断章1

少年が目を覚ますと、視界には見知らぬ天井が広がっていた。部屋の外からぼんやりと差し込んでくる光で、わずかに中の様子がわかるぐらいだったので、今が夜なのだとわかる。

しばらくその光景をただじっと眺めている。

思考が鈍くなっているんだと、徐々に意識していく。

気だるいという訳でもないのだが、どうしてもぼんやりしてしまう感じだった。身体のどこかが痛い訳じゃない。

そこでふと気づく。身体の感覚がなくなっていることに。頭では確かに手や足を動かそうとしているのだが、その後の反応というか、動いたという結果の観測が出来なくなっているという感じだった。当然、頭も動かせず、視線も移動できず、自分の身体の状態を目視で確認することは出来ない。

そのとき、ふわーと鈍く青白い光? 気体の塊のようなものが視界の外れから近づいてくるのを感じた。

自由が効かない中で突然接近するものがあるのだから、恐怖をおぼえてもよさそうなものだが、少年は不思議と怖くなかった。

なんとなくそれに対して、暖かいものを感じていた。

それは自分の傍らまで近づいて、動きを止めた。

まじまじとそれをみていると、それもこちらを見返しているような気がしてくる。

「起きた?」

「!?」

突然話しかけられて、少年は驚く。怖くなかったとはいえ、無意識に緊張していたのだろう。身体の感覚がないため実際にどうだったかはわからないが、反射で身体をびくっと震わせてしまった気がする。ただ、驚いたのは一瞬で、それから聞こえてきた声が低く落ち着いた感じのする女性の声だったため、少年は緊張を和らげた。

「あーはい、さっき目が覚めました」

「気分はどう?」

「まぁ、悪くはないんですけど……」

「ええ。色々わからないことが多くて戸惑ってしまうのも仕方のないことよ。落ち着いて、ひとつずつ確認していきましょう」

それは相変わらずぼんやりと発光する気体の塊に過ぎず、言ってみれば火の玉とか蜃気楼の類いに近い見た目をしていたが、少年のはその語りかけから、自分より年上でしっかりとした女性をイメージしていた。

「あ、ありがとうございます。色々。あの、ここってどこなんでしょうか」

「そうね。まずはそこからね。ここは病院で、病室のベッドの上にあなたは今横になっているわ。あなたが病院の駐車場に倒れていたから、私がここまで運んできたのよ」


※ ※ ※ 


少年は貧しい家に産まれた。

父親は地方の中小メーカーに勤める会社員だったので、収入的には豊かとはいわなくても一般的ではあった。

母親は商業高校を卒業後に勤めていた会社を一年もしない内に辞めて水商売に就いていた時に父親と知り合い、仕事でも結婚でも、若いといわれる時期を過ぎようとしていたタイミングで、焦りも手伝って流れで父親と籍を入れた。

どちらとも、情熱を伴ってその選択をしたわけではなかった。言語化まではしていなかったが、世の中の仕組みとか空気みたいなものを肌で感じ取って、機会があったからそうした、という具合だった。

程なくして母親は少年を産んだ。それから7年ほどは三人で暮らしていたが、少年が小学校に入学するぐらいの頃合いで、父親がいなくなった。

風の噂で、飲み屋の女性と駆け落ちしたということらしいのだが、仕事はどうしたのか、家族のことはどう思っていたのか、とかはよくわからなかった。

母親は起こったことを、ただ、受け入れた。そう表現すると語弊があるかもしれない。受け入れきれてはなかった。ただ、何事もなかったかのように、流しただけだった。自分が愛されていなかったこともなんとなくわかっていたし、それは自分だってそうだったので、こうなったのは仕方のないことだったと、母親は思った。ただ、母親はそれをきっかけにして、「どうして自分はこうなのだろう」という漠然とした悲嘆の情を抱えることになった。以降、慢性的にその思いは生じることになる。父親がいなくなったのは、母親が四十代を目前にしたタイミングだった。そのとき即座に切り替えて、現実と向き合って行動を起こしていれば、あるいは一般的でそれなりに個人的な幸福も獲得出来たかもしれなかった。しかし実際にはそこから、際限のない空虚な問いに囚われるだけの日々が続いただけだった。

母親は元々、自らが何かをする、みたいな発想のない人だった。自分の両親をみて、女性性についての偏見を持っていることに、女は無自覚だった。自分も含めた女性の人生というのは、すべからく外からの何かによってもたらされるものであり、自分で何かをして変かさせていくものではなかった。逆に自立した女性を変だと考える節さえあった。大抵の女性は子供が産まれると、そのあたりの認識や世界観が変化していくものだが、彼女の母親がそうだったように、彼女もまた、何も変わらなかった。そういう個体発生的な変化は本能的なものに近いため、ひょっとするとその機能が遺伝的に備わってないのかもしれなかった。

ただ、そんな発想は勿論、そういう仮説を確かめる術も、そういう示唆を与える人間関係も、女は持ち合わせていなかった。働きはじめてから、女は実家と縁が切れていたし、両親も彼女のことを気にしなかった。


少年は、そんな母親と2人で暮らすことになった。

母親が自分の人生に変化を望むのであれば、それは新しい交際相手か、少年によって、もたらされるものとなる。


女の人生は軽んじられることの連続だった。

それまでの前半生は両親に蔑ろにされることで。

後半は社会的な地位と固有の価値観によって。


女は人間関係に嫌気がさしていた。同時に、喜びは人間関係によってのみ与えられると女が思っていたら、新しい交際相手と共依存のような関係を結び、何らかの事件となって、少年は明らかな危機的状況に陥ったかもしれない。ただそうなっていたとしたら、そうなって運良く生き残っていたら、少年はその後の人生を幸福に過ごせたかもしれなかった。

女には、他人から喜びを与えられた経験がなかった。経験なのか、受容機能なのかはさておいて。

実際に少年が辿ったのは、病んでは老いて、老いては病んでいく母親と二人で過ごすという生活だった。

ある日、唐突だが、母親は少年に成功者になって欲しいと願うようになった。なにかきっかけがあったのかもしれないが、定かではない。募っていくストレスが本能的に現状打破を訴えて、自動的に脳が演算した結果だったのかもしれない。

母親には学歴コンプレックスがあった。

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