第8話 再会 2

使用人の古賀と真壁と酒井は、

前田の運転する車に乗り込み。


香世と真子は二階堂の運転する車にそれぞれ乗車する。


「真壁、酒井ご苦労だった。

古賀、2人に何か旨い物でもご馳走してやってくれ。」

そう言って、二階堂は運転席に乗り込む。


香世と真子は後ろの席で寄り添い静かに二階堂を見守る。


「真子は、自動車に乗るのは初めてか?」

その様子を見て二階堂が問う。


真子は香世の腕にしがみつきながら、

うんうんと首を縦に振る。


それを、バックミラーでチラリと二階堂は確認し、


「ゆっくり走るから安心しろ。」

そう静かに言って車を走らせる。


しばらく香世にしがみついて、

ビクビクしていた真子だったが、

花街を抜け街中に入った頃にはすっかり元気になって、


「すごい、速い!!」

と、香世の手を取ってはしゃぎ出す。


香世はそれを優しく見守り、

二階堂は、彼女が綺麗なままこの世間に戻って来れた事に心底ホッとした。


「二階堂様、私のみならず真子ちゃんの事まで一緒に連れ出して頂き、本当にありがとうございます。」

ミラー越しに香世はそう言う。


「礼には及ばぬ。人道支援だ。

人として当たり前の事をしたまでだ。」

二階堂は表情を全く変えず淡々と言う。


普通、人道支援で1000円もの大金を出せるだろうか…。

香世はそう思うが二階堂に直接聞く勇気はまだ無い。


街を抜け高級住宅地の一角に車は入って行く。

その頃には真子も静かになり、

気付けば香世の膝を枕にして眠ってしまった。


香世は幼い弟を思い出し、龍一は今頃どうしているだろうと思いを馳せる。


車は二階建ての日本家屋の前に止まる。


垣根に囲まれた家は思ったよりもこじんまりしていた。

玄関前にロータリーがあり、二階堂は車をそこに止める。


「ここは、俺と使用人だけで住んでいる別邸だ。」

そう香世に伝え、

眠ってしまった真子を抱き上げ屋敷に向かう。

香世は2人分の荷物を持って後ろに着いて行く。


玄関には女中が3人並んで待っていた。

「お帰りなさいませ。

お勤めご苦労様でございました。」


香世と同じぐらいの歳の女中が1人、

もう1人は姉ぐらいだろうか…、

もう1人は初老で白髪の女中だった。


「この子に布団を頼む。」

二階堂が靴を脱ぎ部屋に入って行く。


香世は少し戸惑い玄関で足を止める。

「香世も早く上がれ、外は寒い。」


二階堂が真子を抱きながら振り返り香世に声をかける。


「お邪魔致します。」

おずおずと草履を脱ぎ揃えて隅の方へそっと置く。


2人の女中は何も言わず、ただ怪訝な顔で香世を見ていた。

歓迎されていない事が一目で分かる。


香世は居場所の無い思いで玄関に佇む。


「キヨさん、タカちゃん夕食の支度を早く。

2膳分お願いね。」

白髪の女性は布団を敷き終えたのか、

廊下を足早に歩いてやってくる。


「香世様、そんな寒い所にいらっしゃらないで、どうぞこちらにおいで下さい。」

白髪の女性が暖かい部屋に香世を通してくれる。


「若い女中が気が利かなくて…申し訳けありません。

私はタマキと申します。

旦那様がお小さい頃から仕えてる者です。

お話しは伺っておりますので、ご自分の家だと思ってお寛ぎ下さいませ。」


タマキは正座して丁寧にお辞儀をしてくれる。


香世も手を揃え、

「樋口香世と申します。よろしくお願い致します。」

と、緊張気味に挨拶をして頭を下げる。


タマキはにこりと微笑み、


「旦那様が女性を連れて来たのは初めてでございますので、女中もびっくりしたのだと思われます。」


先程の玄関での女中の態度を思い、

顔を強張らせていた香世の心を溶かしてくれた。


「至らないところは多々あると思いますが、ご指導のほどよろしくお願い致します。」

香世はタマキにそう告げる。


「香世様、このお屋敷には旦那様しか住んでおりませんので気楽にお寛ぎ下さい。

離れの方に、私と私の夫の古賀が住んでおります。

先程の女中2人は通いでこちらでご厄介になっております。

どうぞよろしくお願い致します。」


タマキさんは優しそうな人で香世はほっとした。


着替えを終えたのか、

二階堂が着流し姿でスッと現れた。


「タマキ、すまないが香世殿に暖かいお茶を。」


「かしこまりました。」


二階堂の言葉でタマキは微笑み部屋を出て行ってしまう。


二階堂と急に2人っきりになり、

香世は所在無く部屋の入り口に座り続ける。


「もっと火鉢の側に寄れ。」


寒そうに見えたのか、二階堂が香世に声をかける。

香世は緊張の面持ちで彼の座る火鉢の側に近付き座ろうとすると、


不意に手首を掴まれ引っ張られ、

なす術なく二階堂に寄りかかる様に畳に崩れてしまう。


二階堂を近くに感じ、香世の心臓はドキンと脈打つ。


「氷のように冷たいでは無いか…。」


怪訝な顔で二階堂が香世の手を自分の手で包み込み温める。


大きくて無骨で、鍛えられた硬い手のひらは暖かった。


香世は初めての出来事に身を固くして、

脈打つ自分の鼓動を何とか制御しようと試みる。


「手が、荒れているな。

今まで女中のような仕事をしてたのか?

しばらく水仕事は禁止だ。」

そう、香世に告げる。


抑揚の無い声に意図が見えない…

香世は混乱する。


1000円もの大金で買われたのに…


私は明日からどう過ごせば良いのだろう。

水仕事を禁止されたら何も出来なくなる。


「わ、私は…明日から何をすれば?」

香世は慌ててそう聞いてしまう。


「敷地内を出なければ好きに過ごせば良い。女中はすでに足りている。」


確かに、1人の主人に3人も女中がいるのは多過ぎるのかもしれないが…。


「私は貴方に買われた身です。

何も役割が無いのは心苦しいのです。」

握られたままの手を見つめながら香世は言う。


「役割ならあるぞ。」


そう言う二階堂の顔をここに来て初めて見る。


こんなに近くで彼を見るのは初めてだった。

恥ずかしくて目を離したいのに離せない。


「あ、あの…

なぜこんなにも良くしてくださるのですか?

…どこかでお会いした事があるのでしょうか?」


二階堂は香世を見つめ、


「覚えて無いのか…。」

とため息を付く。


「ならば、思い出す事が明日からの貴女の仕事だ。」


「旦那様、夕食の支度が整いました。」


女中が廊下から声をかけてくる。


香世はハッと我に返り、慌てて二階堂から離れた所に座り直し姿勢を正す。


「香世様、本日はカレイの煮付けでございます。お口に合うと良いのですが。」

タマキがにこやかに入って来て、

二階堂と向かい合った所に膳が運ばれる。


香世は出来れば横並びで食べたかったと思ってしまう。


どうしたって二階堂が目に入ってしまうし、

見てしまうと心臓が高鳴って緊張してしまう。

「お気遣いありがとうございます。」


タマキの優しい笑顔につられて香世も微笑む。


二階堂は密かに衝撃を受けていた。


香世が笑った…


3年前も今も笑顔を見た事が無かった。


俺が見たくて仕方なかった香世の微笑む姿を、タマキは何の事無く引き出した。


ああ、相手が笑えば香世も笑ってくれるのか…。

そんな簡単な事さえ俺には難しい。

と、二階堂は思う。


「暖かいお茶もお持ちしましたので、

火傷しないように気を付けて下さいね。」


「はい。ありがとうございます。」


2人、手を合わせてから食べ始める。


香世は二階堂が箸を付けるのを待って、

伺いながら食べ始める。


真子ちゃんもきっと食べたかっただろうなと思う。弟の龍一も煮魚が大好きだった…


「真子の事だが…。」


食べながら二階堂が話し始める。


香世の家では食事中は余り話してはいけなかったのだが、二階堂家では問題無いらしい。


「はい。」


「家では子供を働かす訳にはいかない。

そこで考えたのだが、

近くの寺で孤児院を開いている。

そこで預かってもらいながら学校に出すのが

1番良いのではと思うのだが。」


香世は目を見開いて二階堂を見る。


「真子ちゃんは、一度も学校に通った事が無いようで、読み書きが出来無いと言っておりました。

きっと、とても喜ぶと思います。

二階堂中尉様ありがとうございます。」


香世は思わず、箸を置いて頭を下げる。


「いいから、ちゃんと食べろ。

…それに家まで役職で呼ばれるのはいささか疲れる。名前で呼べ。」


な、名前で⁉︎


突然、そんな事言われてもと香世は焦る。


「どうした?俺の名前も忘れたのか?」

薄目で睨まれ気持ちが縮こまる。

 

香世は首をぶんぶんと横に振るが、

名前で呼ぶなんて恐れ多くて出来そうも無い…。


二階堂は箸を止めて、香世を咎めるような目で見ている。

香世は俯き、箸をぎゅっと握る。


「ま、まさ、おみ様…。」

緊張で、か細い声しか出ない。


「もう一度。」


ちゃんと言わないと許しては貰えない強い視線を感じる。


「正、臣様…。」


「まぁ、いいだろう。」


やっと許してもらえたようで、

二階堂、改め正臣が再び箸を取り食べ始める。


香世はホッと力が抜けて、箸を置きお茶を飲もうとする。


「熱ッ…。」


熱いと言われていたのに…


「大丈夫か?」


香世がコクコクと頷く。


舌先がヒリヒリするが、何事も無かったかのように香世は食べ始める。


が、涙目になっていたのを見抜かれたのか

正臣がフッと笑う。


えっ?と香世は驚く。


会ってからずっと感情の分からない表情だったのに、少しだけ笑ったその顔がとても優しくて不覚にも、もう一度見たいと思ってしまった。


香世はさっきよりもドキドキドキ高鳴る胸を、何とか気付かれないように小さくなって夕飯を食べ進める。


先程、正臣は香世に役目があると言っていたがそれは何だろう?


香世に出来る事は限られている。


家事全般に、ピアノやお琴、華道に茶道一通りの淑女の嗜みは習ったが、どれも趣味の範囲内で秀でている訳では無い。


ましてや軍人の二階堂には不要な教養だろう…。

食べながら香世はひたすら自分の役割について考える。


食事が終わった正臣が香世の食べ終わるのを眺めている事に気付く。


急いで食べなければと、

香世は黙々と箸を進めてなんとか食べ終えた。


それを見計らって正臣が香世に告げる。


「香世、明日から真子が学校へ行くまでの間、読み書きそろばんを教えてやってくれ。

多少の暇つぶしにはなるであろう。」


正臣も香世の事を思案していたようで、

そう言ってくる。


「はい、分かりました。」


「後、お前の役割だが……。」


「はい…。」


「俺の妻になれ。」


香世は目の前に座る男の低く落ちついた声を聞き、ビクッと肩を振るわせ瞬きを繰り返す。


目が合い、鋭く見据えた瞳に吸い込まれるように思わず見惚れてしまう。


「返事は?」


先程から一言も発さない香世に、

若干の憤りを覚えた正臣はもう一度聞く。


「…貴方様の望むように、お好きになさって下さい。」


香世そう小さく言って、

両手を添えて頭を下げる。


「何故、そのように申すのか?」

正臣は冷淡に言い放つ。


彼女の心意を知りたいと伺い見る。


「私は、二階堂様からお金で買われた身です。

わざわざお聞きになさらなくても、

こ指示に従うのみでございます。」


両手をついて顔を下げる。


正臣は思う。


確かに金で解決するしか術が無かった。

しかし、出来ればこんな形で香世を手に入れたくは無かった。


「…俺の事は名前で呼べ。」


「はい…正臣様。」

お互いがお互いの心がどこにあるのか全く読めない。


ただ、逆らう事も逃げる事もとっくに諦めている香世は、正臣の指示に従うのみだ。



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