31話 決断

その頃、

香世達人質は疲労が見え始め、

腕の縄を解いて欲しいなどの要求が出始める。


しかし、犯人側は便所と水分補給のみ許すぐらいでなかなか解放も進まない。


人質の中には老人達を中心に、

気分が悪くなったり身体が痛いと訴える人も出てきていた。


シクシクと泣き始める婦人が出てくると、

香世もどうにかしなければと本格的に思考を働き始める。


さっき、正臣の声を聞いた。


彼の部隊が対応に駆り出された事が確認出来た。


私に出来る事はただ一つだろうと、

香世はここにきて決心を固める。


人質を見張っている犯人側の1人に話しかける。


「あの、私…樋口香世と申します。

そちら側の1番お偉い方とお話しがしたいのですが、取り継いで頂けませんか?」


すると男はどんな用かと聞いてくる。


「私はこの交渉の指揮を執る二階堂中尉の

婚約者です。人質の中には体調を崩されている方もいらっしゃいます。

どうか、早く解放して頂きたく思います。

人質は私1人で充分なのでは無いでしょうか?」


この女、何を言い出すのかと怪訝な顔をする。

誰もがいち早く逃げ出したい状況なのにも関わらず、

自分1人が人質として残り後の人質を解放しろと言うのだ。


「気は確かか?」

何を言っているのかと言う具合で、

なかなか取り入って貰えない。


「あの、私はかつて伯爵を名乗っていた家の者です。父が事業に失敗しあなた方と同じ道のりを辿りました。

いくらばかりか同情しております。

どうぞ、私を交渉ごとにお使い下さい。」


ここでやっと、犯人側の男が主犯格の男に話をしに行ってくれた。


香世は呼ばれ、主犯格の男と話をする機会を設ける事が出来た。


「お前が、二階堂の婚約者か?その証拠は?」


香世は考える。

正臣との繋がりを証明出来るものなんて…


あっ、銀行口座はどうだろうかと思い付く。


「あの、銀行口座に正臣様からの振込が月に一度ございます。それは証拠にはなりませんか?」


主犯格の男は早速、銀行員を呼び出し

樋口家の帳簿を持ってこさせる。


確認すると確かに毎月10円ずつ二階堂の名で

振込があった。


この女、我々がここを出ていく時に少なからず役に立つと判断する。


「お前1人が残り、他の人質を解放しろと言うのか?」


香世は大きく頷く。


「人質の多くは疲労が出始めております。

徐々に体調不良者が増えると困るのは貴方様の方ではございませんか?」


主犯格の男は考える。


確かに、これ以上不満が出ると僅か5人では抑えられないかもしれない。

そう思うとそろそろここから脱出する頃合いなのかもしれない。


「よし、分かった。お前を連れてここから脱出する。」


そう言うと、香世を立たせて盾としながら窓際に向かう。


香世は心の中で正臣に謝る。


ごめんなさい…正臣様…

貴方に辛い決断をさせるかもしれない…

許して下さい。


正臣にひたすら謝罪しながら窓際に立つ。


二階堂正臣。この女、お前の婚約者か?

自分から名乗り出てくれた。

俺達はそろそろここから脱出する。

このまま、この女を盾にして車に乗り込む。

お前らは無能だ。

この女の命が欲しかったら手足出すなよ。」


主犯格の男が香世の首に短刀をあて玄関へと歩き出す。


「中尉!香世様です。どうしますか?

このままでは連れ去られてしまう。」

酒井も真壁も咄嗟の事で判断に迷う。


正臣は香世の姿を捉え、今までに無く怒りを覚える。


なぜ自ら名乗り出たのだと、奥歯を噛み締め

正臣は香世を見据える。


「俺が主犯格を惹きつける…お前らは残り4人を抑え込め。」


「了解。」

真壁は咄嗟に判断し、部下に手信号で指示をだす。


二階堂は突然、主犯格に向けて歩みよる。


「二階堂中尉!!」


真壁はその後を慌てて着いていく。


主犯格の男との距離僅か2メートルほどまで迫る。


「それ以上近付くな!!」

犯人が香世の首元の短刀を押し当て叫ぶ。


白肌から赤い血が浮かび上がり一筋の線を残す。


正臣はピタリと足を止め言い放つ。


「その女、まったく知ない。俺には婚約者などいない。一般人を巻き込むな、彼女から手を離せ!」


「女、謀ったな!」

主犯格の男は香世を強い力で突き飛ばす。


瞬間、

正臣は飛び蹴りで短刀を蹴り落とし、

腕を掴んで一本背負いの如く持ち上げ地面に

投げ飛ばし、裏手を取って腕をねじ伏せる。


ここで初めて香世に目を向け、ピクリとも動かない事にこの上無い不安を覚える。


「香世…?

真壁ー!!」

真壁を呼び、男を託し倒れた香世に走り寄る。


「香世…。」


正臣は、素早く裏手に縛られていた縄を男が落とした短刀で切り、香世の手を解放する。


「香世、香世…。」

名前を呼び抱き起こそうとした手をハッとして止める。


香世の額から血が流れ出ている…


正臣は自分の身体から、サッと一気に血の気が引くのを感じる。


「救護班!!」

叫ぶと同時にポケットからハンカチを取り出し、額の傷口を抑える。


今朝、香世が正臣に渡してくれたハンカチが見るみる真っ赤に染まっていく。


香世の笑顔が頭の中で走馬灯のように浮かんでは消える。


縄で擦り切れた手首を取り脈を測る。

指先が氷のように冷たい…


「香世、香世……目を覚ませ!」

微弱な脈を感じだが弱々しい…。


救護班が香世を固定し担架に乗せるのを

呆然と見る。


手についた血を呆然と眺め、

これは何だ…?と、正臣は立ち尽くす。


身体全体から力が抜け落ち膝から崩れそうになる。


「…ふん…お前の女じゃねえか…嘘つきやがって。」

真壁に押さえつけられ縄で縛り上げられた男が嘲笑う。


正臣はお前のせいだと言う形相で、男に駆け寄り拳を振り上げる。


一髪殴ったところで気持ちが晴れる訳もなく…

「二階堂中尉…。」

真壁にがんじがらめにされ力を落とす。


「香世様に付き添ってあげて下さい。

現場の後処理は自分が指揮を執ります。」


今は冷静さを欠く正臣は指揮官としては使い物にならない。


「頼む…。」


香世が運ばれる輸送車に乗り込み、応急処置をされる香世を見守る事しか出来ない。

首の傷は幸い薄い切り傷で血が止まっていた。


手首の縛られた跡は赤く腫れ、

痛々しく擦り傷を作っているが、救急医により包帯が巻かれた。


「意識は?」


「反応はありません。額の出血を止める為

今から縫合をします。席を外しますか…?」


「いや、ここにいる。

出来るだけ跡が残らないように縫ってくれ。」

香世の手を握り無事を祈る。


どうしようも無く心が揺れる。

あの時、知らないふりをしなければこんな事にはならなかったのだろうか…


彼女を早く離せとばかりに放った言葉が取り返しのつかない事になったのかと、後悔ばかりが頭をよぎる。


香世はどう思ったのだろうか…


彼女の心を傷付けた……と、思う。

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