と話している香世は穏やかでにこにこと笑っていた。


そうか…


三年前まで樋口家は安泰で苦労も無く、

令嬢として何不自由なく暮らしていたんだ。


苦しくて辛い時期を忘れてしまった香世は、

ある意味幸せなのかもしれない。


「香世ちゃん、二階堂様の事覚えてないの?

貴方の婚約者なのよ。

いろいろ助けてもらった事も覚えてない?」

姉が香世に聞いている。


香世は首を傾げて、

「婚約したのはお姉様でしょ?

私はまだ学生だもの、結婚なんて考えてもいないわ。」


「香世ちゃん、本当に忘れてしまったのね…

二階堂様は貴方の事をずっと探してくれていたのよ。やっと出会えたのに…

なぜ香世ちゃんばかりが、辛い思いをしなくてはならないの。」

姉は両手で顔を覆い泣き始める。


「香世様が目覚めてくれただけでマサは嬉しいです。きっと段々思い出しますよ。」

女中が姉を慰めている。


「ごめんなさい…。

二階堂様にも申し訳なくて…私も思い出したいんですけど…。」

香世がこめかみを押さえながら苦しそうな顔をする。


俺はベッドに歩み寄り、


「自分の事はこの際、気にしないで頂きたい。香世殿が目覚めてくれた事だけで十分です。傷が治り早く家に帰れる事を願いましょう。」


俺自身の事は後回しにしてでも、香世が元気になってくれたらそれだけでいいと思う。


俺との事はもう香世の気持ちに任せよう。


必要とされるかどうかは…俺次第だ。


「自分は一度仕事に戻りますので、また夕方来ます。」


一礼して、この場は家族だけの方が良いだろうと病室を出る。


2日ぶりに司令本部に足を運ぶ。


執務室に入ると待ち侘びていた様に真壁が

出てくる。


「香世さんの意識は戻りましたか?」

食い気味に聞いてくるから、


「ああ…。」

とだけ答えて事務机の椅子に座る。


真壁は、どう見ても嬉しそうに見えない俺に怪訝な顔を向ける。


「意識は戻ったが…

ここ3年ほどの記憶が無い。

だが、戻って来てくれただけで十分だ。」

その言葉に真壁はしばらく言葉を無くす。


そんな真壁を尻目に淡々と仕事を始める。


「仕事、思っていたよりこなしてくれたようで助かった、ありがとう。」


机の上の未処理の書類を見やりながら、

真壁に礼を言う。


真壁はやっと、言葉を取り戻したかのように

事務机に駆け寄り、


「…そんな…そんな事って…。」


この数ヶ月、2人を見守ってきた真壁にとって

も衝撃的な真実だった。


「きっと、真壁の事も分からないだろうな…。

通り魔事件までの記憶しか無いんだ。」

淡々と話して聞かせる。


「そんな…今まで築いてきた2人の絆とか

どうなるんですか?無になるんですか?」

真壁が逆に感情を露わにする。


「また、ゼロからやり直すしか無いと思っている。香世が記憶を失ったからと言って、

俺は変わらないし、離れる気持ちは一切ない。」

真壁を見据えてそう告げる。


その目は強く揺るがない。

例え今までが無になったとしても、香世の心を取り戻す為にまた始めるしかない。


「…そうですか。

何も変わらないなら自分は別に…良いのですが。」

真壁も少し落ち着きを取り戻してそう答える。


それから黙々と2人で仕事をこなし日が暮れる。

「そろそろ、ここまでにするか。」

俺は仕事をキリの良いところで目処をつけ

机を片付ける。


「良かったら今夜飲みにでも行きませんか?」

真壁も片付けながら俺を誘って来るが、


「すまないが、香世の所に寄って帰るからしばらくは無理だな。」

そう告げて軍服を着て執務室を出る。


「せめて下までご一緒させてください。」

真壁が急いでついて来る。


「気を遣わなくてもいいぞ。

俺は別に落ち込んでも無ければ、憤りを感じている訳でも無い。

ただ、真実を受け入れてその運命に身を置いているだけだ。」

階段を駆け下りながら話して聞かせる。


「自分にも何かお手伝い出来る事がありませんか?」


真壁がすかさずそう言って来るから、

「何があったら言うから心配するな。」


と伝え、安心させるように真壁の肩をポンと叩き玄関で別れる。

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