第3話 桜を楽しむ季節も数えれば100いかない。友達と遊ぶ回数は?



 次の日。

 僕は珍しく学校に来て出席していた。と言うと語弊があるかもしれない。

 基本的に、毎日通学して学校には一応来る。だけど、朝の時点でサボるかどうかを決めてい

る。今日は1日、学校に張り込むつもりで、だから出席していた。

 ここでひとつ、説明が必要なように思う。

 諸々の状態から、例えば担任教師から親に連絡が行ったりして、それなりに面倒くさい展開

に普通はなるはずなのに、何故そうなっていないのか。

 実のところ今うちの家庭内は、それなりの恐慌状態にあり、僕が学校をサボっていることを

とやかく言う余裕はないのである。

 いろいろと端折って説明するならば、親父が浮気していて、弟が中学でしょっちゅう問題を

起こして、去年亡くなったじいちゃんの遺産相続問題がまだ解決してなくて、とやかく言いそ

うな母親はそれらでテンパっててんやわんやしているのだ。

 そんなわけで、僕は高校の二年生にあがってからここ最近ずっと、サボり通しだった。担任

は母親との初回遭遇の際、盛大なヒステリック攻撃を受けて、再起不能に陥っていた。以来、

僕にはノータッチを決め込んでいる。

 説明終了。

 なぜ真面目に出席しているのか、というと。僕は僕なりに、イエナシさんの言葉が気になっ

たのが、その理由だ。

 鬼ごっこを無上の喜びとしていたり、恋愛経験値がゼロに等しい点から精神年齢が低いよう

な気もするが、僕としては自分のことを単純にドキドキワクワクすることが特別好きってだけ

なんだとそう思っている。

 三度の飯よりスリルを欲している、ということだ。

 この近辺に徐々に蔓延しつつある違和感みたいなものの正体。

 僕は最近ずっとこの辺の住宅街やお店を回遊していたけれど、まったくそんな感じは受けな

かった。

 退屈ではあったけど、ここのところの日常を、僕はそれなりに気に入っていた。

 そんな日常が崩れるかもしれない。イエナシさんから話を聞いたとき、僕には不安と想像し

た末の絶望しか湧かなかった。でも、なんでかな。

 寝る前に、もう一度考えてみたんだ。すると、不安と同時に、冒険への期待感が胸に湧いて

きた。そうなった理由について考えているうちに、気付くと眠っていた。

 朝目覚めると、なんとなくその理由がわかった。

 たぶん、上杉に会ったからじゃないかな、と思う。上杉に会って、久しぶりに中学の時のこ

とを思い出して、あの頃の僕はそう言えば、いつもワクワクしていたことを思い出したんだ。

 あの時、僕はピンチに見舞われても不安を感じることなく、次のワクワクを見つけられてい

た。

 過去の自分を土台にして立ってみると、久しく感じていなかったやる気が、全身を満たした。

 ……というわけで、僕は実地調査としゃれこんでいる。

 教室に入り、自分の席につく。それに気付くと前の席の井上が、イヤフォンを外して声をか

けてくる。

「よぉ。珍しいじゃん」

「あぁ、ちょっと。気になることがあって」

 そう言いながら鞄を机の横にかける。机の中を確認する。

「なんだよ? 気になることって?」

「まぁ、いろいろあんだよ」

 そう言いながら今日は何曜日かを思い出す。同時に、曜日に対応した時間割が全く分からな

いことに気付く。完全なる浦島太郎状態とはこのことだ。

「ふぅん。そっか」

 そう言うと、井上はその話を切り上げて、ここ最近僕が学校に来ていない間に起こった出来

事について教えてくれたりした。

 こんな感じで、僕もまったく学校に友達がいないわけではなく、井上とはつかず離れずとい

った関係を続けている。井上は井上で一人勝手にサボることがあって、そういう時は僕が何が

あったか伝えたりするのだが、ここ最近はまったくできていない。

 教室のクラスメイトたちは久しぶりに見るはずの僕の姿にも、特に感想はないようだった。

ひそひそ声も聞こえない。みんな、呪術信仰に忙しくて他人に構っている暇はないのだろう。

 いつか、井上にも廃病院の合鍵を渡してみるのもいいかな、などと僕は考えたりする。

 井上の話をまとめると、ほとんどが教室内か学校内で起こった出来事で、この町の違和感を

辿れそうな情報ではなかった。

「とまぁ、ざっとこんな感じかな」

「そっか。サンキュ」

「あぁ、その代わり全部終わったら教えろよ」

「何を?」僕は内心少しドキッとしながらそう言った。廃病院のことが噂になっているのか。

「最近サボって何かやってんだろ?」

「いや、最近っていうか、昨日からなんだけどね」

 どうやら廃病院については知らないらしい。

「とにかく諸々についてだよ」

 そう言って、井上は僕の目をじっと覗きこんできた。そのマジな感じは不意打ちだったけど、

不快には感じなかった。目を背けなかった。

「ここらで語り合うべきなんじゃない、とか思ってさ」

 井上が踏み込んでくる。知らず、僕もだいぶ井上に気を許していたことに気がついた。考え

てみれば、もし井上がいなかったら、僕はきっと、教室に入るのさえ嫌になって、登校しても

保健室に直行する毎日を過ごしていたのかもしれない。

 そう思うと、胸に熱いものが沁みてくる。僕としてもやぶさかではない、なんて自分に対し

て照れ隠しする。

「お前、コーヒー飲めんの?」僕は訊いてみた。

「んー。あんまり好きじゃないかな。なんで?」

「行きつけの喫茶店があるんだ。サボった時の」

 自然にはにかんでしまう自分を、歯がゆく思う。

「おー、そういうのだよ。そういう自分だけが知ってるお得情報を共有したいんだよ。西谷お

前、いつも正門からサボってんだろ。あれ相当噂になってるってか、いろいろ言われてんぞ」

「あ、そうなの。気にしないけどね」

 僕はいつも、学校に来てそのまま朝正門から堂々と帰っている。忘れものでも取りに帰って

いると思われてると思ってたんだけど。

「もうお前がサボり魔だって職員室全校版ブラックリストに載ってるみたいだぜ」

「うげ。なんだよそれ、お前は?」

「俺はまだ載ってない」井上がすっとぼける。

「なんでだよ」そう笑いながらツッコミをいれる。

 教室前方のドアから担任教師が入ってきた。にわかにざわつきが収束し始める。

 ふと視線を感じて隣を見ると、穂谷さんがこっちをじっと見ていた。

 ……まるでボーイズラブだったのか!



 ホームルームが始まって、ぼんやりと担任の話を聞いていた。

 一か月ほど前に国内の遠方で起きた地震について、学校内で募金をしていたが、それを急遽

中止にするらしい。

 それを聞いたとき、その担任が地震が起きてまだ間もない頃に言った言葉を思い出す。

「お前らに出来るのは、勉強だけだ。それか募金ぐらいのもんだ」

 あの時は僕も家庭のことでそれなりのショックを受けていて、弱冠やさぐれていたようにも

思えるけど。

 イラッとした。

 ボランティアとかあんじゃん、とか。

 結局自分に都合よく言い訳して、「あいつらの分も俺が頑張る」とか言って利用してるだけな

んじゃね、みたいな。

 実際のところ、僕が苛々した原因は、たぶん薄々見えていたひとりの人間の限界や、自分は

特別でもなんでもないっていう現実を指摘されたことにあるんだと思う。

 募金中止の理由としては、最近募金に乗じた詐欺事件が発生しているらしく、それが原因ら

しい。

 そのときピンとくるものがあった。

 イエナシさんの違和感に関係するものとして、これ以上びびっとくるものが他にあるだろう

か? いや、あるはずもない。

 というわけで、今日が募金の最終日になる、とのことだった。

 なるほど。それで朝正門前で生徒会がいつも以上にやたら気合を入れて募金の呼びかけをや

っていたのだと分かる。

 僕の中で沸々と、やる気みたいなものが湧くのを感じる。

 視線を感じて隣を見ると、また穂谷さんと目が合う。

 しばらく授業を受けてなかったから忘れていたけど、僕はよく隣の席の穂谷さんと目が合う。

割と至近距離だ。穂谷さんはまじまじと僕のことを見るので、授業中でもよく視線を感じる。

その視線には不思議な引力があって、僕は反射的に振り向いていつも気まずい感じを味わって

いる。

 穂谷さんは、いつも女子の群れの中にいて、特に女王やスケ番的な役割ではないのだけれど、

色が白くて痩せていて女子の割には背が高くて、顔付もなんだかロシア人っぽいところがあっ

て、「熱血オカルト高校」であるうちの高校の中でも異彩を放つフランス人形として有名だった。

 そんなわけで、彼女はいわゆるスクールカーストの中では上位に位置するグループに属して

いる。

 その割には、いつもぬぼーっというか、のぺーっとした印象と言えなくもなかった。色が白

すぎるのに加え、表情にもあまり変化がないので、本当に呪いの人形的な恐怖を、時折目が合

ったときなんかは感じたりもする。

 そんな穂谷さんの視線だからなのかは分からないけれど、僕はこの視線の意味が未だによく

分からないままだった。そしてわからないからこそ、恐怖は倍増するのだった。



 昼休み。

 とりあえず目下の捜査対象は定まったし、これ以上学校にいても何もいいことは起こりそう

にないので、急遽出先から直帰することにした。学食や売店に向かうやつに紛れて鞄を抱えて

裏口から抜けようと思ったが、その前に下駄箱から靴をとってこなくては、と思い立った。

 立ち上がると「井上が、サボりか?」とニヤニヤしながら訊いてきた。

「ちゃうわ」とだけ返して教室を出る。

 下駄箱に向かう途中、廊下で生徒会の一群が向こうからやってきていた。

 どうやら昼休みの間、各教室を直接訪問してカツアゲをして回るつもりらしい。僕はそそく

さと脇をすり抜けようとしたが、あと少しのところで腕をガシッと掴まれた。

「絶対、逃げようとしてたでしょ」

 満面の笑みで腕をガッチリとホールドしたのは、工藤さんだった。――



 ――工藤さんは僕と同じ中学に通っていた。

 あれはたぶん、中学に入ってから間もない頃のことだったと思う。

 当時からきっと僕には不法侵入する癖みたいなものがあって、それは秘密基地とかそういう

ものに小さい子供が憧れる気持ちが発端だと思うんだけど、そのときも音楽準備室に忍び込ん

でいたのだった。

 四時間目の音楽の時間が終わったとき、音楽室を出て行くふりをして音楽準備室に忍び込ん

でいく。それから音楽の教師が出て行くまで息を殺して忍び込んだまま待つ。

 やがて音楽教師は鍵をかけて部屋を出て行く。しばらくしてから内側から鍵を開けて出る。

そうしておくことで、昼休みに音楽室に堂々と忍び込んで悠久の時を過ごせる予定だった。

 その日の下ごしらえもいつも通りに済んでいて、僕は昼休み音楽室で小説かなんかを読みな

がら過ごしてたと思うんだけど、そこに突然ガチャガチャと鍵を鍵穴に差し込んで解錠を試み

る侵入者の存在に気が付いた。

 音楽室は、奥に向かって段々上っていくタイプの教室だったので、僕は慌てて一番奥の机の

下に隠れた。入ってきた人物は、おもむろにグランドピアノに近づき、ゆっくりと丁寧に何や

ら準備すると、弾き始めた。

 僕はそれを聴いた。飽きなかった。一粒一粒の時間が、刻まれていくような気がした。

 認めよう。そのとき僕は恋に落ちていたのだと思う。

 その後中学三年間を通して、僕は恋愛とは無縁の生活を送っていたのだけど、工藤さんに対

して抱く感情は、今からしてみれば完全に恋だった。ただ、当時の僕はそれがどんなものかよ

く知らなくて、周りに教えてくれそうな人はいなかったし、何より恋愛は僕から楽しかった日々

を奪った天敵としてインプットされてしまったので、そのことに気付くのに普通の中学生より

時間がかかってしまった。

 演奏が終わると僕は立ち上がり、演奏者に向かって拍手を送った。――



 ――「いや、してないって」

 工藤さんの前に出ると、いつもこんな感じになる。もっと気の利いた返しが出来なかったの

かと、このあと自分に苛立つこと請け合いだ。

「うそー。まぁいいや。捕まえちゃったし」

 ずっとニコニコしてる工藤さんを見ていると、ずっと険しい顔しかできない自分がもどかし

くて吐きそうになる。

「今日、最後だっけ? 募金」

 僕は辛うじて世間話的な切込みをすることが出来た。

 そう言うと、一層笑みを深めた工藤さんが、「そうなの。はいこれ」と言って募金箱を差し出

してきた。

「おいくらになさいます? 一口千円からになりますけど」

「高すぎるでしょ!」

 アハハと工藤さんが口を押えながら笑う。一応のツッコミは入れたけれど、なんとも冴えな

いものになってしまった。

 気付くと集金係の集団が次の教室へと移動し始めていた。

「移動してるよ。他の人たち」

「あー、うん。そうだねぇ」

 のんびりとした口調で工藤さんはそう言った。

「行かなくていいの?」

「なんか、飽きちゃった」

 そう言って悪戯っぽくニコッと笑う工藤さんはとびきり可愛かったのだけれど、真面目な工

藤さんがそう言うのは珍しいと、ちょっとした違和感を覚えた。

「ところで西谷さん、どちらに行かれるんですか?」

「え? ちょっと下駄箱までですが」視線が合わせられない。

「何しに行くの?」

「ちょっと……秘密の会合があってね」

 なんとなく、そんな風にごまかした。サボると答えるのが恥ずかしかった。工藤さんの前で

は、普段はなんでもないような色んなことが恥ずかしくなる。

「何それ? 私もついてっていい?」再び腕を掴まれる。

「いや……それはちょっとね。秘密の会合だしね。あっ、ほら向こうで呼んでるよ」

 向こうでこちらに手招きする爽やかな好青年の姿が目に入った。工藤さんに視線を向けると、

表情が険しい。

「どうしたの?」と訊くと、

「いや、あいつウザいんだよねぇ」と険しい顔のまま工藤さんは言った。

 僕が不安と安堵が入り交じった複雑な気持ちでいると、「じゃあね」と言って工藤さんはその

好青年の方に歩いて行った。去り際僕に向けた表情は笑顔で、僕はそれがスイカに塩をかける

食べ方にも似て一層嬉しくもあって、その余韻をそのままに下駄箱に向かった。

 下駄箱から靴を確保して、教室に戻る。

 自分の机から鞄を取ろうとすると、くるりと井上が振り返り、「何ニヤけてんの?」と笑いな

がら言ってきた。

 僕は「うるせぇ」と言いながら軽く井上の座っている椅子を蹴って、この弁当の匂いが蔓延

する部屋を離脱しようとした。

 視線を感じたので性懲りもなく隣を見ると、穂谷さんと目が合う。

 穂谷さんはキラキラキャピキャピしながらにぎやかに女生徒四人でランチタイムを過ごしな

がらも、しっかりとこっちを見ていた。

 僕のような特徴のない落ちこぼれに特別用があるわけもないはずなのだが。

 なんだろう? とりあえず気を付けよう。

 僕は気になりつつも、教室を後にした。



* * *



 学校を出て、ここ最近ずっと通っている喫茶店「サハラ」に向かった。

 ショッピングモールがある大通りから少し離れた閑静な住宅街にひっそりと佇む「サハラ」

は、学生服を着たままの高校生が昼からサボるにはうってつけの店だった。

 ドアを開けると、店内には既に懐柔された知り合いのお姉さんと暇な老人が二人いるだけだ

った。

 お姉さんはやれやれといった様子で「いらっしゃいませ」と言った。すぐに跪いて赤ちゃん

言葉で甘えたい衝動に駆られるが、理性でそれを抑え込む。

 僕は爽やかに会釈しながら「どうもー」と言いつつ、いつもの窓際の席を陣取る。

 今日の陽射しは最高だな、などと目を細めながら至福の時間を得る。テーブルにお冷のグラ

スがとんと置かれる。

 テーブルの横で、お姉さんが眉間に皺を寄せてトレイを抱いている。

 素晴らしく可愛い。

 アイドルグループ「サイクロン」の梅田君に似て、理知的な小顔とくりくりっとした愛らし

い瞳が印象的なお姉さんは、詳しいことは知らないが、どうやら近所の大学に通う大学生のよ

うで、「サハラ」にはバイトで来ているようだ。

「ブレンドのホットをお願いします」

 僕は申し訳なさを渾身の力で顔面にたぎらせ、頭を下げた。

 仕方ないといったニュアンスをはらんだ「承知しました」が頭上から聞こえ、お姉さんはカ

ウンターへと去っていった。

 楽しいひと時ついでに、先ほどの工藤さんとのやり取りを思い出して、自然と口元がほころ

んでくる。それと同時に、工藤さんとの関係はきっと、今がベストな状態なんだろうと思う。

少なくとも工藤さん的には。――



 ――ありきたりなことやたまに起こるおもしろい出来事を経験しながらも、僕は勉強と部活

をこなしながら、心の奥底ではあの頃を求めつつ、中学三年間を過ごした。

 その三年間の日常の中に、楽しい出来事として工藤さんとの思い出が散りばめられている。

 工藤さんは習い事としてピアノをやっている他に、剣道部のマネージャーをやっていた。そ

れで工藤さんと一緒に上杉の試合の応援をすることなんかが多かった。


 中学を卒業して高校入学を控えた春休みもどきに、僕は工藤さんに告白した。

 その春休みもどきに入ると、僕は何もすることがなくなっていろいろなことを考えた。

 ぽっかりと出来た長い時間は、同じように僕の中のぽっかりと空いた穴の存在に気付かせる

には十分な時間だった。

 そのときには既に、上杉や小高を含め、中学の知り合いで連絡を取るやつはひとりもいなか

った。上杉は僕と同じ高校を受験して落ちていた。小高は第一志望にしていたけれど、点数が

思うように伸びなくて、志望校をランクダウンしていた。結局二人とも、今の滑り止めの高校

に通うことが決まっていた。用事があって中学校に行ったとき、先生からそのことを聞いた。

 何かないのか。

 僕はそう思い始めた。

 僕の三年間はなんだったのだ。

 悔しかった。

 悲しかった。

 あの頃の記憶が浮かぶ度に、その気持ちが大きくなって押し寄せてきた。

 僕の高校に進学する同級生は片手で数えられるほどしかいなかったけど、誰とも親しくなか

った。工藤さんを除いて。

 そのとき僕は、工藤さんという存在が僕の中に占める割合の大きさに気付いた。楽しかった

日々を思い出すと悲しくなるので、それを防ぐための防衛本能だったのかもしれない。

 僕は工藤さんとの思い出を振り返って、それが恋だったと気付いた。そのとき初めて気付い

た。だから恋の仕方も何も知らないままだった。

 それでも立ち止まることはしなかった。それくらい心に空いた穴は大きかった。居ても立っ

ても居られなかった。

 手紙を書くことにした。オーソドックスに。

 と、当時は思っていた。

 そして今に至る。

 工藤さんと特別なやり取りはなかった。ただ、入学当初に顔を合わせると、とびっきりの笑

顔で微笑んでくれただけだった。それから中学の時の同じような楽しいやり取りをした。

 そのときにはもう、熱血オカルト指導が始まっていて、深く考える時間を僕は持ってなかっ

た。だからというわけでもないけれど、僕は現状に納得することにした。――



 ――コーヒーのソーサーとカップがたてるカチャッという音でハッと我に返る。

 隣を見ると、お姉さんがいた。眉間に皺はない。とてつもなく可愛い。

 愛おしい声で「ごゆっくり」と言う。この声を聴くと、ときどき胸が苦しくなったりする。

僕はそれを振り切るように爽やかに告げる。

「今日もお綺麗ですね」

 お姉さんの眉間に皺が刻まれる。でも、口元は笑っている。

「どうもー」と言いながらやれやれって感じでお姉さんは戻って行った。

 まんざらでもなさそうだ、というのは僕の思い上がりだとしても、不快ではないだろう。

 コーヒーを少しずつすすって、踊り踊り出す心を落ちつけていった。

 陽射しが雲に遮られ、店内が少し翳る。ふわっと何かのスイッチが、体内で切り替わるのを

感じる。

 携帯が揺れる。

 確認すると、小高からのメールだった。

「今日、たこ焼き食おうぜ」とだけ、書かれてあった。

 僕は、「了解」とだけ書いて送信した。

 僕の学校を出てしばらく坂を下ると直進する道と左に行く道がある。

 左に行くと今いる小高い丘があり、なだらかに家が立ち並ぶ住宅街へと続く。

 正面の道を三分ほど歩くと、廃病院が左手に表れる。そこから一分ほど歩いた先で右にある

小道に入ると、僕らが行きつけのたこ焼き屋がある。気さくなおばちゃんがやっている店で、

外に放り出してあるパイプ椅子に座ってだべるのだ。幸いにも、僕の高校の生徒に帰り道買い

食いをするような奴は少数派で、いたとしてもオシャレな大通りの店でパフェやらタピオカや

らショッピングモールへ行く。

 ということで、ここでは他の生徒と遭遇する確率が低く、落ち着けるのだ。

 ちなみに、さっきの通りに戻り、三分ほど歩くと大通りにぶつかり、ちょうど目の前にショ

ッピングモールがある。そこからさらに十分ほど歩くと、例の河川敷にぶつかる、といった具

合になっている。

 その河川敷の向こう側に周平が通う高校があり、更にその向こうに小高や上杉が通う高校が

ある。



 店を出て、携帯のディスプレイを確認する。

 まだ三時前だった。昼下がりの時間帯である。午後のティータイムは早々に済ませてしまっ

たし、はて、何をしようかな、と考えてみた。

 ……駄菓子屋に行くことにした。

 住宅街を抜けてそのまま直線的にショッピングモールを目指していると、途中に駄菓子屋は

ある。

 午後三時前後なので小学生に遭遇する可能性はあったが、高校生には遭わないだろうと踏ん

でいた。

 店の引き戸を軋ませながらこじ開ける。

 幸いにも駄菓子屋に先客はいなくて、僕は貸し切りで商品を物色することが出来た。いくつ

かの、いつもの商品を抱えてレジのババァのところに向かう。商品を置きながら言う。

「あと、マイルドセブン」

 ババァの三白眼とガンを付けあう。この駄菓子屋はタバコ屋も兼ねていることで生計をたて

ているようで、そこに付け入るようにして僕は学ラン姿のままこのセリフを吐く。

 因みに今までの戦績は五十二戦五十二敗である。

「ふざけるな」

 チッ。

「くそババァめ!」

 いつものやり取りを終えた僕は西部劇よろしく、数枚の硬貨を台に叩き付けて颯爽とその場

を去ろうと出口に向かう。

 が、そこで出入り口の向こう側で何やら女生徒がこちらを覗いていた。

 僕は慌てて、しかしその素振りを見せないようにして商品の棚と棚の間に向かって急左折し

た。

 息を殺してしばらく商品棚の陰に隠れているが、女生徒はなかなか去ることがない。

 くそババァは鼻から息を思い切り吸って馬鹿にしたように「ヘッ」って息を吐き出し、こち

らをちらと見て、「何やってんだい、童貞野郎」と罵ってきたが、その指摘は至極まっとうで目

も当てられないほどの現実だったので、僕はなすすべなく無言の対応をするにとどまった。

 そうこうしていると、ガラガラという引き戸を開ける音とともに女生徒が駄菓子屋の中に入

ってきた。瞬時に状況を把握し、商品棚の陰に隠れながら見事すれ違えれば、望まない接触を

回避することが可能なはずだ。

 ったく、娑婆の空気が恋しいぜ。

 すっかり西部劇気取りを引きずりながら、僕はスネークさんとこのディヴィッドちゃんのよ

ろしく、逃げることに成功した。

 と思ったが。

 トトトッとその女生徒は流れるようなバックステップで出入り口に戻ってきた。

 出入り口に立ち塞がる。

 クソッ。万事休すだ。笑いたきゃ笑え。

 とんだお間抜けさんだった。スネークさんとこのディヴィッドちゃんも盛大な溜息をついた

気がした。

 かがんだ状態から見上げると、出入り口を封鎖している女生徒と目が合った。

 ……穂谷さんだった。その目は、何してんの? こんなところで、といったことを問いたげ

な目をしていた。初めて穂谷さんの目から何かを読み取れた。

「何してんの? ひとりで」

 そう思っていると、本当にそう訊いてきた。弱冠嬉しい。

 しかし、こんなところで、じゃなくてひとりで、と抉るような質問へと変わっていたのでさ

すがの一言である。

 ひとりで駄菓子屋にくる高校生男子にとって、ひとまず何をしているのかを聞くこと自体が

なかなかにセンセーショナルな言動なのだけれど、穂谷さんはその辺をまったく気にせずしか

も禁断の追加口撃、一人でという副詞句を続けたのだ! なんということだ。あぁ、嘆かわし

い。背教者を前におろおろする信者のような気分だ。

 僕は降参の意を表すために仰向けに倒れてお腹を丸出しにしてやろうかと思った。ついでス

カートの中を覗いてやろうか、と思ったのは内緒の話である。

 何も言わずにその場に伏せようとすると、ガラガラと引き戸が開く。新たな闖入者か、と思

ったが、今となってはもうどうでもよいことなので、気にせず這いつくばっていると上から「出

るんでしょ」と声が降ってきた。

 見上げると、穂谷さんがこちらを見ながら引き戸の向こう側、娑婆に向けて目線を送ってい

た。

 出られるのか? ここから? 無傷で?

 そのような疑問が僕の頭の中を席捲したが、他に採用できる選択肢もないので、そのお言葉

に甘えて四足歩行で出入り口を通過する。

 古びた駄菓子屋を出て、思い切り吸う娑婆の空気の美味さといったらなかった。

 そのまま駆け出そうとすると肩をガシッと掴まれる。

 恐る恐る振り向くと、いつも通りの無表情で穂谷さんは言った。

「ちょっと待ってて」

 どうやら仮釈放らしい。女子の群れの中で穂谷さんが「昨日駄菓子屋で――」とひそひそ他

の女子に囁き、みんなして僕の方を見ながらクスクス笑うイメージが湧く。

 ……しばらくは学校に行くまいと誓う。

 穂谷さんが駄菓子屋を歩き回っていろいろと買い込む姿を引き戸越しにぼんやりと眺めなが

ら、僕は考えてみる。

 穂谷さんという、ひとりの女の子について。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る