第15話 名誉の傷跡

そう言えば、お花見をしたのは遠い昔…

家族で近くのお宮に言ってみたらし団子を食べた思い出がある。


龍一はまだ生まれていなかった頃…


あの幸せな時間は二度と戻らないけど…


「お花見楽しみです…。」

香世は遠い思い出を懐かしく思う。


「香世は何処行きたい所は無いのか?」


正臣から不意に聞かれるが、

行きたい所?


頭にパッと浮かぶのは龍一の事だけで、

行きたい場所も、いつか龍一を連れて行ってあげたかった動物園くらいだ。


「…特には…。」


香世の心を動かすには一筋縄ではいかないな…と、遠い目をして窓の景色を見ている香世を運転しながらチラリと覗き見る。


…だからとて諦めはしないが。

いつか香世の心を手に入れたいと正臣は強く思う。


正臣の自宅に到着してほっとしたのも束の間

早々にタマキが「おやすみなさい」と別邸に帰ってしまった。


香世は2人っきりの空間は気まずい…と、

ソワソワしてしまう。


これは早く寝てしまうべきだと思い立ち、

正臣の風呂の支度を用意して、

郵便物に目を通している正臣に声をかける。


「あの…お湯が冷めてしまう前に入って頂きたいと思います。」


「ああ。」


正臣は返事をしたものの、なかなか立ち上がろうとはしない。


香世は困り、所在無く側にそっと控える。


「香世、ひとつ聞きたい事がある。」


一通り郵便物に目を通してから正臣がポツリと話し出す。


「はい…。」

香世はそっと正臣を見る。


「香世のその肩の傷は深かったのか?」

躊躇いながら正臣がそう聞いてくる。


「…お目苦しいものをお見せして申し訳ありません。」

香世は咄嗟に一歩下がって頭を下げる。


「その傷は、名誉の負傷ではないのか。

香世が落ち度に思う事は何も無い。

むしろ、誇らしく思うべきだ。」


香世は信じられない言葉に驚く、


「父は…この傷を負った時、

…傷もののお前は、これでもう嫁の貰い手が無くなったと嘆かれましたが…。」


それには正臣も苦い顔をして、

「俺はただ…痛かっただろうと案じただけだ。それほどまでに深い傷を負って…

生きていてくれて良かったとさえ思う。」


なぜこの人は…こんなにもあの時、

欲しかった言葉をくれるのだろう…


香世は言葉に出来ない思いが込み上げて、

泣きたくなる気持ちを必死に堪える。


「香世の価値は金なんかで決して決められ無い。ただ、あそこから救い出す手段がそれしか無かったのだ。

だから、俺に買われたのだと思って欲しく無い。

つまりは……

俺とは対等であり決して蔑む事はないのだ。

……昨晩は強引な事をして悪かった。」


歯切れ悪くそう言って頭を下げて、

正臣は立ち上がり部屋を出て行ってしまう。


香世はその背中を見つめ、しばらく放心状態になる。


香世は、昨晩泣いてしまった事を後悔する。


あの人はきっと泣いた私を気に病み、

心を痛めてしまったのではないだろうか。


今は軍人とは思えぬほど優しく繊細な方なのだと思うし、

正臣様の方こそ生きづらい人生を送っているのではと、心配になる。


正臣が入浴している間、

気持ちを平常心に取り戻そうと、香世は与えられた自室に戻り部屋の片付けに勤しむ。


何かしていなければ騒つく心がどうしようも無く高鳴ってしまう。


こんな状態で正臣とこれから上手くやっていけるのだろうか…

不安と心配で押し潰されそうになる。


だからといって帰る場所は何処にも無い。


明日からこの場所で何をどうしたって生きていくしか無いのだ。


高鳴る胸の正体も分からぬまま、

香世はソワソワする心をどうにか落ち着けようとする事で頭がいっぱいだった。


「香世、風呂が空いたから入って来い。」


襖の向こうで足音がしたかと思うと、正臣がそう声をかけてくれる。


「はい。」

香世は返事をして立ち上がり、替えの寝巻き代わりの浴衣を持って暗い廊下に出る。


正臣が髪を手拭いでガシガシと拭きながら、寒い廊下で香世が出て来るのを待っていた。


「足元が見にくいから、行灯を持って行った方がいい。」


「あ、ありがとうございます。」

行灯を譲ってくれるのかと思い手を差し出すと、なぜか手を握られ歩き出す。


「あ、あの…?」

香世は慌てて手を離して貰おうと引っ張るのだが、余計にぎゅっと握られる。


「風呂場までは段差があって危ない。

慣れるまで俺が連れて行く。」

抑揚の無い淡々とした声で正臣は言うが、


それとは比例して握られた手の温かさや、

時折振り返り香世の足元を気にしてくれる気遣いにドキドキが止まらない。


そんな感じだから、

足元もおぼつかない香世は土間に降りる踊りばたで、ついに躓いてしまう。


「キャッ…」


段差を踏み外しそうになり落ちそうになった果穂を、すかさず正臣が抱き止め、抱き上げる形になってしまう。


「ご、ごめんなさい。」


香世は戸惑い、離れようとするが、抱きしめられた力強い腕や、筋肉質な胸板や、風呂上がりの石鹸の香りに胸が高鳴り脳内パニックに落ち入る。


「気を付けろ。」

と、ふわっと土間に下ろされる。


「も、申し訳ございません。」


目を合わせられない程に動揺してしまい、

香世は暗いところで良かったと思うほど、

顔が真っ赤に熱ってしまう。


「部屋に戻る時も気を付けろ。

ここに行灯を置いて置く。」

正臣は何処までも冷静沈着に見える。


「あ、ありがとうございます。

あの、もう大丈夫です…お寒いので、早くお部屋にお戻りください。」


香世は恥ずかしさでパタパタと小走りで風呂場に逃げ込んだ。


私ばっかりが不慣れでドキドキして、子供みたいで恥ずかしい。

お風呂に浸かりながら香世は思う。


お風呂から上がりそそくさと部屋に戻る。

今日から2階の部屋を自室として使う様に

タマキから言われている。


正臣の隣の部屋だから、

香世はそれだけで緊張してしまう。


そっと足音を潜めて階段を上がる。


それでもおやすみの挨拶はするべきだろうと思い立ち、正臣の部屋の前まで足を運ぶ。


「正臣様、お風呂をありがとうございました。お休みなさいませ。」

襖は開けずに廊下から声をかける。


カタンと部屋から音がして、


「香世、ちょっと入って来い。」

と、正臣から声がかかる。


香世は少し戸惑う。

先程の事もある…そして、夜に2人きり…。


「…はい、失礼します。」

そっと床に正座して襖に手をかける。


その一瞬先に中から襖がスーッと開き、

「廊下は冷える、普通に入って来い。」

と、正臣に腕を引かれて室内に引っ張られる。


「あ、の…何でしょうか?」


正臣の部屋は続き間になっていて、

手前には机があり、書物がたくさん並べられた棚が部屋の壁沿いに並べられていた。


本好きな香世は、どうしても本に目がいってしまう。


「書物が気になるのか?」

その様子を見て正臣が聞いてくる。


「あ、いえ…まるで本屋さんの様だと思ったものですから。」


座布団を差し出されて座る様に促される。


「この家はかつて祖父母が余生を送った場所だから、祖父が残した本が沢山残っているんだ。気になるものがあるのなら、自由に持って行ってくれて構わない。」


「ありがとうございます。」

嬉しさが込み上げて、香世はふわっと笑顔になる。


「こんな物で香世が笑顔になるとは…

知らなかった。」

独り言の様に正臣はそう言って、

おもむろに立ち上がり本を一冊手に取る。


「俺は生憎忙しくてあまり読む時間が無いのだが、ここら辺は著名な物書きが書いた本だ。」

おもむろに香世に差し出すので、

立ち上がり本を受け取る。


「この本は私も読んだ事があります。

花街がどんな場所なのか知りたくて……。」

ハッとして香世は俯く。


本から得た知識だけで行ったのかと、呆れられてしまうかもと思ったのだが、特に正臣はそこには触れず。


「香世は文学が好きなのだな。」

と、真剣な眼差しで本を探し始める。


「ここら辺は比較的古い書物だが、有名な物を揃えている。」


香世も興味津々で本棚に近付き、

正臣が渡してくれる本をそっと受け取る。


「あ、凄い…。

この本は廃版になっていて、

なかなか手に入らないものです。

うわ…ここら辺の本も貴重な古典です。」

香世はついつい嬉しくなって興奮してしまう。


正臣はそんな香世を眩しい物を見るように、

目を細め見つめる。


「古典文学が好きなのだな。

祖父が収集家で、古い物も結構あるから好きに選んでくれ。」


正臣は一歩引いて、香世が選びやすいように離れて見守る事にする。


香世は目を輝かせて、

1冊ずつ大事そうに手に取っては本を開く。


「何冊でも持って行ってくれていいが、

寝不足にならないようにちゃんと寝ろよ。

欲張らなくてもいつでも入って持っていってくれ。」


「ありがとうございます。」

香世は嬉しそうに頭を下げる。


「これほど綺麗な状態でこの時代の書物があるのは素晴らしいです。」

にこりと笑い、背伸びをしながら高い位置の棚から一冊取り出そうとするから、慌てて正臣は手を伸ばし代わりに取って手渡す。


「台が必要だな。」

そう笑いながら香世を見る。


「あ、ありがとうございます。」


香世は正臣との距離が急に縮められて、

驚き鼓動が乱れるのを感じる。


恥ずかしくなって本を抱きしめ一歩引く。


「それだけでいいのか?」


正臣は1人で選びやすいようにと、机に戻り書き物を始める。


香世はもう少しだけ、と心で思いながら本棚を丁寧に見ていく。


「くしゅん。」

香世が不意に小さくくしゃみを一つする。


「寒いのか?」

と正臣は心配し、隣の部屋に行ったかと思うと綺麗に敷かれていた毛布をはがし、香世をふわりと包んでくれた。


「あ、ありがとうございます。」

香世は正臣の優しさに触れ、戸惑いながらお礼を言う。


「温かい茶でも飲むか?」


そう言うと、正臣は火鉢に向かって行く。


香世は、あっと思い、

「あ、あの、私がやります。」

と、慌てて駆け寄るが、


「茶ぐらい俺でも淹れられる。」

と、笑いながら鉄瓶から湯を急須に注ぎお茶を淹れてくれる。


香世は驚いてしまう。


香世の家は、男子台所に入るべからずと言われ育てられたから、父は決して自らお茶を淹れる事は無かったし、世間もそうなのだと当たり前のように思っていた…


そんな香世の気持ちも知らず、

お盆に載せてお茶を出してくれる。


「すいません、ありがとうございます。」

恐縮して頭を下げる。


「別に謝る事は何も無い…。

うちは男世帯だからこのくらい普通にやる。」

正臣は当たり前だと言わんばかりに、

自分にもお茶を注ぎ飲み始める。


「熱いから、気を付けて飲め。」


「はい…いただきます。」

香世は毛布に巻かれながら、

湯呑みを両手で持ちふぅふぅとお茶を冷まし、慎重に飲む。


その仕草を可愛いなと思いながら、

正臣は穏やかな気持ちで2人の時間を楽しんだ。

男としては、もちろんもっと近付きたいし、

触れたいと思う。


ただ、初心な香世を見ると『急ては事を仕損じる』だと思い、気持ちを抑えて接する事を心がける。


どうしても衝動的に抑えられない時があるのは許して貰いたい…。


香世が「お休みなさい」と言って去った部屋で、正臣は布団に横になりながら、毛布から香世の残り香を感じて1人苦しみ悶える事となる…。



翌朝から正臣との2人の生活が始まる。


真子がいない事に少し寂しさを感じてしまう香世だが、気持ちを引き締めて早起きをする。


水仕事はするなと禁じられているから、

少し手持ち無沙汰に困るが、お掃除なら問題ないだろうと玄関の掃き掃除をする。


春の朝はまだ肌寒いが、

清々しいほど爽やかな風が吹き、

気持ちも新たに気合いを入れて箒で枯葉を集める。


庭の片隅につくしを見つけ春を感じて嬉しくなる。

「おはようございます、新聞です。」

走りながらやって来た新聞屋さんから新聞を手渡される。


「ありがとうございます。」

香世は振り返り、走り去る後ろ姿に頭を下げる。


不意に新聞屋が振り返りこちらに戻って来る。

香世は不思議に思いながら首を傾ける。


「樋口様、ですよね⁉︎

僕、商店街にある本屋の息子です!

最近見かけないからどうしたのかと思っていたんです。」


あっ、と思って香世は微笑む。


「ご無沙汰しております。」

と、頭を下げる。


「お元気そうで良かったです。

こちらには奉公で?」


「…そのようなものです。」

香世は上手く自分の今の状況を話す事も出来ず、曖昧に答える。


「また、うちの本屋にも来て下さいね。」

と、にこやかに走り去って行く。


その背中を見送りながら、香世は枯葉を塵取りで集めていると、ガラガラっと音と共に玄関が開き、正臣が着流し姿で出て来る。


えっ?と思いながら見ていると、

こんな事はしなくてもいいと言うような怪訝な顔をされ、箒と塵取りを取られて手首を掴まれ玄関に連れ込まれる。


「お、おはようございます。」


香世は呆気に取られながらも正臣に挨拶をする。

「…おはよう

…香世は女中のような事はしなくていい。

手が冷たい早く温めろ。」

ぶっきらぼうにそう言われる。


少し機嫌が悪いのかしら?と香世は思う。

ここ何日か正臣との時間を積み重ね、

表情の乏しいながらも何となく気持ちが分かるような気がするから不思議なものだ。


「あっ、新聞です。」

と、居間に入り正臣に手渡す。


「…さっきのヤツは知り合いか?」

正臣は思わず、苛立ちを隠せずに聞いてしまう。


「あの…良く通っていた本屋の息子さんです。

久しぶりに会ったので、驚かれたようで少しお話しをしました。」

香世はありのままを伝える。


「そうか…。」

正臣はどうしても感情が邪魔をして、不貞腐れたような態度になってしまう。


香世はお茶を淹れる為、正臣が座る火鉢の近くに行って、お茶を湯呑みに注ぎ正臣の側に湯呑みを置く。

手を引く時にパッと手を正臣に取られる。


ドキッとして香世は目を丸くするが、正臣は気にも止めず、香世の手を包み込むように温める。


「手が冷たい。」


始めの日は冷たく感じた言葉も今では優しさを感じる。

正臣が心配していた香世の手の荒れもこの2、3日で幾分良くなってきている。


「どうしても何か家事をやりたいのなら…

部屋の掃除にしろ。」


「はい…。申し訳ございませんでした。」


香世は外に出るなと言われていた事を思い出し、正臣から手を握られながらも頭を下げる。


「別に…香世を咎めている訳ではない。」

正臣は罰の悪い顔をする。


「いえ、外に出るなと言われていたのに…

気を付けます。」


外に出るなと言ったのは、他でもない香世の為だと思っての事だったのだが…


世間は噂話が絶えないし、香世は若く可愛らしいから、変な虫が付かないかと過剰に心配しただけだったのだ…。


「いや…、気にするな。」

香世に謝らせてしまった事で、今までの自分の態度はどうなのかと正臣自身も反省する。


「香世の行動を制限するつもりは無い…どこかに行きたいのなら…自由にしてくれ。」


朝、ふと聞こえた男の声に、香世と笑顔を交わすその男に、苛立ちを覚え、嫉妬してしまったせいで、要らぬ苛々を香世にぶつけていた事に気付く。


大人気ない自分に不甲斐無さを感じる。


香世のことになるとどうしても、衝動的な気持ちを抑えられない。 


「…家に帰りたいと、思うか?」


そうだ、香世は自由なのだから、家に帰ってしまったとしても自分には止める権利は無いのだ…。


そう正臣は思うのだが、思うだけで胸が痛くなる。


「いえ、今更帰りたいとは思いません。

…もし、宜しいのでしたらしばらくこちらに置いて頂きたいです。」


心配そうな顔で香世が正臣を見てくる。


正臣がその言葉を聞き、

どれほどホッとしたか香世は知る由もない。


朝食が運ばれて2人で食べる。


正臣は今日からしばらく要人警護の任務で

帰りが遅くなると言う。


「俺の事は気にせず、先に夕飯を食べて寝ていてくれていい。」



「…はい。分かりました。」

香世は始めての1人を少し不安に思いながら頷く。


「夕飯が終われば女中は離れに戻るから、

戸締りをして夜は誰が来ても開けるな。」


「はい…、正臣様は何時頃にお帰りですか?」


「多分、9時過ぎには帰れると思うが、

鍵は持っているから大丈夫だ。」


先に寝てて良いと言われても…本当にそれでいいのか心配になってしまう。


自分の立場が良く分からないから、

ただの居候と言う今の立ち位置をどうするべきか香世には分からない…


私が返事をちゃんとするべきなんだと言う事は分かるけど……。


この人に私は相応しく無いと思ってしまうから…

一歩前にも進めず、立ち止まったまま動く事も出来ないでいる。


朝食を食べ終えて、香世はタマキと正臣の支度の準備をする。


「香世様、今週から旦那様が遅いお帰りなので、人手も足りていますし、私だけ本家の方のお手伝いに行く事になりました。朝のお支度の方はお願いしたいと思います。」


「はい、分かりました。」

香世は頷き、タマキを安心させる。


「帰りは遅くなるようですので、この部屋に着替えの着流しと寝着の浴衣を用意して置いて下さい。

旦那様は、何でも一通りは1人で出来ますから気にせず、いつも通りのお時間にお休みになって下さいね。」


「正臣様にも、そう言われたのですが…

本当にそれで良いのでしょうか?

家の主人が帰る前に横になるなんて…。」

心配顔の香世を見て、タマキはニコリと笑う。


「香世様は厳格なお家柄なのでしょうね。

正臣様はそのような堅苦しいのがお嫌いで 本家を出て、別邸で暮らすようになったのです。

それに普段はこう言う時、軍本部で寝泊まりされるのが常なのですけど、よっぽど香世様が心配なのでしょうね。」


タマキが楽しそうにそう話してくる。


「…そう、なんですか?」


「なので、気にせずお休み下さいね。

何か分からない事があれば、

遠慮なく残る2人の女中に聞いて下さい。」


「はい、ありがとうございます。」

香世はタマキに頭を下げる。


「入るぞ。」

香世はタマキにまだまだいろいろ聞きたい事があったのだけど、正臣が来てしまったから話は中断して支度を整える。


「着替えの背広一式はおカバンに用意してありますので、玄関に運んで置きますね。」


タマキが正臣にそう伝え部屋を出て行ってしまう。


思いがけず2人きりになって香世は少し緊張する。


「タマキは今日から本家に行くが、香世は寂しく無いか?」


「だ、大丈夫です。」


たまに正臣から子供扱いされている気がしなくも無いが…

香世はしっかりしなくてはと身が引き締まる思いがする。


そう思いながら、正臣のシャツのボタンを留める。


「香世、何があったらすぐ連絡を。」

そう言って、軍服の内ポケットから名刺を取り出す。


電話番号が書かれていた。


「はい、分かりました。」


「私が居なかったら部下の真壁か酒井は覚えているな?どちらかは必ず本部にいる。」

正臣は心配そうな顔をする。


「はい。」

香世は名刺を大事に帯の隙間にしまう。


手首のボタンを留め、

軍服を用意する為に離れようとすると、不意に抱きしめられる。


香世の心拍数が急上昇する。


「許せ、嫌だったら跳ね除けろ。」


正臣を跳ね除けるなんて出来ない…香世は身動きひとつ出来ず固まる。


抱きしめられると落ち着かない気持ちにもなるけど、守られているみたいで凄く安心もする。


「あ、あの…私がまだまだ子供なので…

正臣様を心配させてしまうんでしょうか…。」


「いや、香世はしっかりしている。

歳の割には落ち着いているし信頼もしている。

単にこれほどまてに心配なのは…俺の心の弱さからだ。」


正臣はそう言って、先程よりも腕に力を込めてギュッと香世を抱きしめる。


弱い⁉︎正臣様が?

こんなに芯が強い方はいないと思うほどなのに…?

思わず、香世は抱きしめられながら正臣を仰ぎ見る。


至近距離で目があって、心臓が跳ねる。


「俺が不安なのは…ただ一つ……

香世が…目を離した隙にいなくなってしまうんじゃないかと…

そう思うと…とてつも無い不安に襲われる。」


正臣が…男の人が、

心の中をこれほどまでに明け透けに見せる事に驚き戸惑う。


正臣はため息を一つ吐き、香世を解放する。


「すまない…。

自由意志だと言いながら…これでは束縛しているようなものだな。」


離れてしまう正臣に少しの寂しさを感じながら、


「ご心配なさらなくても…

ここ以外、私の居場所はどこにもありませんから…。帰る場所など既に無いのです。」


香世は寂しく笑う。


「ならば、ずっとここにいろ。」


熱い目で見下ろされ、頬をサラッと撫でられ

香世は思わずビクッとしてしまう。


正臣は軍服を自ら取り、

バサっと羽織って自分でボタンを閉めていく。


香世はハッと我に返り、

再び支度の手伝いを再開する。


一つずつ装飾を軍服に付けながら、

どうしても正臣の事を意識し過ぎてしまう。


もはや顔を見る事も出来ない。


警棒、銃、短剣を順番に渡す。

短剣はやっぱり怖くて触るだけで手が震えてしまう。


「無理しなくていい。」


正臣は短剣をサッと奪い取り腰のベルトに納める。


「ありがとう。」

そう告げ、香世から離れて行く。


こんなにも優しく繊細な人なのに、身に付けている全ては物騒で…この人には不似合いだと思ってしまう自分がいる。


どれだけの重荷を背負って、

日々、命を削って任務を遂行しているのだろうか…心配にもなる。


どうか、ご無事にお帰り下さい。

と、香世は祈らずにはいられなかった。


「行ってくる。」


玄関で、香世は正臣を女中と共に送り出す。


「行ってらっしゃいませ。」


軍帽を手渡し頭を下げると、香世の頭を優しくポンポンと撫ぜて正臣は車に乗り込んだ。


咄嗟に車に駆け寄って、

「お気を付けて、お帰りをお待ちしております。」

香世は少しでも安心して欲しいと、笑顔でそう正臣に伝える。


正臣が微笑みを浮かべ車が動き出す。



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