第12話 3人で外出
「お帰りなさいませ、旦那様。」
玄関では、正臣が帰って来ていた。
楽しそうな歌声が聞こえてくる。
「今、お着替え中でございます。お声をかけて来ましょうか?」
玄関に出て来た若い女中がそう言う。
「いや、このままでいい。」
そう言って、正臣は軍服を脱ぐ為玄関を上る。
「あの…、お着替えお手伝い致しましょうか?」
若い女中は内心ドキドキしながら聞くが、
「大丈夫だ。」
正臣から素っ気なくあしらわれガッカリして去っていった。
箪笥部屋の隣の和室に入り軍服を脱ぎながら隣の様子に耳を傾ける。
楽しげに歌いながら着付けをしている真子のキャッキャと笑う声、それに応えるように優しい香世の歌声が聞こえる。
「さぁさ、そろそろ急がなくては。」
笑いながらも急かすタマキの声もして来るが、正臣はこの楽しそうな声をずっと聞いていたいと思ってしまう。
先に着替え終わったのか、真子がパタパタと歌いながら廊下に出て来る気配がする。
正臣はつい、
「廊下は走るな。」
と、咎めてしまう。
その途端、家中の空気が一気に凍りついたようにシンと静まり返る。
「ご、ごめんなさい。」
真子が踵を返して箪笥部屋に戻って行ってしまう。
タマキが隣から出て来て、
「お帰りなさいませ、旦那様。
お戻りになられてたとはつゆ知らず、
申し訳ございません。」
と、頭を下げてくる。
「いや、俺が声をかけ無くていいと頼んだんだ。」
「そうでございましたか。
今、香世様が旦那様の背広をご用意してますので少々お待ち下さいませ。」
タマキがいつもは選んでいるが、今日は香世が選んでくれているらしい。
それだけで何故か嬉しくなってしまう有様だ。
「真子は?」
「怒られたと思って逃げ帰って来ましたよ。」
「いや……、別に怒った訳ではない。」
廊下で転ぶといけないと心配しただけなのだが……。
「では、軍部では無いのですからもう少し優しい口調でお願いしますね。」
タマキは正臣にそう咎める。
「俺はそんなに怖いか?」
率直に聞いてみる。
「私はお小さい頃から旦那様の人となりは知っていますので、怖いとは思いませんが…
女、子供からすれば、やはり怖いのでは?」
タマキは正臣が脱いだ軍服を片付けながら、
そう言う。
では、どうすれば良いのか?
眉間に皺を寄せ正臣は考え始める。
「ほら、言った側から怖い顔になってますよ。」
タマキが笑いながら言う。
「すいません、遅くなりました。」
そのタイミングで廊下から香世の声がする。
「入れ。」
スーッと襖が開いて、着替えのスーツを持って香世が入って来る。
その後ろをおずおずと隠れながら真子も入って来る。
「真子…別に怒った訳では無い。」
真子にそう伝えるが、タマキが肘で突いてくる。
他にどう言えば……。
「真子ちゃんと今日は読み書きのお勉強をしました。真子ちゃん上手にお名前が書けるようになったんです。」
不意に香世が空気を変えようと思ったのかそう言ってくる。
そして1枚の藁半紙を正臣に差し出してくる。
「これは真子が初めて書いたのか?
上手だな。
俺は字があまり得意では無いから、
きっと直ぐに真子に抜かされるな。」
思いのままを口にしてみる。
するとシュンとしていた真子がパッと明るくなって、
「これも、これも書きました。
お勉強とっても楽しかったです。
後、『桜』の歌も覚えました。」
そう言って、次々に紙を出してくる。
いろはにほえとやら、1、2、3の数字やら沢山書いていた。
「半日でこんな書けるようになったのか。
今から文具屋に寄って行くから、ノートや鉛筆やいろいろ必要な物を買い揃える。
この分なら、すぐに里の親に手紙も出せるようになる。」
そう言うと、
「うち、いっぱい覚えて手紙書きます。
…だけど、家族の誰も字が読めないよ…。」
困った顔で真子が香世を見上げてくる。
「じゃあ、真子ちゃんが覚えた事を今度は家族に教えてあげてね。そしたら家族みんな字が読めるようになるね。」
香世は屈んで真子に目線を合わせて微笑む。
「素敵!うち頑張る。」
真子は元気になってぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「真子、転ぶといけないから大概にしなさい。」
正臣がそう咎めるが、
今度は真子が
「はーい。」
と言ってにこりと笑う。
俺に足りないのは気遣いか……。
そう思い、タマキを振り返り見るとにこにこと笑っている。
何となく歯痒くなった正臣はおもむろにシャツを着替えようと、ボタンに手をかける。
ハッと気付き、
「ここで着替えても大丈夫か?」
誰にともなく聞いてみた。
タマキは笑いながら、
「真子様、玄関に草履を用意しましたが、
一度足を通して頂きたいんです。」
と、言って真子の手を引き部屋を出て行く。
香世は急に2人っきりにさせられて、
困ってしまう。
「香世は、子供の扱いが上手いな。」
そう話しながら正臣は自らワイシャツのボタンを外していく。
香世はどうすればいいか戸惑いながらも、
朝の時のように、
襟元のボタンと手首のボタンを外すお手伝いをする為正臣に近付く。
「学生時代、学校の先生になりたいと思っていた時がありました。」
ポツリと香世は話し出す。
「何故ならなかったのだ?」
「それどころでは無くなりましたし…
父は公爵の娘が働く事を嫌いました。
きっと…意志を持つ女子は嫌いなのです。」
香世は寂しく微笑む。
「だから、花街に売られたとでも?」
正臣は朝の時のように、香世がボタンを取りやすいよう少し屈みながら、問いかける。
「厄介者が居なくなって清々しているかもしれません。」
手首のボタンを外しながら香世は答える。
正臣は怪訝な顔をする。
香世は初めて正臣の感情を見た気がして驚く。
「俺は意志のある女子は嫌いじゃない。」
思わず正臣を見上げ凝視してしまう。
そのタイミングで正臣がバッとシャツを脱ぐから、慌てて香世は目線を外しわたわたと背を向け、新しいワイシャツを正臣に渡す。
この人の側にいると心臓に悪いと、
香世は頭の片隅でつい思ってしまうほど、
心拍数が上昇する。
「香世のしたいように生きろ。
人生は一度きりだ。誰にも香世を縛る権利は無い。」
心に響く言葉に香世は戸惑う。
正臣は新しいシャツのボタンを留めながら、
何気無しにそう言う。
「俺は香世の自由を買ったのだ。
誰に囚われる事なく、好きな事をして生きて欲しい。」
それがこの人の本心なの?
信じられないと言う様に目を見開き香世は正臣を見る。
「昨夜…妻になれと、言われましたが…。」
つい、聞きたかった事を聞いてしまう。
「それは俺の意思であって、
香世がそう思わないのであれば断ってくれて構わない。」
衝撃的な発言で、香世は正臣を見つめてしまう。
目線が交わり正臣も香世を見つめる。
嘘偽り無い真っ直ぐな視線に香世は見惚れてしまいそうになる。
この人は父のように、人を支配したがる人種なのかと思っていた。
だけど本当はその真逆のなのだと気付く。
「私が、決めていいのですか?」
「本来、そう在るべきだろう?
女子だからと従うべきでは無いし、男だから従わすべきでも無いのだ。
自由意志で決めてくれれば良い。」
「私の、自由に、決めてもいい…。」
香世は信じられ無くて、つい口に出してしまう。
「ただ…俺も見す見す香世を手放したくも無いから、抗うかもしれないが…。」
そっぽを向いて正臣はそう言う。
この人は、私の為に多額のお金を払ったのに、支配しようともせず自由に生きろと言う。
だけど、簡単には手放したく無いとも言う…。
なぜ…私の事をそこまで思ってくれるのだろう?
香世は深く考え過ぎて手が止まってしまう。
正臣はその様子を見て、咎める事無く自分でボタンを留めようとし始める。
ハッと気付いた香世が慌てて、1番上のボタンに手をかける。
その瞬間にぎゅっと抱きしめられて、
心臓がドクンと大きく脈打つ。
「つまりは…。
俺は香世を欲しているが、
香世が俺を欲しないのならば、力尽くで跳ね除けろ。」
抱きしめながら言う言葉なのかとも思うが…
香世は跳ね除ける事も出来ず、
かと言ってどう受け止めるべきなのかも分からない。
「もう少し、お時間を、
……頂きたく思います。」
小さな声でそう言うのが精一杯だった。
「そうだな。事を急かす訳では無い。
俺の感情がそうさせてしまうだけで、
そなたを困らせたい訳では無いのだ。」
そう言って、そっと離れて行く。
正臣は思う。
男は本来心が弱い生き物で、女は強い生き物なのだと。
弱いから男は力で女を支配したがり、
強いから女はそれを許してくれるのだ。
香世は俺無しでも強く生きられる意志を持っている。
それは初めて会った時から分かっているのだ。
ただ、
その強さに憧れにも似た感情を持っている俺は、どうしようもなく惹かれてしまう。
彼女を支配したいのでは無く、共に在りたいと思う。
とどのつまり、
俺自身が香世を必要だと言う事だ…。
正臣はほとんど自分で着替えを済まし、
香世は脱いだ服を整えるくらいしか役割が無かった。
ネクタイの縛り方も分からなければ、
整え方さえ分からない。
それなのに正臣は、
「ありがとう。」
と言って部屋を出て行く。
正臣の背中を視線でつい追ってしまう。
襖に手をかけた正臣が不意に振り返り、
「その着物、よく似合っている。」
ぶっきらぼうにそう言って、
サッサと香世を1人部屋に残して行ってしまう。
「…ありがとうございます…。」
香世は頬が火照るのを感じながら、
届かなかったお礼の言葉を呟く。
香世は素早く後片付けをして玄関へ行くと、
元気に『桜』を歌う真子を持て余しながら、
正臣が玄関のあがり框に腰を下ろし待っていた。
正臣は香世を遅いと咎める事も無く、
スッと立ち上がり草履を履く香世に手まで差し伸べてくれる。
正臣の人となりを少し知った手間、
自分の中で、昨日感じた冷酷な軍人と言う正臣のイメージが払拭されてしまった事に気付く。
この人は感情を出すのが不器用なだけで、
とても優しい人なのだと思ってしまうから
不思議なものだ。
父だったらきっと大きな声で歌う事も、
待たせられる事も嫌い、怒り苛立っただろう。
父以外の男性を知らないからどうしても比べてしまうのだが…。
「行くぞ。」
正臣が玄関を出て車のドアを開けてくれる。
嬉しそうに真子は飛び乗り、早く早くと香世を急かす。
香世も微笑み車に乗り込むのを見届けて、
正臣はドアを閉めてくれる。
タマキと他の女中も出て来て見送りする。
「夕飯は要らないから、今日は早めに上がっていい。」
車に乗り込む前に正臣はタマキにそう告げる。
「真子様、いつでも遊びに来て下さいね。」
タマキが寂しそうに真子にお菓子の袋を握らせる。
「ありがとうございます。
うち、学校が始まるまで毎日来るよ。
姉さんにお勉強を教わりたいから。」
ニコニコと真子がそう言うから、
決して寂しい別れにはならなくて、
「では、明日も美味しいお菓子をご用意して待っております。」
と、タマキも笑い頭を下げる。
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