第26話 これから(正臣side)

香世と2人の生活はこうして始まり、穏やかな日常になっていった。


龍一と真子も小学校に入学し同じ組になったと喜んでいる。


香世の父の会社も父の意志とは裏腹に、

新社長の松下宏伸を筆頭に役員も一部代わり、新たな体制で再出発した。


会長職に香世の父をと再度打診したが、受け入れられず、話し合いは結局決裂した。


しかし俺としては香世の実家にどうにかして、安定した資金を送り生計を立てて欲しいと思う。

その事もあってある事を思い付き松下と共に話を勧めた。


それは、香世を会社役員の1人にすると言う事だ。


そうすれば給金を得る事ができる。

それに、昔からの株主には前社長の縁があり、少なからず血縁者を入れた方が円滑に事が進むと、松下からの要望もあった。


しかしまだ、この事を本人には話せないでいる。


香世は普段、奥ゆかしく従順で一歩後ろを歩くような人だ。


それは父からの教えが強いのだと思うし、未だ男尊女卑が根強いこの社会では仕方が無いと思うのだが…。


彼女の持っている時折り見せる凛とした強さは何者にも変え難く。

新しい時代に担っていけると密かに俺は思っている。


そして今夜会社の役員となるべく、書類を持って松下が家を訪れる事になっている。


香世には来客があるから夕食の準備をお願いしたのみだ。


「二階堂中尉、今宵は定時でお帰りですか?」

総理暗殺未遂事件での傷もすっかり癒えた

真壁が、帰宅を急ぐ俺の足を止める。


「ああ、どうした?」


「良かったら剣の稽古をつけて頂きたかったのですが…お急ぎのようですね。」

真壁は悟ったように苦笑いをする。


「すまない。今夜は自宅に客人が来る。

出来るだけ早く帰らなければならないんだ。」


「お引き止めしてしまい申し訳ありませんでした。香世様が待っていらっしゃいます。

お気を付けてお帰り下さい。」


「ああ、明日稽古の時間を取るようにする。」


「ありがとうございます。」

敬礼する真壁を後に、俺は挨拶もそこそこに階段を足速に降りる。


松下が来る前に家に着きたい。


あいつが信用ならない訳では無いがいささか女癖が悪い。


口も上手く優しい見た目も相まって、そこら辺の女子ならすぐに虜になってしまうと前田が言っていた。


俺の婚約者だと知っていて口説く事は無いと

思うが…

香世だけで合わせるのは不安しか無い。


自ら車を走らせ家路に急ぐ。


途中、香世への手土産も忘れず購入する。


当初、喜ぶ彼女の顔が見たくて毎日のように買って帰っていたが、『こんなに食べてばかりいたら太ってしまいます』と心配し出したので、仕方なく週に一回で抑える事にした。


香世は食が細く、まだまだ心配になる程

痩せていると思うのだが…。


敷地内の駐車場に入ると、

松下を迎えに行った前田の車が停まっていた。


松下のヤツ…


予定の時間より随分早過ぎないかと、若干の苛立ちを覚える。


車を降り足早に玄関へ向かう。


玄関を開けると、

そこには松下と前田が香世と談笑していた。


「お帰りなさいませ、正臣様。」

香世が直ぐに俺に気付き、わざわざ草履を履き、タタキに下りて近付いて来てくれる。


「ただいま。

松下…予定より早く無いか?」

香世に微笑み返し、松下に目をやる。


「思いの外、前の仕事が早く終わってここに直行したんだ。

ついさっき来たばかりだよ。」


松下は爽やかな笑顔を俺に向ける。


「ボス、お帰りなさい。

俺はお止めしたんですよ。

ボスが居ない時に香世ちゃんに会うのは良く無いって。」


お前だって勝手に香世と会ってるだろ…

と悪態を吐きたいのを我慢してひと睨みする。


「ほら、機嫌悪くなっちゃったじゃないですか。松下さんのせいですからねー。」

前田は松下に抗議する。


「香世、着替える。

松下は居間で待っててくれ。」


「了解。お邪魔しまーす。」


靴を脱ぎ、タマキの案内で松下は居間へ向かう。


松下とは学生時代からの腐れ縁で、

昔から勉強が出来て頭のキレるヤツだった。


大人になり、独り立ちすると会社を立ち上げ頭角を現してきた。


香世の父の会社を託すのはコイツしかいないと思うほど、信頼はしている。

実績も申し分無い。


ただ、女癖だけが悪い。


にこやかにしているだけで女子が寄ってくるのだと、本人は言うが決してそうは思わない。


「正臣様、お鞄をお持ちします。」


香世は俺の心配する気持ちなんて知ってか知らずか、純真な瞳で俺に微笑む。


俺は居間に向かう松下の背中を睨みつけながらブーツを脱ぐと、


「お身足を洗いましょうか?」

と、香世はいつも通りに足を洗おうとしてくれる。


「ありがとう。」


上がり框に腰掛け、近くに置いてあるタライに足を入れしばし休息する。


「今日は暑かったですね。お疲れではありませんか?」


香世が優しい手つきで足を拭いてくれるから、今直ぐ抱きしめ触れたいと思う気持ちが湧き上がる。


そんな浅はかな気持ちを制御しながら、

「大丈夫だ。今日は事務仕事ばかりをこなしていたから、退屈なぐらいだった。」

と、何食わぬ顔でそう告げる。


「それは、お疲れ様です。」


「松下は…いつから来ていた?」


香世に気になっていた事をつい聞いてしまう。


「つい10分程前でしょうか。

正臣様がまだなのに家に上げるのも気が引けて…早く帰ってきて頂いて助かりました。」


俺を見上げる香世の眼差しは、いつ見ても綺麗で澄んでいる。

思わず吸い込まれそうになる。


「嫌な事は無かったか?

………その、松下に何かされなかったか?」


香世は首を傾げながら、

「特に、大丈夫ですよ?

とてもお話ししやすい方で良かったです。」


「そうか………着替えに行く。」


あいつと香世が言葉を交わすのさえ、面白く無いという感情に囚われながら、立ち上がり、箪笥部屋にそそくさと向かう。


俺の後を香世は静々と着いてくる。


俺はどうしよう無い苛立ちについ早足になってしまう。


襖を開けて部屋に入る。


香世はその後ろを小走りで着いて来て襖を閉めて振り返る。

と、同時に詰め寄り抱き締め急速に唇を塞ぐ。


「……っん………⁉︎」


驚き瞬きを繰り返す香世を、容赦無く攻め立て、我を忘れてもっと深く繋がりたいと、唇をこじ開け舌を差し入れ、傍若無人に口内を動き回る。


「……あっ……ん…。」

息を乱した香世が、カクンと力が抜けたようにしゃがみ込みそうになのを、ギュッと抱き止めて、ハッと我に帰る。


「すまない……嫉妬した。」


自分自身さえ制御出来ないほどの嫉妬心に

心が乱れた。


こんな気持ちは初めてだ。


「…ど……どう…したんですか…。」


香世は真っ赤になった頬を抑え

息を整えながら戸惑いの目を俺に向けてくる。


その目がハッと見開き、慌ててハンカチを出して俺の唇を拭き始める。


またやってしまった…


俺は小さくため息を吐きながら気を沈める。


「松下は…生粋の…モテ男だ。」


「そうなんですか?

私は正臣様の方が良いと思いますけど…」


香世が首を傾けながら、何気なく呟くその言葉に、俺がどれだけ安堵したか当の本人は

分からないだろうな…。


そう思いながら、香世の唇を親指でそっと触れて落としてしまった紅を拭う。


罰の悪い気持ちになりながら着流しに着替える。


香世が選んでくれたであろうその着物は

紺に黒の線が織り込まれた物で今まで着た事がない事に気付く。


「香世、この着物はどうした?」


「あっ…気付かれてしまいましたか?」


香世はイタズラがバレてしまった子供のように歯に噛む。


「あの…

前に姉と一緒に街に買い物へ行った時、

正臣様に似合いそうだと思い買ったんです。

自分で縫ってみたくて…

ちょっと時間がかかってしまいましたが…」


「香世が買って縫ってくれたのか?」


ご令嬢として育った娘が裁縫までやるのだろうか。


「そんな事まで出来るんだな。高かったんじゃないか?」


着物に腕を通しながら、

綺麗に縫い合わされた細かい目を見て

感心する。


「いえ、反物で買えば普通より随分安く買えますし、いつも沢山のお着物やお洋服を買って頂いているので、ささやかですがお礼です。」


「ありがとう、大切に着る事にする。」


香世の手縫いだと思うといっそう大事にしようと思う。


「…いろいろ整えたら来てくれればいい。」

 

俺のせいで乱れてしまった髪や化粧を申し訳なく思いながら、先に居間へ行く事にする。


居間では松下がタマキと談笑して待っていた。


「旦那様、松下様はとても楽しい方ですねー。」


タマキは普段俺には見せた事のない楽しそうな顔をする。


さすが色男…

年増の既婚者でさえ虜にするのかと、心の中で悪態を吐きながら苦笑いする。


「タマキ、夕飯は話が終わってからにしたい。香世を呼んで来てくれ。」


「分かりました。

では、お茶をお持ちしますね。」

タマキは終始にこやかに松下に笑いかけ、

香世を呼びに部屋を出て行った。



「今回の事はいろいろ世話になった。」

俺は素直に頭を下げて礼を言う。


「いや、俺としてもあの会社は経営次第で変わると思っていたから、良いタイミングで手に入れる事が出来て良かったよ。

それより、香世さんが前社長の娘さんか?

全く似てないな。」

そう言って松下は笑う。


「香世は絶対、母親似だ。」

似てなるものかと思ってしまう。


「お前が女子にそれほどまでに入れ込むとは珍しいな。」

何が言いたいんだ。


「まぁ、心配するな。

他人の物は奪わない主義だ。そう睨むな。」

松下は、ハハハッと笑う。


「今日の事だが…

まだ香世には何も話していない。

彼女はあの父親から男尊女卑を叩きこまれて育っている。令嬢特有の太々しさも、負けん気も持ち合わせていない。

俺だけでは多分説得し切れないと思ってお前を呼んだ。」


「お前にしては珍しく弱気だな。

惚れた女には強く出れないのか?」


「香世が少しでも嫌がる素振りをみせたら

強くは押せない。

彼女の錘になるようなら無理強いはしないでくれ。」


「ふーん。かなり大事にしているのだな。

分かった。上手く話してみるが思慮深い人とだと見た、説得するには時間がかかりそうだ。」


この短時間で香世の何を分かったのだと言いたくなるが、この男の話術に頼ったのは俺だから強くは言え無い。


ここは我慢するしか無い。

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