第2話 手抜きのエンタメ施設より、ただの廃屋のが満足度高いまである。

駅前で他のみんなと解散した後、僕は本来塾に通っているはずなので、帰宅予定時刻まで時

間を潰さなくてはならない。ということで、いつものように廃病院へと向かった。

 陽が暮れた後の廃病院の中は、ほとんど真っ暗で、外の街灯が差し込むところだけがわずか

に明るかった。僕は携帯で足元を照らしながら203号室に向かった。

 203号室は窓のすぐ近くに街灯があって、夜でも明るい。四つあるベッドのうち、右奥のベ

ッドにこちらに背を向けて腰かける人物に声をかけた。

「こんばんは」

「こんばんは」やたらと低い声だった。

 近づくと、イエナシさんは読んでいた「狭き門」に栞を挟んで閉じた。おもむろにサイドテ

ーブルからタバコをとって自分が一本咥えた後、僕にも箱を差し出す。

 僕は軽く会釈してそれを拝借した。今日の銘柄はキャスターだった。

 イエナシさんが火をつけたあと、ライターを借りる。僕もそれで火をつける。

 二人分のすーっと息を吸う音と、はぁーっと息を吐く音が音のない病室にぽっかりと浮かん

だ。

 ときどき病院前の車道を車が通る音以外に何も聞こえない。

 ここまではいつものルーティンだ。僕が訪れるとイエナシさんは黙ってタバコを差し出して、

二人でそれを吸う。

 僕は窓際左側のベッドに仰向けになる。しばらくそのままタバコを吸っていると、ふいにイ

エナシさんが言った。

「最近、学校で変わったこととかない?」

 何かあったかな? 考えてみたけど思い当たることはなかった。

「いや、特にこれといって何もないっすけどね」

「……そっか」

 部屋に沈黙が宿る。そう言えば今日はこんな感じの「そっか」を聞くのは二回目だな、と思

った。僕は期待していた答えを用意できないらしい。

「何もないならいいんだけどね」

 そう言ってイエナシさんは起き上がってタバコを灰皿で揉み消した。――



 ――イエナシさんと初めて会話したのは去年の秋から冬にかけての季節の変わり目だった。

 高校に入学して四月の段階から、いわゆる五月病に早くも疾患し、六月にはこの廃病院を攻

略することに心血を注いでいた。

「何故廃病院に侵入しようなどと考えたのか?」と問われれば、

「そこに廃病院があったから」と答える他ない。

「他を捻り出せ」と理不尽な要求をされれば、

「暇だったから」と答える他ない。

 試験勉強前の机の片付けが捗るように、学校からの逃避によって得られた反動エネルギーに

よって、十一月の段階にはもうすでに年間フリーパスという名の合鍵を入手していた。

 スパイダーマンよろしく、壁から突き出た排水管や窓枠を伝って二階のトイレの窓から中に

侵入した僕は、ある程度片づけられてすっかり放置された病院の中を探索し、ナースステーシ

ョンで裏口の合鍵を入手した。

 それから間もなくして、十一月も終わりかかったその日は一億総嘔吐間違いなしの因習、マ

ラソン大会が、例にもれず僕の高校でも開催される日だった。

 寒い中河川敷を走らされるという、魔女狩り期の西欧も膝に力が入らなくなるほどの拷問が、

僕たち生徒を待ち受けていた。僕のようにあからさまに憂鬱そうなやつが三割ほど、この先の

未来を直視したくなくて必死に近くにいる奴と歓談を続ける奴らが六割、そして発狂して不気

味なほど興奮している奴が約一割くらいいて、行列になって学校から河川敷までの道のりを行

進していた。

 僕が通う高校は、一応うちの田舎ではトップの偏差値ではあるけれど、県内で見れば公立高

校に限ってみても五本の指に入るかどうか、といった具合で、東大進学率が地方にしては高く、

全国高校生クイズの常連でもある有名私立高校や県内都市部に位置する進学校のジト目に晒さ

れながら、その他大勢のノーマル高校には毎年凋落の噂を流され続ける有様で、辺境の地にお

いて偏差値をあげるために因習や迷信でガチガチに武装せざるをえなかったのだろう。

 ちなみに近辺の他校生からは、「熱血オカルト高校」なんて呼ばれていたりする。

 気合やまったく道理のない呪術的な迷信に従って、日夜あらゆる課題が大量に課されるので

ある。

 そんなわけで、その年も例年通りの発狂者数を記録したマラソン大会だった。ちなみにその

年のマラソン大会のテーマは、「マラソンは偏差値をあげる!」だった。

 僕たちは学校から河川敷まで隊列を組んで行進する。いかに馬鹿にされようとも、この近辺

では頭のいい学生さんで通っている僕たちが、町中を行進するとあれやあれやと、暇なおばさ

ん連中や散歩中の幼稚園児たちが手を振ってくる。僕は下を向いてドナドナを呟きながら発狂

衝動を抑え込むのに必死だった。

 そんな折、僕たちはゲリラ豪雨に襲われて、三々五々付近の屋根下へ一時避難を余儀なくさ

れた。

 そのとき僕は、この雨が天の恵みであることを知る。

 ちょうどそこが廃病院の目の前だったのである。僕は「シシシ」と実際に漏らしながら一人

どさくさに紛れてサボろうとした。とりあえず一群が河川敷に行ってしまうまで、怖くて入り

口から中を覗いたことしかない外のボイラー室に籠ることにした。

 屋根下に入りきらない奴らが病院の裏に来ないとも限らないので、僕は慌てて扉を閉めた。

 中は真っ黒で真っ暗だった。

 打ちっぱなしのコンクリがほとんど焼け跡のようになっていて、埃の匂いと古い焦げ付きの

匂いが混ざっていた。

 耳を澄ませる。

 すると、外からこのボイラー室に向かって歩いてくる足音が聞こえてきた。

 僕は慌てて奥に隠れようと立ち上がりかけたが、同時に部屋の奥に誰かがいることがわかっ

た。静かな呼吸音が聞こえたのだ。

 と思った矢先、その音がやんでのっそりとそいつは起き上がった。僕はそのままUターンし

て出て行こうかと思ったが、足音を聞いて思い直し文字通り右往左往のコマンドをただひたす

ら連打しまくった。

 当時から既に基準が曖昧になっていたが、一応ボイラー室といえど不法侵入である。なので

これがバレるといったい前歯を何本折られて、「マラソン大会も終わったし構わんよな」とか言

いながら何枚足の爪をはがされることになるのだろうと、僕は絶体絶命四面楚歌状態で今にも

発狂する寸前だった。

 そうこうしているうちに、奥の人物はあっという間に僕の横をすり抜けて一つしかない出入

り口から外に出た。匂いから、どうやらタバコを吸っているらしいことが分かる。

 どのような視線の邂逅、ガンのつけ合いが繰り広げられたかは知らないが、足音が遠ざかっ

ていく音が聞こえて、しばらくすると先ほどの人物が中に戻ってきて、ランプをつけた。

 ボイラー室の中は暖色系の灯りに照らされて、人懐っこい痩身の青年が笑いながら人差し指

を立てていた。

 僕が「ん?」って感じで眉を押し上げていると、イエナシさんは言った。

「貸し一だからね」

 僕はその貸しをすぐ返した。廃病院の裏口の合鍵を作って渡したのだ。

 最初何の鍵か分からなかったイエナシさんはそれをしげしげと眺めた。

「何の鍵?」

 僕は不敵に笑いながらウインクしてみせる。

「ボイラー室よりは快適ですよ」



 僕はイエナシさんの本名を含め、素性を一切知らない。

 最初に出会ったとき、僕が「なんて呼べばいいっすか?」と訊くと、しばらく楽しそうに思

案していた彼は、「イエナシでいいよ」と言った。満面の笑みだった。

 家がないからイエナシ。そういう思いつきだったのだろう。

 イエナシさんはホームレスで、でもまだ僕の見立てでは二十歳前後だ。どういう経緯でホー

ムレスになったのかは知らない。

 廃病院に出入りしているのは僕と小高と周平とイエナシさんの四人だ。小高と周平には今年

の二月に駅で偶然会ってなんとなくここを紹介した。

 僕とイエナシさんは一応鍵を持っているけど、イエナシさんは基本的に裏口の傍に積み上げ

られたブロックのうちの一つの下に合鍵を隠していて、小高と周平が入用の際は、それを使っ

て中に入ることになっている。

 そんな風にして、一応の同盟関係みたいなものが僕らの間には交わされている。



「ここ最近、この辺の雰囲気がなんかおかしい」

 ふいにイエナシさんはそう呟いた。

「なんかおかしいってどういうことすか?」

 もらった二本目のタバコに火をつける。

「うーん。よく分からないけど、警察のパトロールもやけに多いし、それだけじゃなくて、病

院の前を通る人の雰囲気がピリピリしてるというか、表情が険しいというか」

 イエナシさんが抱く疑念の正体が、いまいち僕にはわかりかねた。

 滅多なことではリビングに近づかない僕に、普段ニュースを見る習慣はない。イエナシさん

も、言い方を変えれば流浪人のようなもので、世情には疎いのかもしれない。

「なんか起きてるんすかねぇ」と間の抜けた返事を返すことしか出来ない。

「ここともそろそろさよならしないといけないかな」イエナシさんは窓の外の夜景に目を向け

ながらそう言った。

「えー、マジすかぁ。なんとかなんないんすかねぇ」

 この場所が奪われるとなると、相当きついものがあった。ここがなくなったら……。

 想像するだけでゾッとした。それくらい、僕はこの廃病院に救われている。同時に、依存し

きっていることを自覚する。

「まぁ、その辺どうなるかわからないけど、とにかく気を付けときなよ」

 僕は一気にしょんぼりしながら「はい」とだけ答えた。


 このときの僕は、大きな流れに抗う気概なんてこれっぽっちもなくて。

 だからただ、大切な何かが奪われることに、怯えることしかしようとしてなくて。

 眼前に迫る良くない未来から目を背けていた。その未来を変えようと目を凝らせば、サイン

は見つかったのかもしれない。

 目を閉じてたから当然、違和感なんて感じない。



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