千尋が十一歳、繭子は十五歳だった頃。この家に引っ越して少し経った頃の話。母親の麗美が交通事故で死んでしまった。

 悲しいという感情は湧いてこなかった。

 千尋は麗美が生前に下した命令を律儀に守り、秋穂として生活していた。秋穂がするように顔を洗い、秋穂がするようにご飯を食べ、秋穂がするように眠りについた。誰も何も言わなかった。だから彼女はそうしていた。

 そんな日々を送っていたある日のことだった。

 その日、繭子の部屋にはめずらしく、千尋と道孝以外の人間がいた。小山内と名乗る、能面のような顔の若い男は、車椅子に座る千尋の前にひざまずいて彼女を見あげていた。

「久しぶり、千尋ちゃん。ずっと君を探してたんやけど、僕のこと覚えてるかな? ほら、小さい頃によく一緒に遊んだやろ」

 千尋は無言で彼の顔を見ていた。答えろと言われなかったからだ。

 小山内は道孝の方を振り返って言った。「千尋ちゃんを僕に譲ってくれませんか」

「人様の家に無理やりあがり込んで来たかと思ったら、何を言い出すんや」

「千尋ちゃんを僕にくれたら、繭子さんの件は黙っています」小山内は鎖につながれた繭子に目を向けた。「あれ、警察に言われたら困るでしょう」

 それは明らかな脅しだった。しかし道孝は意に介する様子もなく、薄笑いさえ浮かべながら彼のもとに歩み寄った。「あんた警察行って大丈夫なんか? ロリコンや、言うて逮捕されてまうんちゃうか?」道孝は小山内の胸を人差し指でつついた。「あんた、小山内議員の息子やろ。陽子が言うとったで、あの議員はええ金づるやって。あいつの息子は千尋に手え出しとるから、口止め料でいくらでも強請ゆすれるって」

 小山内の顔がさっと青ざめた。

「実はあんたが千尋にイタズラしてる写真、陽子のとこから拝借しとったんや。これ、どうしようかなあ」

 小山内の身体がぶるぶると震える。彼は千尋に顔を近づけると、道孝の方を指さして言った。「千尋ちゃん、あいつを呪い殺せ。今すぐ」

 しかし千尋は彼の命令を聞くことができなかった。

「無駄やて」道孝がせせら笑う。「実はなあ、面降ろしをしたせいかわからんけど、千尋の呪いが変質してしもうたんや。あんたが昔やってたみたいには、出来へんのや」

 力をなくした小山内の指先が、ゆっくりおろされた。道孝は彼の肩を優しく抱いた。

「お兄ちゃん、そんな顔せんと。実はな、麗美も死んだことやし、こいつの力を使って一発当てようと思っとるんや。繭子のことを黙っててくれたら、あんたにも甘い汁吸わせてあげるわ」道孝が小山内の顔を覗き込む。「議員さんの息子がおったら、捕まった時も心強いやろ。もみ消してもらえるかもしれへんしな。協力してくれるか?」

 小山内は悔しそうに顔をしかめて頷いた。


「あれ、殺さなあかんなあ」小山内が帰ったあと、道孝がぽつりとつぶやいた。まるで、今日は雨が降りそうだ、と言う時のような何気ないトーンで彼はそう言った。

 部屋の隅でガチャンと鎖が擦れる音がした。千尋は反射的にそちらに顔を向ける。血の気の失せた繭子が目を見開いて二人を見つめていた。ひび割れた唇がかすかに震えている。

「ほら、さっき言うたやん。お前の力を使って、一発当てようと思ってるって。うちの家で商売はじめんのに、あいつおったら邪魔やろ」

 千尋は何も言わなかった。

 もちろん彼の言葉の意味は理解していた。しかし自分の頭で考えることが苦手な彼女には、繭子が邪魔かどうか判断することはできなかったのだ。

 道孝は大きなため息をついて立ち上がった。机の上の金属製の花瓶を手に取る。麗美が死んで以来、誰も世話をしなかったせいで、挿してあった花は茶色く乾き、水は完全に蒸発しきっていた。

 繭子の足の鎖が、またガチャンと音を立てた。彼女は恐怖でいっぱいに見開いた目で道孝を見た。繭子の口が何度も開いては閉じた。けれど言葉はひとつも出てこなかった。縋るような視線が千尋に向けられる。

 千尋もまた繭子の目をまっすぐに見返した。

 もしも繭子が一言、「助けて」と言ったなら、千尋は助けに行ったかもしれない。しかし彼女は何も言わなかった。

 道孝の振り下ろした花瓶は、繭子の側頭部に当たった。鈍い音がして繭子がうつ伏せに倒れる。床の上に真っ赤な血がじわりじわりと広がっていった。

「埋めとけや」道孝が花瓶を放り投げる。彼は開きっぱなしだったズボンのファスナーを上げると、部屋をあとにした。扉を閉める前に、彼は思い出したように千尋に言った。「ああ、それと秋穂のふりはもうええわ」

 千尋はそろそろと繭子に歩み寄った。千尋の顔には何の表情も浮かんでいなかったが、胸の内は今までにないほど、ざわついていた。繭子の身体を仰向けにして、両掌で彼女の頬を包みこんだ。

 彼女の身体を抱きしめる。血が滴っていなければ、まだ生きているのではないかと錯覚するほど、彼女の身体は温かかった。

 ぽろぽろと千尋の瞳から涙があふれ出した。どうすればいいのかわからず、千尋はただ呆然と遺体を抱いたまま涙が流れるのにまかせていた。千尋には、それが悲しみという名の感情だと理解することはできなかった。

 道孝の言いつけ通り、庭に彼女の遺体を埋めに行かなければならない。しかし身体が思うように動かなかった。ずっとこのまま繭子の身体を抱きしめていたかった。

 その時、千尋の耳元で繭子の声が聞こえた。ひょっとするとそれは幻聴だったのかもしれない。しかし彼女の耳にははっきりと聞こえたのだ。

 死にたくない、という繭子の声が。

「死にたくない」千尋は繭子の言葉を繰り返した。「死にたくない」

 どうすればいいのだろう。繭子を死なせないためには何をすればいいのだろう。千尋は繭子の遺体を抱いてゆらゆら揺れながら考えていた。千尋が自分の頭でものを考えるのは、生まれてはじめてのことだった。慣れないことをしているせいで頭の奥がずきずき痛んだ。

 しかし千尋は思考することをやめなかった。繭子の身体が冷たくなっても、窓の外が暗くなっても、長い間ずっとそうしていた。

 それからどのくらい経っただろうか。千尋の頭の中にふと、ある考えが思いついた。

 自分が繭子になればいいのだ。そうすれば繭子は死なない。

 千尋は目を閉じて繭子の姿を思い描いた。彼女のしゃべり方、座り方、歩き方、目線の運び、息遣いに至るまで。

 そして目を開けた時、彼女は繭子になっていた。



 *



 ガラスを一枚隔てた壁の向こうには大勢の人がつめかけていた。手にうちわを持っている人や、最近発売されたばかりの澪奈の写真集を持っている人、澪奈が主演した舞台のグッズを掲げている人、メッセージボードを掲げている人…。みんな一様に熱のある視線を、ラジオの公開生放送のブース内にいる澪奈に向けていた。

 ブース内にはリスナーのリクエスト曲がかかっている。向かいに座るパーソナリティはスタッフと小声でこれからの段取りを確認している。

 澪奈はというと、頬杖をついてガラスの向こうに目を向けていた。ファンたちの輝く顔も、ネオンの灯る明るいビルも彼女の瞳には映っていなかった。澪奈の視線はそれらのもっと向こう、分厚い雲がかかる夜空へと向けられていた。

 曲がサビに入る。十五、六年ほど前に大ブレイクした女性アイドルグループの声が響く。

『二人、指でなぞった秘密の星座。もう一度きみに会いにいくよ』

 なんという偶然。この曲は澪奈と繭子が大好きだった曲だ。両親の前で、二人で歌やダンスを真似て披露していたのを覚えている。二人がよく星空を眺めていたのも、この曲の影響だ。繭子の家に泊まりに行った時、夜中にこっそり布団を抜け出して、二人だけの秘密の星座をつくったものだ。

 繭子の話をしようと決めた夜に、この曲がかかるなんて。

 澪奈は手元の台本に目をやった。予定ではこのあと、澪奈は祖父について語ることになっている。しかし彼女は別の話をするつもりだ。今までずっと会いたいと願っていた人──繭子についての話を。

 曲が終わる。マイクがオンになる。

 男性パーソナリティが口を開く。「今回、澪奈さんが主演されるドラマは、亡くなった恋人に会うためにタイムスリップをする女性の話だそうですね。キャッチコピーは、もう一度あなたに会いに行く」彼は顔を上げて澪奈を見た。「ここで質問なんですが、澪奈さんにはもう一度会いたい人はいますか」

「会いたい人…」予定では死んだ祖父の話をすることになっている。しかし澪奈の出した名前は違った。「繭子ちゃんですね」

「繭子、ちゃん…?」パーソナリティが狐につままれたような顔になる。どう考えても繭子という名前は祖父にはそぐわない。「それは、どなたでしょう?」

「私の従姉であり、一番の親友である桜川繭子ちゃんです」

「もう一度会いたいということは、現在は彼女とはご交流がないのですね?」

「ええ。彼女は十五年前に誘拐されて、殺されてしまいしたから。でも私は、繭子ちゃんはまだ生きていると信じています。生きて、このラジオを聞いてくれていると」

 澪奈のつけているヘッドフォンから、スタッフの慌てふためく声が聞こえてくる。しかし彼女は話すのをやめなかった。澪奈はどこかにいる、たった一人の親友に向けて語りかけていた。

「繭子ちゃん。私の家族とあなたの家族で、千葉に旅行に行った時のことを覚えていますか。二人で一緒に星を眺めましたよね。私は明日の夜、あの思い出の場所であなたを待っています。きっと──」

 ヘッドフォンから耳をつんざくようなプロデュサーの怒号が聞こえ、マイクが強制的にオフにされた。真っ青な顔をしたパーソナリティが早口で、現在の状況を取り繕う言葉を並べ立てている。外のファンたちはみんな俯いてスマートフォンの画面を操作している。桜川繭子について調べているに違いない。

 澪奈はため息をついて背もたれに身体を預けた。

 この一件はすぐにネットニュースになるだろう。

『人気女優、突然の告白。私のいとこは殺された』

 澪奈の脳裏にそんな見出しが浮かんだ。マネージャーや社長に怒られるだろうか。それどころかCMもドラマも降ろされるかもしれない。しかし彼女は後悔などしていなかった。繭子に会えるのなら、そのくらい安いものだ。

 澪奈はヘッドフォンを外して夜空を見あげた。雲の一部が晴れて、そこから輝く星が一つだけ覗いていた。

 澪奈は心の中で問いかけた。

 ──これでいいんですよね、佐神さん?



 *



 澪奈が出演するラジオ番組の公開生放送が行われる前日。佐神は事務所のソファに座って、十和からの報告を聞いていた。

 彼女が語っているのは、佐神が入院している間に手に入れた情報だ。

「つまり」佐神は傷がふさがりかけた脇腹をなでながら言った。病院を脱走して再入院してから十日、ようやく退院することができたのだ。ただし絶対に安静にするという宣誓つきで。「千尋は小山内と一緒にいる。そして千尋には自我がなく、ただ命令されたことをこなすだけのロボット人間。だから小山内の歪んだ正義欲を満たすために、言われるまま呪いをばら撒いている、ということか」

 向かいに座った十和が頷く。

 千尋に刺された夜の記憶が佐神の脳裏をよぎった。千尋は、「答えろ、お前は誰だ」という質問に繭子と答えた。彼女が命令を素直に聞く人間だとすると、嘘はついていないだろう。

 だが繭子である可能性は低い。和紙についていた指紋は千尋のものだし、そもそも本物の繭子がそんなことをする理由がない。おそらく千尋は繭子になりきっていたのだ。かつて、秋穂として生活するよう命令されていたのと同様に、何者かによって繭子として生活するよう命令されていたのだろう。だから彼女は繭子と答えた。

 佐神はぐるりと頭を巡らせて事務所内を見回した。綺麗に整頓された事務机にも、埃ひとつない棚の上にも、見回す限りどこにも煙草がない。安物の緑色のライターだけがぽつんと事務机の端にあるばかりだ。

「怪我人に煙草は毒です。この機会に禁煙しましょう」

「お前なあ…」佐神はショックを受けた顔でソファに背中を沈めた。十日ぶりにニコチンを摂取できると思っていたのに。

「それと、文代さんが頼んでいた介護事務所に確認したところ、小山内という名前の職員はいなかったそうです」

「小山内は介護士じゃなかったのか? しかし澪奈から話は聞いていると言っていただろ」

「それが文代さんを担当していた介護士の男性に話を聞いたら、あの日、彼は文代さんの介護を放り出してパチンコに行っていたそうですよ。昼頃、文代さんの家に行ったら小山内がいた。もう間もなく探偵たちが来るから帰ってくれないかと言うと、逆に小山内からお金を渡された。しばらく外にいてくれないかって」

「お前そんな情報をよく引き出せたな」

「どうやって交渉したか聞きたいですか」

「遠慮しておく」佐神は左手を上げて十和の話を遮った。

「それより、どうして小山内は文代さんの家にいたんでしょう?」

「もしかすると、千尋はあの家に通っていたのかもしれない。文代さんが言っていただろう。繭子が帰ってくる時間だって。小山内は繭子として家に通う千尋が、文代さんにおかしなことを吹き込まれないように、二人を見張っていたんじゃないか」

「でもあの発言って認知症の症状から来るものじゃないんですか」

「俺も最初はそう思っていた。だが千尋に刺された時、違和感を覚えた。俺が刺されたのはあそこだ」佐神は入り口の前の床を指さした。「扉の前で腹を刺されて膝をついた。正直なところ、自分は死ぬんだと思った。腹に刺さったナイフを引き抜かれ、滅多刺しにされるんだと。だが彼女は俺の背後に視線を向けると、はっと驚いた顔をして逃げ出した」

「驚いた?」

「俺のうしろにあったのはあれだ」佐神は扉の正面に置いてあるガラス扉のついた書棚を指さした。そのガラスは、入り口に立った人間の姿がはっきり映るほどピカピカに磨き上げられていた。「千尋はあそこに映った自分の姿を見て逃げ出したんじゃないか」

「えっと、つまり…?」

「面降ろしの力を使いすぎると、術者の顔にも影響が出るんじゃないかと思う」

「『剥がれる』に出てきた、のっぺらぼうのお化けみたいに」十和が膝を打った。「文代さんは呪われていたから、シンクを塗りつぶしていたわけではない。あれをやったのは、千尋さんだったということですね」

「あくまで推測だが」

 十和はそこで首を傾げた。「でも、小山内が帰らなかったのはなぜでしょう。介護士のふりなんかせずに帰ればよかったのに」

「千尋が帰りたがらなかったのかもしれない」

「ということは私たちが文代さんの家に行った日、あの家のどこかには千尋さんがいた…」

 佐神が頷く。

「じゃあ、これからどうします?」十和が佐神の方に身を乗り出してきた。「文代さんの家に張り込んで、千尋さんが来るのを待ちますか。それとも小山内の家に直接行きますか」

「いいや。それだと千尋を逮捕できたとしても、釈放されたあとにまた小山内に言われるまま、呪いをばら撒くことになるだろう。だから二度とそんなことをしないように、桜川さんに説得してもらおう」

「たしかに繭子さんなら、澪奈さんの言うことを素直に聞くはずですが…」十和が首を傾げる。「どうやって彼女を澪奈さんのもとに連れて行くんですか」

「連れて行くんじゃなくて、むこうから来てもらう。桜川さんにラジオで、千尋に呼び掛けてもらうんだ」

「ラジオか…。それよりSNSの方が届く可能性が高いのでは?」

「彼女はスマートフォンもパソコンも持っていないはずだ。自分の顔が映りこんでしまうからな。しかしラジオならその心配はない」佐神の脳内に、光の差さない暗い部屋で千尋が、ラジオから聞こえてくる澪奈の声に耳を傾けているイメージが浮かんだ。不思議と彼には確信があった。

「千尋さん、来てくれますかね?」

「きっと来るさ」佐神はソファのクッションの隙間から隠し玉──シガレットケースを取り出すと、煙草を口の端にくわえた。「彼女が繭子であるなら、きっと」



 *



 小山内は空っぽの室内を呆然と見回した。窓に打ちつけられたベニヤ板の隙間から差し込む日差しが、誰もいない部屋を薄く照らしている。いつも千尋が座っているアンティーク調の革張りのソファに彼女の姿はなかった。

 また無断で出て行ったのだ。

 思えば佐神の名刺を見た時から、千尋の様子はおかしかった。自分を佐神のもとに連れて行けと小山内にせがんだり、部屋を抜け出して佐神の事務所に行ったり。挙句、彼女は佐神をナイフで刺したのだ。

 小山内の言うことに従順に従う彼女が、佐神のことになると制御が効かなくなる。それがなぜなのか、彼にはさっぱりわからなかった。

 いっそのこと鎖にでもつないでおこうか。

 小山内はポケットからスマートフォンを取り出した。佐神の一件があってから、彼女にGPSを取り付けておいて正解だった。

 彼はコートを掴むと部屋を飛び出した。



 *



 千尋は、その丘の頂上に続く道を走っていた。

 日はいつの間にかどっぷりと暮れ、空には宝石箱をひっくり返したような満天の星空が輝いている。落ち葉に覆われた丸太の階段を駆けあがる。半分ほど来たところで彼女の息はすっかり荒くなっていた。肺がヒュウヒュウ悲鳴をあげ、心臓がものすごい速さで脈打ちながら全身に血液を送り込んでいるのがわかった。

 しかし彼女の足は止まらなかった。手すりを掴み、一歩一歩踏みしめるようにして階段を上る。彼女の瞳はしっかりと丘の頂上を──澪奈のいる展望台を見据えていた。

 冷たい風が火照った頬をなでる。彼女の胸に繭子との思い出がよみがえった。

 ある夏。窓から目が痛くなりそうなほどの、まぶしい日差しが差し込む昼下がりだった。

「千尋ちゃん、ほんまは立ち上がれるんやろ?」窓際に置いた椅子に座った繭子は、千尋に訊いてきた。「あの人に言われてるから、立たれへんふりをしてる。違う?」

 その時、千尋は車椅子の肘置きに左手首をだらりと垂らした格好をしていた。そうやって座るように麗美から言われていたからだ。

 千尋は何も言わなかった。答えろと命令されなかったからだ。

「あの人がおらん時くらい、歩いてもいいんよ」繭子は椅子から立ちあがると、千尋に向かって両手を広げた。彼女は、こっちに来い、とも言わなかった。ただ微笑を浮かべたまま千尋を待っていた。

 千尋は肘置きに両手を置いて、そろそろと立ち上がった。命令もされていないのに、なぜ立ち上がったのか彼女自身にもわからない。繭子の魔法で、身体が勝手に動いているような不思議な気分だった。久しぶりに自分の足で立ち上がって見た景色は、いつもより少しだけ目線が高かった。

 千尋の足がゆっくりと繭子の方に向かう。

 一歩、二歩…、生まれたての小鹿みたいな、おぼつかない足取りで自分のもとに歩いてくる千尋の姿を、繭子は優しい目で見守っていた。

 千尋の身体が、繭子の柔らかい身体に受け止められる。ぎらぎらした日差しが差し込む窓辺に立っていた彼女の身体は、しっとりと汗ばんでいた。繭子のくすぐったい指先が千尋の頬をなでてくれた。「自分で考えて行動したらいいんよ」と言いながら。

 繭子は二本のシャープペンシルを、千尋の顔の前で振った。「見て。道孝のポケットからこっそり盗んできた。これでプラネタリウム作ろっか」

 繭子が窓のカーテンを閉め切る。

 それから二人は薄暗い部屋の中で椅子の上に立ち、シャープペンシルで一つ一つ、カーテンに穴を開けはじめた。小さな四つの手によってカーテンのいたる所に、丸い隙間が開けられていく。

 最後の仕上げとして二人はカーテンの真ん中に、同時に二本のペンを突き刺し、ひときわ大きな穴を開けた。

 手を取りあって椅子からおりる。

 振り返ると部屋の中に星空が広がっていた。いくつもの小さな隙間から差しこんだ光が部屋の床や壁を美しく照らしている。左上から右下に向かって流れる天の川。その傍で光るはくちょう座、わし座、こと座、夏の大三角、名前もない無数の星々…。そして星空の真ん中でひときわ強い輝きを放つ、二人だけの星。それらはカーテンを揺らすと、まるで本物の星空のようにきらきらと瞬いた。

 その日からずっと、千尋の瞼の裏ではあの星空が瞬きつづけていた。

 そして今、千尋の目の前にはあの時に見た星空よりもずっと巨大で、ずっと眩しい星空が広がっている。丘の頂上にある展望台には遮るものが一つもないため、自分が夜空に浮かんでいるような気分になった。

 千尋の瞳は展望台の柵のそばに佇む、金色の髪の女に釘付けになっていた。女はこちらに背を向けていたが、それが誰なのか千尋にはすぐにわかった。息を整えながら彼女の方へと向かう。心臓がドキドキうるさいのは、階段を駆け上がったせいだけではない。

 千尋は口を開いて彼女の名前を呼んだ、つもりだった。けれど千尋の口からは隙間風のような音が鳴るばかりで、声は出なかった。千尋は立ち止まってからもう一度、深呼吸をして息を整え、そして彼女の名前を呼んだ。

「澪奈ちゃん」

 女が振り返る。

 夜風に吹かれた澪奈のきらめく金色の髪が宙を踊り、光を反射してきらきらと──あの日見た星空のように瞬いた。大きな瞳のとびきりかわいい女の子は、千尋の顔を見て一瞬だけ悲しそうな表情を浮かべた。

「やっと会えた」千尋は澪奈の身体に抱きついた。あたたかい体温と上品なシャンプーの香りが千尋を包みこんだ。

 千尋は澪奈も同じように自分を抱きしめてくれるものだと思っていた。しかし澪奈の両手は、千尋の背中の少し手前で静止していた。抱きしめるべきか抱きしめないべきか、決めかねている様子で。そしてついに澪奈は彼女を抱きしめることなく、両手を降ろしてしまった。

「澄田千尋ちゃん、だよね?」澪奈が柔らかい口調で尋ねた。

 千尋は不思議そうな顔で澪奈を見た。彼女は何を言っているんだろう? 自分は澄田千尋ではなく、桜川繭子なのに。長い年月の中で、たった一人の親友の顔すら忘れてしまったのだろうか。

 千尋は首を横に振った。「私は…」繭子だと言いかけて、はたと口をつぐむ。どことなく繭子の面影がある澪奈の目に見つめられると、そう答えることがどうしてもできなかった。

 自分は繭子なのに、なぜか彼女は頷いていた。

「どうして繭子ちゃんのふりをしていたの?」彼女の口調は相変わらず優しい。

 繭子の姿態を埋めた夜のように、冷たい風が吹き、木々がざわざわと揺れた。

「死にたく、なかったから…」自分でも気づかないうちに目に涙があふれていた。

「死にたくなかった?」澪奈が彼女の頬をハンカチでそっと拭った。

 千尋は震える声で、澪奈にこれまでのことを話して聞かせた。

 澄田夫妻に引き取られたこと、澄田の家に繭子が監禁されていたこと、自分が秋穂として育てられていたこと、繭子との思い出、繭子の死、そして繭子を死なせないために自分が繭子になったこと…。

 千尋は何度もつっかえながら、行きつ戻りつしながら、けれど考えて──どうすれば澪奈に伝わるか必死に考えて順序立てて語った。澪奈はその間、一度も口を挟まなかった。千尋の目をまっすぐに見つめて耳を傾けていた。

「繭子ちゃんを死なせたくなかったから、だから私が繭子ちゃんになればいいと思ったの」

 千尋がそう言って話を締めくくった時、彼女の舌は疲労でじんじん痺れ、頭の奥が熱を持ったように痛んだ。しかし千尋の心はなぜか晴れ晴れとしていた。夜風が彼女の頬をなでた。繭子がかつて千尋にそうしてくれたように。

「話してくれてありがとう」澪奈が千尋に向かって微笑みかける。

 それはきっと目の錯覚だったに違いない。しかし千尋の目には、澪奈の顔が一瞬だけ繭子になったように見えた。懐かしい繭子の面影は千尋のことを──秋穂でも繭子でもない、千尋自身のことを優しく見つめていた。

 澪奈は今度こそ千尋の身体を抱きしめた。温かい体温が千尋の身体を包みこむ。「千尋ちゃん、繭子ちゃんを死なせないでくれてありがとう」澪奈が彼女の肩を抱いて、そっと身体を離した。「でもね、もう誰かのふりなんてしなくていいの。誰かの命令に従うことも、誰かを呪うことも。あなたは自分で考えて行動できるんだから」澪奈が千尋の頬をなでた。「約束してくれる?」

 千尋は澪奈から差し出された小指に自分の小指を絡めた。



 *



 展望台へつづく階段を上がりきったところで、小山内は足をとめた。柵のそばには二人の女の姿があった。千尋と、きらめく金髪の女はなにやら深刻そうな表情で向かい合っている。その奇妙な取り合わせは小山内の頭を混乱させた。

 なぜ千尋が女優の桜川澪奈と一緒にいるんだ?

「小山内さん」

 そっと近づこうとしたところで、うしろから声をかけられ小山内は飛び上がるほど驚いた。慌てて振り向くと、そこに立っていたのは佐神とその助手だった。

「彼女たちはいま大切な話をしているから、邪魔しないでもらえるか」佐神は不機嫌そうに言った。寒いのか、両手をポケットに突っ込んで肩を丸めている。彼の左の耳からは白いイヤホンがぶら下がっていた。

「大切な話ってなんですか。千尋が桜川澪奈と何を話すことがあるんですか」

「彼女から聞いてないのか」佐神が片方の眉を上げる。「繭子のことも?」

「繭子って、文代さんの孫の? それとこれとに、どんな関係があるんですか」

「あなたは千尋さんが繭子さんとして生きていたことを、知らなかったんですか」助手が重ねて尋ねる。

「さっきから、ちっとも話が見えないんですけど」

 小山内がそう言うと、探偵と助手は同時に目を細めて彼を見た。その顔にははっきりと軽蔑の色が浮かんでいた。

「千尋さんは文代さんの家に通っていましたよね。その理由をご存じない?」と助手。

「ぎゃあぎゃあ喚くから仕方なくな」

「だったら、彼女の話に耳を傾けたことは一度もないわけだ」佐神が言った。

 いったい何なんだ、こいつらは。舌打ちをして千尋の方に歩いて行こうとする小山内の腕を、佐神が掴んだ。彼は振り払おうとしたが、腕はほとんど動かなかった。

「千尋さんは、佐神さんを刺した件でさっき警察に自首しました。もうじきここに警察が来ます」助手が言う。「止めたって無駄ですよ。彼女は自分の意志で自首を選んだんですから」

「自分の意志って」小山内は鼻で笑った。「あいつにそんなもんがあると思ってるんですか。どうせあんたらが、おかしなことを吹き込んだんでしょう」

「吹き込んだのはお前の方だろ。彼女の力を使って、いったい何人の人間を殺したんだ?」

 小山内の頬がぴくりと痙攣する。千尋の力だけでなく、呪いのことまで突き止めたのか? しかし彼はいたって平静を装い首を傾げてみせた。「一人も殺してませんよ。ゴミは数えきれないほど排除しましたけど」

 そう、彼が呪い殺した者たちの中に人間は一人もいなかった。パワハラで部下をつぶす上司、同級生をいじめる学生、DVで妻を殴る夫…。どれもこれも人間以下の屑ばかり。小山内はそういうゴミどもを排除して、かわいそうな弱者を救っていたのだ。だから責められることなんて一つもない。

 階段の下にパトカーが止まり、警察官が駆け上がって来るのが見えた。どうやら本当に彼女は自首したようだ。

 三人の脇を数人の警察官が駆けぬけて行った。展望台の柵の方に目をやると、千尋と澪奈が姉妹のように抱き合っているのが見えた。小山内は顔をしかめる。あの二人の関係は何なんだ。

「お前はゴミじゃないのか」佐神が煙草に火をつけながら訊く。「千尋は過去に二度、堕胎手術を受けているだろ。十八歳と二十歳の時に。意思のない女と無理やりセックスする男は、俺にとっちゃ十分ゴミなんだがな」

「あいつが自分から股を開いたんです」小山内は助手の目を見て言った。「それとも千尋が俺にレイプされたとでも言うたんですか。困ったなあ。女はすぐに意見をひるがえすから」

 助手の顔が嫌悪感に歪むのを確認して、小山内は満足そうに微笑んだ。ざまあみろ。どうせ千尋は何も言わない。彼がそう命令したからだ。小山内は警察官の方を目顔で示した。

「そんな顔をするんならあの警察の方たちに、僕のことを言えばいいじゃないですか。この男は何人も人間を呪い殺した極悪非道な人間です。千尋さんに子供を堕ろさせたんも彼です、逮捕してくださいって」

 佐神たちは何も言わずに小山内の顔を見ていた。いや、何も言えずに、だ。

 小山内は勝ち誇った笑みを浮かべた。それから二人にお辞儀をして、くるりと千尋に背を向けると、階段を下りていった。しばらく人助けはできないが、なんの問題もない。釈放されたらまた会いに行けばいいのだ。人を殺せる力を持った、従順で操り人形に。



 *



 暖房が効きすぎた事務所の机の上には、めずらしく豪勢な料理が並んでいた。パックの寿司や、チーズのとろけたピザ、匂いだけで胃もたれしそうなほどたくさんの揚げ物が並んだオードブル。探偵事務所および刑事と怪談作家の面々は目下、パーティーの真っ最中だった。理由はもちろん、澪奈の依頼の解決を祝して、だ。

 佐神はワインを味わうことなく一気に飲み干した。澪奈から振り込まれた報酬のおかげで懐はあたたかい。腹も心も満たされている。千尋の件も片付いたし、繭子の遺体も無事に見つかった。実にめでたいことばかりである。

 しかし彼には一つだけ気に食わないことがあった。

「どうしてこいつが参加しているんだ」佐神はポテトで鏡香を指さしながら十和に言った。彼の顔は不機嫌そのものだ。ろくに調査に参加していない人間がタダ飯にありつくなんて。「メシがまずくなるからつまみ出せ」

「私が退院祝いにあげたワインを、ほとんど一人で飲み干しておきながらよく言うわよ。それ一万円もするんだからね」鏡香もポテトを元夫に突きつけてきた。「私の本があったから、事件を解決できたようなものでしょう。お礼に私の本を十冊買って親類縁者に配りなさい」

「不幸の手紙か。だいたいお前の本なんか無くたって解決できたんだよ。見舞いにすら来なかった奴が偉そうに」

「あら、来てほしかったんだ。未練タラタラで困るわ、私は人妻なのに」

 佐神はソファに背中を沈めて盛大なため息をついた。「こいつの顔を見ていると傷口が開く」

 そのあとも佐神はぶつぶつ文句を言いつづけたが、「誰が入院費を肩代わりしてあげたと思ってるの」という鏡香の一言に、黙り込むしかなくなった。

「そういえば千尋さんは、どんな様子ですか」

 十和の質問に波木はようやく顔をあげた。ここに来てからずっと、彼は澪奈からもらった直筆サイン入りの写真集のとりこになっていたのだ。まだ澪奈の写真集の余韻が残っているらしく彼の目はうつけのように、とろんとしていた。

「素直に自供していますよ」波木は再び澪奈を眺める作業に戻った。「自首もしたし、彼女の生い立ちは複雑ですから情状酌量も狙えるんじゃないんすか。そんなに長くは刑務所に入らなくて済むと思います。ただ小山内の不同意性交を立件するのは難しそうっすね」

「千尋さんはどうして佐神君を刺したわけ?」と鏡香。

「あ、そうそう。それなんすけど彼女、サガミさんが繭子ちゃんを助けてくれなかったからって供述してんすよね。なんでも彼女が監禁されている家に、サガミと名乗る刑事がやって来たらしいんす。ただ彼は繭子ちゃんの存在に気づかずに帰ってしまった。もしも気づいていたら、繭子ちゃんがひどい目に遭うことはなかったのに、って」

「ちょっと待て」佐神が慌てて上体をおこした。「俺はあの誘拐事件の捜査には関わっていないぞ。人違いじゃないのか」

「おっしゃる通り、完全なる人違いっす。当時の捜査に参加していたのは、原市の相模さんなので漢字がまったく違います」

 佐神は放心した表情で背もたれに身体をあずけた。彼の左手はやり場のない感じで、脇腹をさすっていた。そんな馬鹿な偶然があるのか。

「勘違いで刺されるなんて、かわいそうな佐神さん…」十和が同情し、

「日頃の行いが悪すぎるせいね」鏡香が冷たく言い放ち、

「十和ちゃんに給料を渡さないのがいけないんすよ、きっと」波木が助言した。

 三人から向けられる哀れみの眼差しに、佐神はふんと鼻を鳴らした。彼は懐からくしゃくしゃの茶封筒を取り出すと、十和の前に置いた。

「これ、もしかして」十和が目を輝かせる。封筒の中には一万円札が五枚、入っていた。「夢でも見ているみたい。あの佐神さんがボーナスをくれるなんて」

「給料はもう振り込んである」

「まじっすか」波木は驚きのあまり写真集を床に落としかけた。「まさか佐神さん、どこかに頭をぶつけたんじゃないっすか」

「やだ、やめてよ。明日、旦那と旅行なのに雨を降らせるつもりなの?」

 佐神は顔をしかめて煙草に火をつけた。どいつもこいつも、ひどい言い草だ。

 波木は写真集を脇に置き、姿勢を正して十和に向き直った。「じゃあ、ボーナスも入ったことですし、明日は俺とどこかに出かけませんか」

「いいですね」十和が佐神を見あげる。「佐神さんも一緒に行きましょう」

 鏡香が同情の眼差しを波木に向け、波木は「絶対に断れ」と念のこもった目で佐神を見た。佐神は煙を吐き出した。「どこに行くかによるな」

 十和はまっすぐに佐神を見て言った。「家具を買いに」

 佐神が片方の眉を上げる。それは断るわけにはいかない。



 *



 小山内は怒りに任せて、グラスを持った手を振り上げた。グラスをパソコンの画面に叩きつけようとして、すんでのところで思いとどまる。少し迷ったあと、彼はそれを床に投げつけた。

 甲高い音が響いてグラスが粉々に砕け散る。それでも彼の怒りは収まらなかった。身体は怒りで震え、呼吸も荒々しかった。彼の血走った目はパソコンの画面全体に映し出される、見知らぬ男の写真を凝視していた。

 写真の中の男は、小山内に溌剌とした笑顔を向けている。五秒後、写真は切り替わり、今度は見知らぬ二人の女がカメラに向かってピースをしている写真が映し出された。五秒後、今度は見知らぬ中年男の写真に。また五秒後には見知らぬ若い男の顔写真に…。ずっとその繰り返しだ。どの写真の右下にも名前と生年月日が記載されている。

 いつだってこれは突然はじまる。自宅でパソコンを触っている時、職場のパソコンで作業をしている時、こちらの都合などいっさいお構いなしだ。この奇妙なスライドショーが行われている間、パソコンを操作することはできない。電源を切ると逆効果で、ショーはまた初めから再開されるようになっている。約二十分と少しの間、パソコンが機能しなくなるのだ。

 それも一日に何度も。

 映し出される写真の中には数人ほど、小山内の知っている人物も混じっていた。同じ中学校に通っていた不良グループの生徒たち、彼が介護してやっていた態度の悪い老人たち。どれもこれも小山内が呪い殺した人間だ。

 ほかの写真もおそらく、彼が殺した人たちのものなのだろう。

 だからこれは、お前が殺した人々の顔を覚えておけ、という誰かからのメッセージなのだ。いや、誰かからではなく、あのいけ好かない探偵か助手のどちらかからの。

 この追悼ショーは千尋が逮捕されてから一か月間、毎日欠かさず行われている。

 小山内は頭を掻きむしった。心底くだらない。地味で陰湿で粘着質な嫌がらせだ。しかしだからこそ余計に腹が立つ。

 その時、家のチャイムが三度、立てつづけに鳴った。

 荒々しく足音を立てて玄関に向かう。インターホンのモニターを確認したが、そこには誰の姿も映っていなかった。

 小山内は玄関扉を開けた。冷たい風が吹き込んできて、無意識のうちに肩があがる。ふと彼の目が、数メートル先にいる見覚えのある後姿をとらえた。数歩、前に出て女に呼び掛ける。「おい、お前っ!」

 女がくるりと振り返る。ショートカットの黒い髪が風にあおられて宙を踊った。やや吊り上がり気味の大きな瞳が小山内を見返した。

 彼のうしろで扉がバタンと閉まる。

 助手は何も言わずに彼の背後を──今、閉まったばかりの扉を指さした。

 小山内の目が、彼女の指示に従ってそちらに向く。ドアノブに赤い小袋が引っ掛けられていた。それは彼が千尋に作らせていたのと、そっくりのものだった。小山内は袋をドアノブからむしり取った。

 慌てて中身を確認する。袋の中は空っぽだった。彼を驚かすためのフェイク。くだらない女が考えそうなことだ。小山内は鼻で笑って袋を握りつぶそうとしたところで、動きをとめた。

 彼の頭の中にさっき見た写真の顔がよぎった。もしもあの写真が、彼を苛つかせるためだけの物ではなかったとしたら? 彼に罪悪感を植え付けるために、彼が殺した人々の写真と名前を、来る日も来る日も見せつけていたのだとしたら?

 正直なところ今の小山内には、呪い殺した人々に対して罪悪感がまったくないとは言い切れない状態にあった。今や写真の人物たちは彼にとって、くだらないゴミから名前のある人間に昇格していた。何度も何度も写真を見すぎたせいだ。

 もしも自分が、彼らに対して少しでも罪悪感を抱いていたとしたら?

 それは紛れもなくあの助手からの警告だった──千尋に近づいたら殺す。

 小山内は頭を掻きむしった。袋を地面に叩きつけて靴の裏で踏みにじる。ボロボロになって破けた袋を見て、彼は深く息をついた。そしてにわかに恐ろしくなった。

 助手の姿はいつの間にか消えていた。閑散とした通りには小山内だけがぽつんと取り残されていた。彼の脳裏にはいつまでも、たくさんの人々の顔が浮かんでは消えていた。


(了)





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