ホスピタライジング

西平井ボタン

第1話

「ああっ! あっ! いやっ、んっ。……あっあっあっ! あああぁ!」

 学校をサボって午前中からショッピングモールを回遊していると、男性用トイレへと向かう途中、十六歳男子としては聞き捨てならない音を聞いた。立ち止まり、耳を澄ませる。

 聞こえる! 聞こえるよ!

 そう叫びたい衝動に駆られた。音の発生源である多目的トイレに近づく。ドアに音を立てないように耳をピッタリとくっつけた。

 貴重な体験は誰かにシェアしたくなるというのが人の性である。

 多目的トイレの中では、男女の荒くなった呼吸音をベースに、男が筋肉を動かす際に力んで漏れる「うっ」とか「くっ」とかの声がリズムを刻み、女のやんごとない喘ぎ声がメインを飾っていた。

 素晴らしい。

 僕が学校をサボっていても世界はちゃんと時間を止めず、動き続けているのを感じた。

 辺りをさっと見回して、人の往来を確認した。幸いにも、開店して三十分ほどしか経っていない平日のショッピングモールのゲーセンコーナー付近に客はいなくて、少し離れたところにある婦人服売り場の店員のおばさんがディスプレイを念入りにチェックしているだけだった。

 そこで文明の利器を取り出して録音することにした。

 相も変わらず男女の仲睦まじい愛の賛歌は続いている。しかしどうやら男の方の限界が近いようなのでもうそろ聞き収めといった具合であった。

 ふむふむ。

 なかなか淫靡かな。

 女の方の声は決して自然ではなかったけれど、オリジナリティ溢れる趣向が凝らされていて、しかし王道を外しているわけでもなく、日々の研鑽が窺い知れる出来だった。

 僕はすっかり、UMAを発見して観察に夢中になる学者のような気分になっていた。

 単独任務を孤独に遂行する仕事人のような心境の傍ら、女性はどのようにしてこの喘ぎ声という技術を取得するのかといった深い考察を続けていると、ひときわ力のこもった「うぐっ」という声と「アァァ――!」という天まで昇りつめそうな長く高い嬌声が一部始終のフィナーレを告げた。

 二人が中で「ふぅ」と一息つくと同時に、僕も「ふぅ」と一息つきながら録音を停止する。まさに演奏者と聴衆が一体になった瞬間だった。

 目下のところの目的は果たしたように思えたが、改めて考えてみると、声質から男女がそれなりに若いことを推測した。すると先ほどの学者魂というか、大いなる探求心が盛り上がってきて、二人の正体を突き止めようという気になった。

 これがジャーナリズムか。 

 ただの野次馬じゃねぇか!

 興奮した脳内でひとりボケて、ひとりツッコミをいれつつも、冷静に若い二人であれば、事が済んで出てくるまでの時間はそう長くないと予想した。

 用が済んだら長居は無用だよな?

 モーマンタイ。その通りだ。

 胸のうちで自問自答して、答えを導き出す。今の僕は最高に冴え切っていた。

 ゲーセンコーナーの壁際に並んでいるスロット台の一番端に座り、念のため学生服の上着を脱いでこちらの身元割れを防ぐ。傍目からはくたびれた予備校生くらいに見えるだろう。

 ふふっ。最高にクールだ。

 ここでまた万能器の登場である。携帯だけを角から伸ばし、ちょうどトイレから二人が出てきたところを激写してやるのである。公序良俗を乱す蛮族を取り締まる正義のパパラッチとは、僕のことだ!

 そのとき、ガチャッとロックが外れる音がして、スライド式のドアが開くのがわかった。が、そこではたと僕はシャッター音で二人に気付かれる可能性に思い至り、慌てて携帯を引っ込め動画撮影モードに切り替えて角から携帯を突き出した。

 ……耳を澄ませる。足音が向こうの方に遠ざかっていく。ギリギリのタイミングだったが、顔の判別は出来るだろうか。

 僕はしばらくして携帯を引っ込めて、撮影を停止させ、さっそく撮れ高の確認を始める。

 残念ながら角度がまずかったらしく、出入り口付近に固定していたカメラは、フェードアウ

トしていく二人の下半身がギリギリ映っているだけだった。そのまま画面は変わらずノイズに混じって二人の足音が記録されているだけだった。――



「――っていうことがあったんだけど」

 その日の放課後。僕は夕焼けにこんがりとジューシーな感じに着色された河川敷に来ていた。

 一級河川の脇を固めるようにしてコンクリートで舗装されたそこは、スケボーをたしなむ若者の溜まり場と化している。

 斜面に三人で座って駄菓子をつまみながら、黄昏の中行きかうママチャリや少年少女、学生たちを見るとはなく見ながら、いつもの雑談に興じる。

「まぁまぁまぁ、とりあえず現物を聞かせてくれや」

 周平はひと滑り終えてすっかりくつろいだ感じでそう言った。

 頭ぼさぼさにひょろひょろ眼鏡で見た目オタクだが、スケボーにバスケと意外にアクティブである。

「そうだ。急げぇセイヤぁ」

先ほど僕が買ってきた駄菓子の詰まったビニール袋を漁りながら、小高はそう急かしてきた。

「それはいいけど、お前がさっきから厚かましさを通り越した勢いで貪っているその駄菓子の料金が、きちんと支払われるかを俺は激しく気にしているんだけど!」

「いいじゃんか。ケチィ」

 そう言いつつ、小高はちゃっかりとヨーグルを二つ掴み取っている。

 僕の方から言う前に、自分から「これ、駄菓子代ね」とか言って払ってくれることを常々望んでいるが、彼がその望みを叶えてくれたことはない。

 いつもどんくさく、こちらが苛々するくらいにとろい癖に、人の言うことには一丁前にシビアで現実的な意見を突き付けてくる。歌の間奏に入る合いの手の要領で「贅肉を減らせ!」と言えばすぐにしゅんとなるくせにだ。まったく取り扱いが難しい。

 小高のマイペースにいつも通り多少ムッとしながらも、僕は携帯を開いて録音データを再生する。僕が差し出した携帯に二人が耳を寄せる。二人とも耳をそばだてることに集中し過ぎて目が泳いだり見開いたりしているのを見て一瞬ニヤついたが、すぐに自分もそうだったのではないかと気づき、真顔になる。

 若い二人の愛のデュエットはわずか三分ほどで終わる。二人とも聞き終えると正面に向き直る。

「いかがかな? お二人さん」

 川面に反射した西日に照らされた満足そうな顔に問いかける。二人とも、「ふぅ」の境地を体感しているようだ。

「実に素晴らしいな。セイヤくん」と周平は感無量の念を込めて感想を述べる。

「いい仕事をしますね。セイヤさん」と慇懃な口調で小高は珍しくお褒めの言葉を口にする。

「いやいや、そのお言葉以上に嬉しいことはないですよ。パパラッチ冥利に尽きるってもんです」と僕も乗っておく。

「ところで中の人の正体が分かるかもしれない映像があるんですが、チェックしてもらってもいいですかね?」

 男の方は学ランだったので分からなかったが、女の方はうちの高校のスカートだった。

「言うまでもなかろう」とお代官顔の周平。小高も頷く。

 三人ともつい今しがた聴いたものを頭の中でヘビロテさせるのに必死で、周囲に気を配る余裕などあるわけもなく、無様に無遠慮にディズニーの悪役も真っ青な不敵な笑みを浮かべていた。

 稀に見るゲス顔である。

 余韻冷めやらぬうちに各自脳内で始まったアンコールの中、僕はそのエンドローグを公開しようと携帯を操作する。そのとき、「よっ」とすぐ背後から声をかけられたので、三人してギョッとしながらバッと振り返る。

 蛇に睨まれた蛙も大爆笑のビビり様だった。

「あっはっは。なんだよその顔」

 声の主である上杉は文字通り腹を抱えて笑い出し、隣にいる彼女らしい女の子も、その超弩級の驚愕顔に一瞬ハッとしたけど、すぐに目に涙を浮かべながら笑い出した。僕らはお互いに顔を見合わせた。鳩が豆鉄砲を食ったような顔っていうのは、こういう顔のことをいうんだと、そのとき初めて知った。

 僕と小高は口をパクパクするだけだったが、周平はなんとかいち早く通常営業に戻り、「なんだよって、そっちこそなんだよ上杉。彼女が出来たとか俺のところに報告きてねぇぞ」

 それを聞いて「あっ」ていう顔で女の子は上杉を見る。

「そんな義務ねぇし。つか、付き合ってないし」そう言いながら上杉は膝で周平を下に落とそうとする。

「やめろよ」などとにこやかに笑いながら周平は立ち上がり、逆に上杉を落とそうとする。僕たち三人を置いて二人だけでキャッキャとじゃれ合い始めた。

 暮れなずむ河川敷。成績優秀で剣道を嗜むイケメンと、青白い草食系優男が微笑み合う。

 まるでボーイズラブである。

 そんな二人はさておき、上杉と同じ高校の小高にこの女の子を紹介しろ、と視線を送る。

 そんな僕の視線に気づいてか、小高が女の子に声をかける。

「恵理ちゃん、今日も生徒会だったの?」

 じゃれ合う二人を見てとろけそうな笑みを浮かべていた恵理ちゃんは、小高の声でハッと我に返り慌てて「うん、そうなの」と答えた。

 その後小高と恵理ちゃんは二人で話始め、それによるとどうやら上杉と恵理ちゃんは生徒会の会長と書記で、四月は新入生にまつわるあれやこれやの行事の準備やらで一緒に帰ることがよくあるそうな。ちなみに、小高と恵理ちゃんは同じクラスらしい。

 そんなことはどうでもよくて、一人取り残されたままの僕は、険しい視線をその会話中ずっと小高に向けていたのだが、奴はそれをずっと無視してやがる、こん畜生。

 そうしていると、息を切らしながら二人がこっちに戻ってきた。

 いったい、何してきたの君たち?

「いやぁ、懐かしいな」

 僕のハラハラしている内心とは対照的に、上杉は爽やかにそう言った。

 いつの間にか、陽がだいぶ沈んでいた。



 五人で連れ立って駅に向かって歩く。

 小高と周平が恵理ちゃんを挟んで何やら楽し気に話している。僕はそれを見ながら少し和んでいた。

「学校は、どんな感じ? 楽しい?」

 横を歩いていた上杉が、そう訊いてきた。

「いや、全然。下らないね。毎日吐きそうだよ」

「……そっか」

「そっちはどんな感じなん? なんか結構楽しそうだけど」

「まぁ、ぼちぼちって感じかな。それなりに楽しんでるとは思うけど、まぁ、あと一年とかでもう受験生だしね。結局高校生活って大学に行くための勉強ばかりな気もしてる」

「偉いね、上杉は」

「……そう?」

「うん。俺なんてその辺が全然納得いかなくてさ。それで駄々こねてるだけなんだよ、きっと。みんなそろそろどうしようもないこととか、しょうがないこととかを受け入れていってるんだろうけど、俺はまだ甘えたままでさ」

「……そっか」

 束の間、沈黙が訪れる。気を遣ったのか、上杉は続けた。

「でもまぁ、中学の頃の他の奴らなんて、そんなことすら考えてない奴らばっかじゃんか。思考停止っていうか。西谷だったら足踏みした分、ものすごい速さで取り返すでしょ」

 その返事を聞いて、ちょっとだけ先を歩く上杉を見る。表情からは、上杉がどんなつもりでそう言っているのか、分からない。

 中学の頃の上杉は、僕のことを西谷じゃなくて、「セイヤ」と呼んでいた。――



 ――僕と小高と周平と上杉は、中学の頃同級生だった。

 僕たちが住んでいるところは地方で、しかもとびきり田舎だった。僕たちの中学校は複数の小学校の生徒が通うようになっていた。

 そんな感じで出会った僕たちは、最初の一年は十五人くらいの遊び仲間のうちの一人だった。

僕たちの中学校はひと学年が三クラス合計百人弱で、全員が顔見知りのような間柄だった。僕たちのいわゆるグループの特徴と言えば、小学校の感覚が抜けてなくて昼休みはずっとみんなで鬼ごっこをやっている、そんな奴らの集まりだった。

 ただ、他の奴らが実際のところどう思っていたかは分からないけれど、僕はそのときが一番楽しかった。

 初めて恋をした女の子や憧れていた環境でトントン拍子に躍進する新人の毎日が輝いているように、僕はたくさんの仲間と鬼ごっこをする毎日をとてつもない幸せだと感じていた。

 だけどそんな日々は長く続かなかった。

 振り返ってみて初めてわかることだけど、それは本当に短い時間だった。

 二年生にあがって梅雨の時期に差し掛かった頃くらいから、一人また一人と鬼ごっこに参加するメンツは減っていった。

 夏休みに入ってもみんなで集まって遊ぶことがめっきり減っていった。僕は僕で、野球部の練習や塾通いが割と忙しく、また二学期になれば心躍る毎日が戻ってくると楽観視していた。

 しかしその予定とは逆に、二学期になると昼休みに集まるのは僕と小高と周平と上杉の四人だけになっていた。そんな状態になって初めて、僕は現実を認めた。

 みんなが昼休みにつるまなくなった理由は簡単だった。

 みんな、恋を始めていたのだった。

 実際は気付いていた。部活でも塾でも、同級生たちが話しているのは主に恋愛に関する話で溢れかえっていたから。

 みんな恋愛に目覚め、僕たち四人は取り残される形になった。

 だけど僕たちは、恋愛よりもそれまでの日々を気に入っていた。だから違うことをすることにした。

 二年生の後半は、四人で協力プレイが出来るゲームをした。僕たち四人はそうやって、それまで以上に仲良くなった。以前に比べ、幾分ささやかにはなったけれど、楽しい毎日をまた過ごせるようになった。たぶんみんなの中には置いて行かれた感覚があったように思う。だけどそれについて、当時僕たちが話し合うなんてことはなかった。みんなその時の日々が気に入っ

てたんだと思う。

 それから三年に上がり、僕たち四人もそれぞれ個人で活動することが多くなった。

 僕と上杉は二年のときからクラスが一緒で、その頃からよく試験勉強を二人でしていた。二人とも頭が良かった。三年になってからは部活と勉強に精を出すようになった。僕は野球部で上杉は剣道部だった。

 小高はテニス部だったけど、弱小テニス部だったので三年になってすぐに引退した。引退したあともずっと放課後になると部室でだべって後輩たちとつるんでいた。

 周平は帰宅部で、学校で内職をするか、放課後はすぐに家に帰ってゲームをやっているようだった。

 三年生になってから、僕と上杉はよく、校舎のデッドスペースで社会や理科の一問一答を出し合ったり、空き教室の黒板を使って数学の問題を解いたりしながら、色んな事について語り合った。

 たまに上杉は、恋愛する人間の愚かさについて熱弁をふるった。

 お金が勿体ない。時間の無駄遣いだ。疲れる。

 内心そんな感じでも、いやだからこそ、異性への思春期特有の気持ち悪い対応を発動することなく、表面上のフランクさが奏功して上杉はモテた。その対応力だけでも当時は他との雲泥の差を生んでいたのだが、加えてイケメンで、文武両道で、生徒会にも入っていたので、恋愛においては向かうところ敵なし、天下無双の状態だった。

 僕はよく疑問に思っていた。こいつはなんで恋愛しないんだろう、と。



* * *

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る