第22話 2人きりの時間
家に着き2人きりになり、どうしようも無く空気が重くなる。
香世は冷えた部屋を温める為、木炭に火を付けたり火鉢の準備に追われている。
正臣は風呂でも沸かそうと思い立ち、暗い廊下に出て風呂場に向かう。
「正臣様、お風呂の準備は私がやります。
お疲れでしょうから、お部屋でお寛ぎ下さい。」
正臣の動きを素早く感知した香世が、後ろを小走りで追いかけて来る。
正臣は足を止めて振り返り、香世が向かって来る足元を行灯で照らす。
「大丈夫だ。風呂ぐらい俺でも沸かせる。」
「いえ…家では出来るだけのんびり過ごして頂きたいのです。」
困り顔で俺を見てくるが、俺とて手持ちぶたさで何か動いていないと、要らぬ事を考えて苦しいのだと心で思う。
先程、軍病院の廊下で中断された話の続きをしなければならないと思うのに、
香世を失うかもと思う気持ちが重たくのしかかり、話し出す事に躊躇してしまう。
譲れない思いで2人風呂場まで一緒に歩く。
湯船のお湯に触れてみるとまだ幾分温かい。
正臣はたたきに降りて釜に火を焚べる。
「先にお風呂にお入りになりますか?
今着替えをお持ちします。」
「そうだな。汚れたし先に入るか。」
正臣がそう言うと、香世は着替えを取りに
またパタパタと部屋に戻って行く。
戻って来た香世に火の番を変わり、正臣は風呂場に行き着ている服を脱ぐ。
風呂に入れば、知らぬ間に出来た小さな擦り傷や切り傷がいくつもあり少し沁みた。
「お湯加減どうですか?」
外から香世がそっと呼びかける。
「ああ、丁度良い。香世も後で直ぐ入るといい。身体が冷えてしまっただろう?」
「はい、ありがとうございます。」
正臣の少しの気遣いがとても嬉しい。
香世は思う。
今だったら話せるだろうか…
ここに居たいと、出来ればずっと…
病院の廊下で好きに実家に帰っても良いのだと言われた時、ズキンと心が痛んだ。
私は用無しだと追い出されてしまうのだろうか…。
「香世は…もしかして料理も作れるのか?」
正臣が不意に聞いてくる。
「はい…一通りは出来ます。」
「そうか、一度食べてみたかったな…。」
まるでこの生活が終わってしまうかのような
正臣の口ぶりに、香世は戸惑う。
「…良かったら明日…作りましょうか?」
震えてしまう声を、どうにか抑えながら香世は言う。
「そうだな。弁当でも作ってくれるか?
花見に持って行こう。」
「はい…。」
お互い、それぞれの思いを抱いて、あと少し、もう少し一緒に居たいと切に願う。
入浴の後、
夕飯を食べていなかった正臣の為、残り物で簡単なお茶漬けを用意して、正臣の手土産のどら焼きと共に一緒に食べる。
正臣はそんな簡素なお茶漬けをいたく気に入ってお代わりまでした。
香世はどら焼きを食べながら、
この日常がずっと続けばいいと願ってしまう。
自分の気持ちはとっくに決まっているのに
言い出す機会が見当たらない。
たわいも無い話しで気持ちを紛らわし
気付けば寝る時間になってしまう。
2人寝支度を整えて自室のある2階に向かう。
階段で躓きやすい香世の為、いつしか自然と手を繋いで、階段を登るようになっていた。
言わなければ、言わなければと思う度、香世の心臓はドクドクと脈打ち、逆に緊張して一言が言い出せないでいる。
部屋の前で立ち止まる。
離れる手を寂しく思い、ついに言葉を発する。
「あの…正臣様。」
「香世…。」
声が重なり2人びっくりしてお互いを見つめる。
「何だ?香世から申せ。」
正臣にそう促されて、香世は繋いだ手をぎゅっと握って話し出す。
「あの…私…あの…正臣様を……
ずっと前からお慕い申し上げております。」
自分の鼓動で声が掻き消されてしまうのでは無いかと思うほど、ドクドクと脈打つ。
ただ、繋いでいる手をじっと見つめていたが
一向に正臣からの返事が無く、戸惑い目が泳ぐ。
「あ、あの…実は…私、三年前…
あの時助けてくれた人に会いたいと…ずっとお礼が言いたいと思い、あの街路樹に何度も行ったんです。
でも…顔もうる覚えで…名前も分からなくて…正臣様だって分かって嬉しくて…出来ればずっとお側に置いて頂きたいと…。」
突然、ぎゅっと抱きしめられてびっくりする。
「これは…夢か?」
正臣が言葉を発する。
先程から、ドキドキと脈打つ心臓の音は、夢では無いと香世に告げている。
「…夢、では無いかと…。」
「香世には…想い人がいるのではないのか?」
よく分からず香世は首を傾げる。
「…私は…正臣様が良いのですが…。」
香世は言葉から溢れる思いはもう止める事も出来ず、抱きしめられながら必死で言葉を探す。
「男物の腕時計を大事に握りしめていた…。」
「あれは…母の形見です。」
母?
正臣は混乱する頭を整理しようと、
思わず抱きしめた腕を緩め香世を見下ろす。
「あの、元は祖父のものだったのですが…
母が大切にしていたので、私にとっては母の形見です。」
正臣を仰ぎ見て懸命に香世は言葉を紡ぐ。
「では、写真は…?
いつも大事そうに持ち歩いているだろう?」
写真…
「あっ、これは弟です。母の忘れ形見の大切な樋口家の長男なんです。」
香世は慌てて写真を襟元から取り出して、
正臣に見せる。
小さな男の子が家の玄関ですまして立っている写真だった。
ただ…俺は勘違いをしていただけなのか?
思わず深いため息を吐く。
「あの…ごめんなさい。勘違いをさせてしまって…。」
香世はしゅんとして俯く。
「いや、俺が……香世を失うのが怖くて聞けなかったんだ。香世のせいでは無い。」
正臣は香世をそっと抱きしめる。
「俺でいいのか?
軍人なんていつ死ぬか分からぬ人間と一緒になっても、幸せでは無いかもしれないぞ。」
「私は正臣様が良いのです。
ですが……父から傷者なんかに嫁の貰い手は無いと言われてましたし…
正臣様には相応しくないと、思うのですが…」
自信がなくなって声が段々小さくなってしまう。
「始めから、俺の妻になれと言っている。
香世が傷者なら俺なんて数え切れないほど傷だらけだ。
それに、三年前から探していたのは俺も同じだ。」
えっ⁉︎っと香世は正臣を見上げる。
「やっと見つけ出したと思ったら、花街なんかに連れて行かれると聞いて、どんだけ俺がハラハラしたか…。
もう、離してやれない。覚悟しろ。」
腕の中でこくんと頷く香世が愛しい。
このまま部屋に連れ込みたいと思う衝動を
抑え、廊下は冷えるからと香世を部屋に入れる。
「おやすみなさい。」
襖越しに香世が言う。
「おやすみ。」
挨拶を交わし自室に入る。
正臣は布団に寝転がり、この1週間悩んでいた事は何だったのかと思い息を吐く。
ホッとしたのと同時に信じられない気持ちが強くて、夢なのかとつい思ってしまったが…
抑えきれない気持ちが溢れ出す。
しかし、香世の父親の事をちゃんとするまではと気持ちを制御する。
香世が側に居てくれさえすれば、他には何も要らないと思うほど、気持ちが満たされ安定するのが分かる。
一方香世は、部屋でしばらく放心状態だった。
正臣様も三年前から私を探してくれていたなんて嬉しい。
気持ちが通じ合った高揚感と、これからの不安やいろいろな気持ちが混ざり合って、動悸は治らずなかなか眠りにつく事が出来なかった。
朝、香世はあまり寝れなかったわりには、スッキリ目が覚める。
昨夜の事を思い出すたび、恥ずかしさが押し寄せてきて、思わず赤面してしまうほどだ。
だけどともすれば、夢だったんじゃ無いかと思うくらい現実味がない。
まだ、外は薄暗く手元さえも見えない暗さだった。
休日も変わらず正臣は6時半に起床する。
あまり朝早くバタバタして起こしてもいけないと、借りた古典文学の本を行灯の明かりを頼りに読んで時間を潰す。
そうしていると、
段々と空が朝に向かって明るくなっていくのを感じ、そろそろ着替えようとお布団から這い出る。
空気はキンと冷えていて、心も体も一気に目が覚める。
着物に着替え、階段をそっと降り台所に向かう。
「おはようございます。」
女中が2人台所で、朝ご飯の支度を始めていたので挨拶を交わす。
初日は敵視されていたけれど、正臣が注意してくれた日からちょっとずつ、態度は軟化しているように感じる。
正臣からの手土産のどら焼きを2人にもお裾分けすると、
「ありがとうございます。」
と、笑顔で受け取ってくれた。
台所は2人に任せて香世は掃除をしようと玄関に向かう。
以前、女中のような事はしなくて良いと言われたから、咎められるだろうか…
ちょっと立ち止まり悩む。
でも気になる…
門の側には梅の花が散り始めていて、石畳みに花びらが散りばめられている。
今は綺麗だけど、きっと車に踏まれてしまうと掃き難くなってしまう。
しばらく悩むが、
意を決して箒と塵取りを持って門を開け、入口付近の花びらを掃く。
「おはようございます。」
誰かに声をかけられて、手を止め振り返るとそこには、いつも新聞を届けてくれる本屋の息子が立っていた。
「おはようございます。ありがとうございます。」
頭を下げて新聞を受け取る。
「あれから毎朝、新聞をお届けしてるんですけどなかなかお会い出来なくて…。
心配しておりました。
女中のお仕事は、朝早くから大変ではないですか?
もし貴女さえよかったらうちの本屋で働きませんか?」
「あの…いえ、仕事ではなくて…。」
香世は今の自分の立場をどう説明するべきか迷う。
ガラガラガラ
突然、玄関戸が開いて振り向くとそこには
正臣が着流し姿で立っていた。
「正臣様⁉︎おはようございます。」
昨日の今日で恥ずかしくて、心拍が一気に急上昇するのを感じる。
女中のような事をするなとまた咎められるだろうか…
香世は節目がちになりながらつい緊張してしまう。
正臣は構う事なくつかつかとこちらに歩いてくる。
「おはよう。」
微笑みを浮かべながら頭を撫でるから、ホッとして香世も微笑む。
本屋の息子はその正臣の態度を怪訝な顔で見ながら、それでもペコリと頭を下げて挨拶をした。
「新聞をいつも有難う。」
正臣は素っ気なくそう言って彼を見据える。
「ただ、彼女は俺の婚約者だ。気安く話しかけないで頂きたい。」
本屋の息子は
えっ⁉︎と驚き香世と正臣を交互に見つめる。
正臣から鋭い目線を投げかけられて、背筋が凍るのを感じる。
「婚約者…ですか?
知らずに…お声がけしてしまい申し訳ありませんでした。」
そう頭を下げその場を後にする。
本屋の息子は密かに香世に恋心を抱いていた。それは香世が何度も通ってくれた女学生の頃から…。
身分違いの恋だと思っていた。
彼女を見るだけで、少し言葉を交わすだけで、満足する程の淡い恋だった。
香世がお店に来なくなってから、樋口家のお取り潰しの話を聞いて不謹慎ながら、自分にもチャンスが来たのかもと思っていたのに…
二階堂中尉…
巷では冷酷無慈悲な軍人だと聞く。
彼女は大丈夫なのだろうか…。
香世は本屋の息子が去って行く後ろ姿を呆然と見送っていた。
今、正臣様は何て?
私の事を婚約者って⁉︎
その言葉を噛み締めて、やっと気持ちが動き出す。
「香世。」
呼びかけられてハッとして謝る。
「申し訳ございません。女中のような真似はするなと言われていたのに…。」
頭を深く下げて詫びる。
「別に怒ってはいない。」
正臣に手を引かれ、玄関内に戻される。
「俺を朝からハラハラさせないでくれ…。」
どう言う事だろうと香世は首を傾げる。
離してもらえない手を見つめ、香世は正臣の言葉を理解しようと考え込む。
と、突然手を引っ張られ抱き締められる。
びっくりして心臓がドクンと波打つ。
「ま、正臣様?」
「綺麗な花には虫が付きやすいから
心配で仕方がない…。」
「…大事なお花でしたか?」
香世は梅の花の事かと思いそう答える。
正臣はフッと笑い、
香世には単刀直入に言わないと通じないのだなと理解する。
「香世が大事だから…誰にも触れさせたく無い。あまり無防備でいてくれるな。」
分かったか?
と言う様に腕の力を解いて香世を見下ろす。
「ご、ごめんなさい。」
香世は瞬き、反射的に謝る。
「自分が誰のものか自覚しろ。」
そう言うと、額に、頬に、
…唇に熱くて柔らかいものが降り注ぐ。
それが正臣の唇だと気付くまで、香世には少しの時間が要した。
スッと離れて行ってしまう温もりに、少しの寂しさを覚えながら、香世は玄関にしばし佇む。
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