女がまだ幼かった頃、新しい両親に引き取られる前の話。その頃、少女には名前がたくさんあった。

「おい」「あれ」「あいつ」「お前」「ガキ」「あんた」…。

 両親は様々な言葉で少女を呼んだ。名前ですらない名前で。そのたびに少女は両親の顔を見あげ、命令が下されるのを待った。たいてい彼らが言うのは「じっとしてろ」や「家から出るな」といった言葉だ。そこに実子への愛情などは微塵もない。そもそも彼らは一度だって少女と目を合わせたことがなかった。

 しかし少女はいつだって両親の命令に素直に従った。「ここに座って待っていろ」と言われれば、何時間だって待ち続けたし、「部屋から出るな」と言われれば、たとえ餓死しそうになったとしても、外に助けを求めに行くような愚かな真似はしなかった。

 なぜ少女は両親の命令に従っていたのか。決して褒められるためや認められるために行っていたわけではない。両親への愛情や忠誠心がそうさせたわけでもない。

 単に、少女は空っぽだったというだけの話である。少女は自分の頭で考えて行動するという当たり前のことができなかったのだ。そのため少女は常に誰かの命令に従っていたし、次の命令が下されるまで、ただじっと待ちつづけていた。飯を食べることも、用を足すことすらせずに。

 少女にとっては思考することの方がもっと難解で耐えがたいものだった。

 おそらく「死ね」と言われれば、素直に死んでいただろう。両親が少女にその言葉をぶつけなかったのは、心のどこかにあった愛情の残滓によるものか。それとも単に、死なれると厄介だったからなのか。今となっては二人とも死んでしまったので確かめようがない。

 彼らが死んだあとに少女の前に現れたのは、澄田という夫妻だった。男の方は両親同様、一度も少女の顔を見なかったが、女の方はニコニコと笑顔を浮かべて少女を見下ろしていた。いや、正確に言うと女も少女のことを見ていなかった。虚ろな女の瞳は何も映していなかった。

「私たちが、あなたの新しいパパとママよ」女は少女の頭をなでながら言った。

 そんな風に誰かに優しく触れられるのは、はじめてだった。しかし少女の胸には何の感情も湧きあがってこなかった。喜びも悲しみもない。少女はただ新しい命令を下されるのを待っていた。

 女は少女の頬を両掌で包みこみ、そっと頬ずりをした。それから女は、男の方を振り返って言った。「今度は大丈夫なんでしょうね?」



 *



 再び京都。

 そのスナックは道路から一本それた通りに、ひっそりと佇んでいた。看板などは出ていない。かつては白色だった外壁も、紺色の扉も経年劣化によってすすけてしまっている。扉の脇に貼られた政治家のポスターは、お辞儀をするかのように上半分がべろんと剥がれていた。色あせた赤い店舗テントがなければ、ここがスナックであることに気がつけないだろう。

 十和は腕時計を確認した。時刻は六時ちょうど。営業開始時間ぴったりだ。十和は年季の入った扉を開けて中に入った。暖房の効いた暖かい空気と、染みついたヤニの臭いが彼女を出迎えた。

 赤い丸椅子が五つ並んだカウンター、赤いベルベットのソファのテーブル席が二つ、それと様々な銘柄のお酒がごちゃごちゃと並んでいるボトル棚。店の奥には一昔前のカラオケ機器が鎮座している。淡いオレンジ色の蛍光灯が照らす薄暗い店内に客は一人もいなかった。

 カウンターの向こうで煙草をふかしていた五十代くらいのママは、十和と目が合うと「いらっしゃい」とやる気のない挨拶をよこした。

「すみません。私、客じゃないんです」

 十和は怪訝そうな顔を浮かべるママに、かつてここで働いていた河北陽子について話を聞かせてほしい、という旨を伝えた。

「河北陽子…。さあ、そんな子いたやろか…」ママは先のかけたネイルでカウンターをコツコツ叩きながら視線をさまよわせた。それは思い出そうとしているのではなく、十和に催促をしているような仕草だった──人にものを尋ねる前に、何か渡すものがあるんじゃないかしら?

 十和は財布から一万円札を引き抜きカウンターに置いた。が、ママは受け取らない。彼女の赤い爪はテーブルの上でタップダンスをつづけている。

 十和は札を二枚追加し、財布をポケットにしまった。ママを見あげる。それは、これ以上は出せない、という意思表示だった。

「陽子ちゃんね、今やっと思い出したわ」ママはお金を受け取ったあと、わざとらしく手を叩いて言った。「十五年前くらいにうちで働いてた子やわ。自殺しちゃったんやけどね」

「千尋という名前のお子さんがいらっしゃいましたよね。その子について何か覚えていることはありませんか」ICレコーダーと手帳を準備してから、ママに訊く。

「ああ、おったおった。時々、陽子ちゃんが店に連れて来とった、あの気味悪い子やろ。あの子もかわいそうになあ。父親も母親もあの子のことを金づるとしか見てなかったから、まともな教育も受けさせて貰われへれんで、ちょっとおかしな感じやったやろ」

「金づる、ですか?」

「お客さんにね、陽子ちゃんと関係を持ってる人がいたんよ。しょうもない感じの男。安住じゃなくて、魚住でもなくて…」

「澄田道孝?」

 十和の言葉にママは何度もうなずいた。「そうそう、澄田さん。その人に、『この子はあなたの子なんやから養育費くらい払え、じゃないと奥さんにばらすぞ』言うて、金をせびっとったみたい。私は、良くないなとは思ってたんやけど、陽子ちゃんの旦那の方が怖い人でねえ。よう言えんかったわ」

「千尋さんは道孝の娘だったんですか」十和は驚いた表情で手帳から顔をあげた。

「まさか。『あんな嘘を信じる澄田のアホが悪いんや』って、陽子と旦那が笑いながら話してるのを聞いたからね。あの子は間違いなく河北夫妻の子供や」

「河北夫妻はその後、二人で心中自殺をするんですよね? どんな様子で亡くなっていたかご存じありませんか」

「それが、けったいな死に方やったみたいよ」客が誰もいないのに、ママは十和の方に顔を寄せて小声で言った。「部屋で首吊ってたんやけど、表情がねえ…。まるで何か恐ろしいもんに出会ったみたいに、目ん玉ひん剥いて死んでたらしいんよ。たぶんあれは呪われたんやわ」

「呪い…。そういえば道孝は祈祷師でしたよね。まさか、彼が──」

「祈祷師!」ママはプッと噴き出した。おかしそうに肩を揺らしながら、灰皿に煙草の灰を落としている。「あれは祈祷師は祈祷師でも、エセの方や。占いも霊視も一回も当たったことない、靴を放り投げて占った方がまだマシのインチキ祈祷師やわ」

 なるほど。

 インチキ祈祷師である道孝には口寄せを行うことができなかった。繭子にも面降ろしの力はない。これではせっかく繭子を誘拐したのに、秋穂の姿を降ろすことができないのだ。だから澄田夫妻は桜川家から人皮の面を盗み、引き取った千尋に面降ろしの儀式を行った。愛する秋穂にもう一度会うために。

 それにね、とママは言葉をつづける。

「呪いをかけたんは、たぶん千尋の方よ」

「千尋さんが?」

「あの子ねえ、ちょっとおかしな子やったんよ。陽子ちゃんが何回かうちに連れてきたことがあるんやけど──あ、澄田さんに会わせるためによ。これがあなたの子よって。かわいい我が子を家に一人で置いておくのがかわいそう、なんて感覚は陽子ちゃん夫婦にはなかったからね」

 ママの話によると、千尋は気味が悪いほど聞き分けのいい良い子だったそうだ。母親の陽子に「椅子に座ってじっとしてろ」と言われれば、何時間でも身じろぎせずに座り続けた。「笑え」と言われれば、何時間でも笑顔を浮かべつづけた。

 千尋には自我というものが一切なかったのだ。

「店の常連に酒癖の悪い男がおったんよ。スタッフの女の子にベタベタ触るわ、ほかのお客さんに喧嘩売るわで、みんなから嫌われてるような人が。あんまりにも酷いもんやから、あの子に愚痴ったんよ。『あんた、あのお客さん殺してよ』って」

 すると千尋は「わかった」と言って頷いた。

 二日後、その男性客は店の近くの植え込みの中で首をかき切って死んでいるのが発見された。彼の目はまるで何か恐ろしいものを見たかのように、大きく見開かれていたという。

「私、あんたがやったんかって、あの子に聞いたんよ。そしたら一回だけ頷いて、呪い殺したって。年端もいかん子の口から『呪い殺した』なんて言葉が出てくるもんやから、ほんまにゾッとしたわ」ママは煙草を持っていない方の手で、自分の二の腕をさすった。

 その話が本当だとすると、呪いをばら撒いているのは千尋である可能性が高い。彼女には自分の頭で考える能力が欠如しているので、千尋にそうするよう命令を下している人物が別にいるのだろうか。

「陽子ちゃんも、とんでもない子を産んだもんやで。あの子、今頃どうしてんのやろか」ママは吐き出した紫煙をぼんやり見つめながら呟いた。

「両親が亡くなったあとは、澄田夫妻に引き取られたそうですよ」

「それ、ほんまに?」十和の言葉を聞いたママは素っ頓狂な声をあげた。「旦那の方はともかく、奥さんはどういう神経してはんねやろか。旦那の不倫相手の子供を引き取るやなんて」

「言われてみれば、そうですね」十和は今はじめて気がついたという顔で目を瞬かせた。面降ろしの儀式のためという目的があったとはいえ、正気の沙汰とは思えない。秋穂を喪った麗美の精神が、そうとう病んでいたことが窺える。

「あんた変わった子やね。普通すぐ気づくで」ママは笑顔をみせた。「もしかしてあんたも、ええとこの子か?」

「ええとこの子?」

「金持ちの子か、って意味。今あんたと話してて思い出したけど、たしか澄田さんの奥さんも親が金持ちやったんよ。政治家一家の子でな。澄田が奥さんと結婚したんは金目当てや、言うお客さんもおったくらいやわ。そういう温室で育ったから、ちょっと変わってはったんやろか」ママは煙草で店の扉の方を指さした。「ほら、うちの店の外の壁にポスターが貼ってたやろ。あの人は奥さんの弟さんやわ」

「それ本当ですか」十和は勢いよく立ち上がり、出口へと駆けた。扉を開けて外に出る。吹き抜けた冷たい風が彼女の身体を殴った。ちょうど扉が閉まったタイミングで、通りに立っている街灯が一斉に灯った。

 風にあおられてバタバタとはためくポスターに手を伸ばした。下から上に撫でるように、そっとポスターをおさえる。

 そこに写っていたのは五十代半ばくらいの国会議員だった。黒いスーツに青いネクタイ姿の男が、十和に向かって笑顔を浮かべている。彼の写真の左側には赤い文字で、“小山内義之“と書かれていた。

 ──小山内?

 桜川文代の家で会った、能面のような顔立ちの男が頭をよぎった。たしか彼も京都出身だったはずだ。それに二人の顔立ちはどことなく似ている。これは偶然だろうか。

 十和は店内に駆け戻ると、ママに訊いた。「小山内義之には息子がいませんでしたか」

「息子…?」ママは煙草をくわえたまま視線を天井に向けた。「ああ、おったおった。名前は覚えてないけど、色の白い能面みたいな顔した子やろ。中学生くらいの頃に何回か親に連れられてうちに来とったわ。陰気なくせに妙に正義感が強くてなあ、私苦手やったわ」

 ママの話によると小山内の息子は、スタッフの女の子におさわりをした客と喧嘩をしたり、未成年のスタッフが夜の十時以降に働いていると、警察に通報したりしたそうだ。

「そら未成年の子を夜に働かせんのは違法やけど、あんたかて未成年やのにこんな店に出入りしとるわけやろ。人のこと言える立場ちゃうのになあ」

「その息子と千尋さんとの間に接点はありましたか」

「店の外で時々あの二人が一緒に遊んでるところを見たことあるで。年の離れた兄妹にも見えんことはなかったけど…」

「けど?」

「はじめは正義感が強いから、ネグレクトされてる子を世話してたんやと思ってたの。でもその子の通ってた中学で生徒の自殺が相次いだんよ。それも学校側が手を焼くほどの不良グループの子ばっかりが」

「それって、小山内の息子が千尋さんの能力を利用して呪い殺した、ということでしょうか」

「たぶんね」ママはフィルターの根元まで短くなった煙草を指先でつまみながら言った。

 道孝が千尋の面降ろしの力を利用し、商売をはじめたのは九年前。その後、道孝は詐欺の容疑で逮捕され死亡した。そして彼の死からまもなくして、千尋は呪いをまき散らし始めた。

 もしも道孝の死後に、小山内の息子が千尋に接触していたとしたら? 自分の歪んだ正義感を満たすために、千尋の能力を利用していたとしたら? 

 千尋がある日突然呪いを振りまきはじめた理由も、呪いの代金が安すぎることにも説明がつく。小山内の息子の目的は正義欲を満たすためであって、金ではない。だから、たったの一万円で人を殺していたのだ。苦しんでいる人々を救うために。

 にわかに外が騒がしくなったかと思うと、三人連れの中年男性のグループが店の扉を開けて入って来た。この店の常連なのか、ママに向かって気さくに手を挙げて挨拶を交わしている。ここに来る前から一杯ひっかけてきたらしい。三人はすでに赤ら顔だった。

「あら、いらっしゃい。しばらくぶりじゃない、寂しかったわあ」ママはほとんどフィルターしか残っていない短い煙草を灰皿に押しつぶしつつ、彼らに向かって笑顔を浮かべた。赤い爪が十和の手の近くのカウンターをコツコツと叩く。それは、昔話は終わり、という合図だった。

 十和はママにお礼を述べると、男たちの値踏みするような視線を受けながら、店の出口へと歩いて行った。扉を開けると冷たい夜気が身体を包みこんだ。背中でバタンと扉が閉まる。男たちの視線がまだ身体中に絡みついているような気がして、十和は通りを駆けた。ポケットの中のスタンガンを右手で握りしめたまま、温かい光が灯る方、駅の方向へと。



 *



 車窓から見あげた夜空に星はひとつもなかった。陰気な黒い空にかかったどんよりと厚い雲が、星も月も何もかも覆い隠している。この様子だと、じきに雨が降り出すだろう。風はなく、通りを歩く者もいない。まるで地球上のすべての生き物が死んだかのように静まり返っている。

 いい夜だ。

 矢代はコーヒーの空き缶の中に吸い殻をねじ込み、満足そうに微笑んだ。缶を後部座席に放り投げる。中に残っていたコーヒーがこぼれてシートに染みをつくった。

 そういえば、と矢代は思った。佐神はどうなったのだろう。昨日のニュースでは、何者かにナイフで刺されて意識不明だと言っていたが、まさか死んだなんてことはないだろうか。意識はまだ戻らないのだろうか。

 矢代は心の底から彼の回復を祈っていた。だってせっかく用意したとっておきの舞台を、佐神に見せられないなんて悲しいじゃないか。誰だか知らないが本当に余計なことをしてくれたものだ。佐神の目の前で十和を犯して殺す予定だったのに、すべて台無しだ。

 しかし良かったことが無いわけでもない。佐神がいなくなったことで十和に近づくのが容易になった。その証拠にほら、十和は夜道を一人で歩いている。いつも隣にいる目つきの悪い番犬の姿はない。

 矢代はルームミラーで身だしなみを整えると、そっと車から降りた。音もなく十和の背後に忍び寄り、彼女を羽交い絞めにする。叫び声をあげようとする十和の口を左手でふさぐ。矢代の右手はがっちりと彼女の右腕を──スタンガンを握りしめた手を掴んでいた。

 シーッ。矢代はまるで癇癪をおこした子供をなだめるように、十和の耳に唇を近づけ、静かにするよう合図した。十和の身体の筋肉が弛緩するのがわかった。

 いい子だ。

 矢代はこの瞬間がたまらなく好きだった。抵抗していた人間の身体から力が抜けていく瞬間、恐怖によって身も心も支配できたことを実感できるこの瞬間が。矢代は十和の髪に頬ずりをした。

「ドライブしようか」

 小刻みに震える手からスタンガンを回収し、矢代は彼女を車まで優しくエスコートした。助手席のドアを開け、中に入るように目顔で促す。恐怖にすくんだ十和の瞳が、助手席と矢代の顔を交互に見た。彼は小首をかしげて笑顔を浮かべた。さっさと入れ、という無言の圧力とともに。

 十和が助手席に乗り込んだところで、矢代は彼女の白い首筋にスタンガンを押しあてた。彼女の目が大きく見開かれる。スイッチを入れる。青白い光が瞬いたかと思うと、十和は身体をのけ反らせ、そして意識を失った。

 助手席の扉を閉める。矢代はさっと周囲を見回した。暗い通りに人影はない。目撃者も通報者もいない、実に鮮やかな手口。矢代の完璧な犯行に拍手を送るかのように、ぽつりぽつりと降り出した雨がボンネットを叩いた。湿った匂いが立ち込め、灰色のアスファルトが黒く染まっていく。

 矢代はコートの裾を翻して運転席に乗り込んだ。

 さあ、楽しいショーのはじまりだ。



 *



 深く暗い無意識の底に沈んでいた佐神の脳は、誰かの叫び声によって覚醒した。自分自身が、無意識の世界から意識の世界へと浮かび上がっていくのを感じる。彼の目が見開かれた時、消灯時間を迎えた病室の中は真っ暗だった。

 視線をさまよわせているうちに暗闇に目が慣れ、意識も次第にはっきりしてきた。無機質で白い病室の天井、腕から伸びる点滴の管、肌に触れる清潔なシーツの感触、そして鈍い痛みを発する右の脇腹。

 そうだ、自分は十和の姿をした女に刺されたのだ。

 佐神は脇腹をかばいながら、ゆっくり起きあがった。頭はぼんやりしているが、腹筋に力を入れると傷口がひどく痛んだ。けれど彼にとって、そんなことはどうでもいいことだった。今はとにかく状況が知りたかった。自分はどのくらい眠っていたのか。自分を刺したあの女が十和のところに行っていないか。矢代がまた十和に接触していないか。

 枕元のサイドテーブルに置いてあったスマートフォンが振動し、唸るような音が静かな病室に響いた。どうやら叫び声だと思っていたのは、この音だったようだ。スマートフォンを手に取り画面をタップする。

 ブルーライトの光が彼の目を刺した。画面に表示された通知を見た瞬間、佐神の脳は一気に覚醒した。

 京都に発つ前、佐神が十和に渡した靴には細工が施してあった。靴底にGPSを仕込んでいたのだ。それは対象がある一定のエリアを離れると、佐神のスマートフォンに通知がいくように設定してあった。

 そして現在、スマートフォンの画面には、十和の靴に仕込んだGPSが時速七十キロのスピードで山道を走行していることが通知されていた。その先にあるのは矢代の両親が所有していた別荘だ。傷害事件で逮捕された時に彼が潜伏していた場所。

 あの男は佐神に逮捕された思い出の場所をショーの舞台に設定したのだ。

 スマートフォンが再び振動する。十和を乗せた車がさらにスピードを上げたという通知だった。叫び声を聞いたという彼の耳は間違っていなかった。それは紛れもなく、十和からのSOSだった。



 *



 瞼を開いた十和の目に飛び込んできたのは白い壁と、真正面の三脚に据えられたビデオカメラだった。黒い大きな一つ目は瞬きもせずに彼女を見つめている。一般的なビデオカメラに比べて二回り以上大きいのは、それが映画などを撮る時に使われるシネマカメラと呼ばれるものだからだろう。三脚の隣には開きっぱなしのノートパソコンが乗った机、その奥には赤い革張りの椅子、そしてそこに足を組んで座る矢代の姿があった。彼は顔を隠すための黒いマスクをしていた。

 十和の左側の机に上には、銀色に光るナイフやハサミ、ペンチ、金槌などの様々な拷問器具が揃っている。彼女の足元をぐるりと囲う形で赤い蝋燭が──まるで映画のワンシーンのような無駄に凝った装飾が並んでいた。

 逃げようとして身体を揺らすと十和の頭上で金属がこすれあう音がした。その時になってようやく、自分の両手足に手錠がはまってことに気がついた。手首の手錠は天井からぶら下がる鎖につながれており、十和は直立し万歳をする状態で拘束されていた。

 服は黒いキャミソールとショーツ以外は何も身につけていなかった。腕時計も、佐神からもらった靴も今は履いていない。助手席に乗り込んだ時点では履いていたはずだ。どのタイミングで脱がされたのだろう。

「おはよう、十和」

 部屋に響いた低い声に、十和の身体がぎくりとこわばった。

 矢代はソファから立ち上がり、パソコンの画面を手早く操作したあと、画面をこちらに向けた。そこに映っていたのは、拘束されている自分自身の姿と、視聴者数を示す数字だった。彼は自分の犯罪をライブ配信しているのだ。

 十和は思わずカメラから顔をそむけるが、しかし矢代の手はそれを許さなかった。彼女の顎を掴んで無理やりカメラの方へ顔を向けさせた。無機質なレンズが十和を見つめている。

 矢代はカメラの奥にある赤い椅子を指さした。「本当はあそこに佐神を縛りつけて、あいつの目の前でお前を犯して殺そうと思ってたんだ。それなのに刺されるなんてさ。まったく誰だか知らないが、全部台無しだよ」矢代は机からハサミを選び取ると、十和の眼球の前に突きつけた。

 十和の目が大きく見開かれる。心臓の鼓動が早鐘を打ち、歯がカチカチ鳴るほど震えていた。刃物を向けられていることだけではなく、五年前に刻み付けられたあの恐怖が彼女の全身を支配していた。

 冷たく尖った刃先はゆっくりと彼女の首筋から胸を伝い、下腹部で止まった。ハサミがキャミソールを、裾から首元に向かって切り裂いていく。

「ライブ配信ってのは、いい案だろ。こうすれば佐神だけじゃなく、不特定多数の人間にお前の姿を見せることができる。お前が死んだ後もこの映像は半永久的にネット上に残り、映像が再生されるたびに、お前は俺や映像を見た人間に犯されることになるんだ。どうだ、いい計画だろう?」

 キャミソールが床に落ち、十和の白い肌がほとんど露になった。今や彼女が身に着けているのはブラジャーとショーツだけである。しかしそんな状況でも十和は逃げ出すことはおろか、手で身体を隠すことすらできなかった。十和にできたのはカメラから顔を背け、恥辱に耐えることだけだった。

 視聴者数は瞬く間に増え三千人を軽く突破した。約六千もの瞳が十和の身体を見ていることになる。矢代の手になぶられる彼女の白い姿態を。

 矢代は十和の耳元に唇を近づけ、小声でささやいた。「もっと抵抗しろって。そっちの方が受けるから」矢代の手がぴしゃりと彼女の尻を叩いた。

 耐えきれないほどの羞恥と屈辱によって十和の顔が歪む。噛み締めた唇の端からは真っ赤な血がにじんでいた。

 矢代の手が十和の身体の上を這いまわる。そのたびに、まるで皮膚の下を無数の蜘蛛が蠢いているかのような嫌悪感を覚え、吐き気がした。そんな十和の様子を、矢代は笑みを浮かべながら見下ろしていた。彼は苦痛に満ちた十和の表情を、小刻みに震える皮膚を、こわばった筋肉の収縮を、波打つ柔らかい肉の感触を、掌で楽しんでいたのだ。

 矢代の手が十和のショーツに触れた。指先が割れ目をなぞる。

 視聴者数はいつの間にか十万人にまで膨れあがっていた。

 十和はきつく目を閉じて彼から顔を背けていた。しかしそれは決して男からの辱めに甘んじていたからではない。彼女は耳を澄ましていたのだ。どこかから聞こえてくる、あの腕時計の秒針の音に。

 ──カチッ、カチッ、カチッ…。

 聞こえる。時計の音はたしかにこの部屋のどこかから響いていた。もしかしたらそれは幻聴だったのかもしれない。しかし十和にとっては、そんなことはどうでもいいことだった。彼女はその音だけに意識を集中させていた。

 その音は十和を鼓舞する太鼓の音であり、十和の精神を支える太い柱であり、そして十和がこれまで矢代と闘ってきた記録でもあった。そう、およそ三年と五十四日、十和は過去と闘ってきたのだ。

 長くつらい闘いだったが、膝を折らなかったのは支えてくれた人がいたからだ。佐神はいつも十和のことを見守っていてくれたし、波木も自分の口から語ることはなかったが、十和のために身を粉にして働いてくれていたのは知っていた。彼らがいたから十和は立ちつづけることができたのだ。

 もしも今ここで矢代のなすがままになったら、二人にどんな顔をして会えばいい? せめて一矢報いるべきなのでは?

 そう思うと十和の心の内に小さな勇気の火が灯るのがわかった。秒針の音はその火に酸素を与え、そして大きくなった火は十和に矢代と向き合う勇気を与えた。小刻みに震える唇から小さく息を吐き出した──大丈夫、私は闘える。

 十和は顔をあげた。やや吊り上がり気味の大きな瞳が矢代の姿を捉える。

「シスコンもここまでくると病気ですね」

「あ?」矢代は手を止めて十和を見下ろした。

「あなたの妹と私はそんなに似ていますか」十和は矢代の目をまっすぐに見つめたまま訊いた。

 彼は何も答えず、目を細めて首を傾げている。十和は絶対に自分から目を逸らさないと決めていた。それがこの闘いの主導権を握るための重要な鍵であることを本能的に察していたからだ。そのおかげで矢代の表情に一瞬だけ動揺が走ったのが見て取れた。

「今朝、実里みのりさんに会ってきましたよ」十和は声が震えるのをおさえながら言った。余裕があることをアピールするために、彼女の唇は緩やかに弧を描いている。「あなたとは似ても似つかない、おとなしくて聡明で優しい方でした」

「あいつに会ったのか。どこにいた、実里は?」

 しかし十和は彼の質問を無視して話をつづけた。「実里さんはあなたにされたことを、すべて話してくれました。あなたのことを“あらたさん”と呼ばされていたこと、中学生の頃から性的虐待を加えられていたこと。ああ、それと、あなただけが両親から愛されていなかったことも」

 ふいに矢代の手が十和の後頭部の髪を引っ掴んだ。鋭い痛みに十和の顔が思わず歪む。怒りに満ちた表情で彼女を見下ろす矢代と目が合った。その時に十和は確信した。主導権は完全にこちらが握った。

「父親はあなたにたびたび暴力を振るっていたそうですね。母親も見て見ぬふり。唯一あなたに優しくしてくれたのは実里さんだけだった。両親が死んだ時、実里さんは幼いながら兄と二人で支え合って生きていくことを決意した、と言っていましたよ。その時はまだ虐待を受けていなかったので、あなたのことを家族として愛していたと。それなのに、あなたは実里さんを裏切った」

 髪を掴む矢代の手にさらに力がこもる。彼の頬はピクピクと痙攣していた。

「あれだけ映画を観ておきながら、家族の愛し方もわからないんですか」

 痛烈な一撃。矢代が一瞬、狐につままれたような表情を浮かべた。なぜ知っているんだ。彼の顔にはそう書いてあった。

 そんなことは十和にとっては造作もないことだった。彼のパソコンをハッキングして検索履歴や視聴履歴、購入履歴を解析すれば趣味嗜好など簡単にわかる。プライバシーなど無いも同然なのだ。

 しかし矢代はすぐに態勢を立て直すと、右の拳を振り上げた。

 十和の左頬に強い衝撃が走り、視界がチカチカと瞬いた。一瞬遅れて殴られたのだと気がついた。鈍い痛みと血の味が口内に広がる。

 矢代の両手が十和の頬を包みこんだ。自分の額を十和の額に押し付けながら唸るように囁く。「さっきからデタラメ言ってんじゃねえぞ、このクソアマ。お前は黙って俺に犯されてればいいんだよ」

「失敗作。父親からそう呼ばれていたそうですね」

 矢代が十和の眼球の前に親指の爪を突きつけた。左右の親指が、鎌首をもたげた蛇のように彼女の両目の前でゆらゆら揺れる。「決めた。お前は絶対に殺さない。犯したあと、眼球に指を突っ込んでぐちゃぐちゃにかき回してやる」

 矢代の骨ばった指が十和の口の中に侵入する。

「そのあとは舌だ。ああ、ついでに耳も切り落とそう。ちゃんと死なないように、炙った鉄で止血しながら、時間をかけてゆっくり切り落としてやるから安心しろ。自分の神経や筋繊維がブチブチ千切れる音を、その可愛い耳でしっかり聞いておけよ」

 矢代の靴が十和の足の甲を踏みつけた。吸い殻をもみ消す時のように、体重をかけて執拗に踏み躙る。耐えがたい痛みが全身を貫き、十和の口から呻き声が漏れた。

「仕上げに手足の指だ。第一関節、第二関節、第三関節。関節ごとに糸鋸いとのこで丁寧に切り落とそう。そして」矢代は十和のショーツの中に手を入れた。「切り落としたパーツは全部ここに突っ込んで、佐神のもとに送り届けてやる。見えない、喋れない、触れない状態で生き続けるお前を見て、あいつはどんな顔をするだろうな」

 十和は矢代の目をまっすぐに見上げて言った。「そんな時間、あるとでも?」

「は?」

「ああ、そういえば言い忘れていました。実里さん、ご結婚されていました。お相手の名前は佐藤良樹さん。中学時代の同級生ですよね、二人で自主制作の映画を撮っていたほどの仲だった。彼は現在、映画監督としてご活躍されているそうですよ」

 矢代の頬が痙攣する。動揺しているのは明らかだった。

 十和は矢代の顔を見あげ悠然と笑みを浮かべた。「あなたも真面目に努力していれば、夢を叶えられたかもしれないのに。この九年間、佐神さんへのくだらない復讐に執着して、本当に無駄な時間を過ごしましたね」

 とどめの一撃。

 これほど感情をあらわにしている矢代の姿を見るのははじめてだった。彼は血走った目で十和の首に手をかけた。十和の柔らかい肌に矢代の爪が食い込み、気道がふさがれた。十和の身体が酸素を求めて暴れる。しかし矢代は力を緩めない。

 意識が遠のきかけた時、部屋の外でガラスが割れる音がした。



 *



 矢代の別荘にたどり着いた佐神は、道端に落ちていた手ごろな石を掴み、その窓に叩きつけた。ガラスの割れる甲高い音が静かな森の中に鳴り響く。コートの裾が夜風にあおられて翻った。割れた穴に腕を突っ込み、クレセント錠を外した。

 窓に足をかけて部屋の中に侵入する。どうやらここはリビングのようだった。暗い部屋の中に目を凝らすが、埃のかぶった机やソファが並んでいるばかりで人の気配はない。

 では二階か。

 佐神は右手で脇腹を押さえながら寝室へ続く階段をのぼった。熱を持った傷口がひどく痛んだが、足を止める理由にはならなかった。十和はもっとつらい思いをしているはずだ。たとえここで倒れようとも、意地でも矢代のもとに這って行き、あの男の喉笛を食い千切るつもりだった。だから痛みなんてどうでもいい。

 佐神は木製の扉に体当たりをするようにして寝室に転がり込んだ。

 視界に飛び込んできたのは、下着姿で拘束されている十和と、その隣に立つ矢代の姿、そして彼らの前に設置されているビデオカメラだった。その瞬間、佐神はあの男が何をしていたのかを悟った。全身の血液が沸騰したように熱くなった。

「佐神さんっ」十和が目を見開いて彼の名を呼んだ。

 佐神は無言で二人の方に歩み寄った。三脚を蹴り飛ばす。派手な音を立ててカメラが床に落ちた。パソコンが乗っていた机も引き倒した。ノートパソコンは画面を上に向けた状態で床に転がった。視聴者数の数字は増加を続け、今や二十万人まで達している。

 矢代が舌打ちをする。「刺されたんじゃなかったのかよ」

「このクソ野郎」佐神は彼の襟首をつかんで引き倒した。

 矢代は横倒しになった机の上に倒れこみ、苦痛に顔を歪めた。その顔面にすかさず蹴りを入れようとしたが、矢代は間一髪のところで避けた。矢代は机の脚を掴んで佐神に向かって放り投げてきた。大きな音を立てて机が十和の足元の床に転がった。

 佐神がひるんだ隙に矢代は素早く立ち上がり、ポケットからナイフを取り出した。

 ナイフが鋭い光を放ちながらこちらに繰り出される。佐神は身体をのけ反らせてかわした。再びナイフの切っ先が彼に向かってきたところで、佐神は矢代の右手を掴んだ。左の脇の下で矢代の腕を固定する。佐神は腕を引き抜こうともがく矢代の右腕に拳を振り下ろした。ありったけの力を込めて。一度、二度。三度目で矢代は呻き声をあげナイフを取り落とした。

 矢代が佐神の血がにじんだ脇腹に鋭いパンチを放ってきた。息ができなくなるほどの痛みが佐神の全身を貫いた。視界が明滅する。手術したばかりの傷口が完全に開いたのがわかった。

 しかし矢代はためらうことなく佐神の腹に蹴りを入れてきた。それは佐神のみぞおちに命中し、彼は苦痛に顔を歪めて背中から倒れこんだ。全身から冷や汗が吹き出した。うまく酸素が取り入れられず、激しく咳き込む。泣きそうな顔で佐神を見下ろす十和と目が合った。

 矢代がゆっくりと佐神の方に近づいてくる。その手には蠟燭の炎を反射してオレンジ色に光るナイフが握られていた。

「やめて!」十和の絶叫がこだまする。

 佐神の左手がそろそろと十和の方──机の脚へと伸びた。佐神の手が脚を握ったのとほぼ同時に、矢代がナイフを振り上げた。佐神はその横っ面に机を叩き込んだ。天板の縁がもろに矢代のこめかみに直撃し鈍い音が鳴った。

 矢代の黒目がぐるりと天井を向く。ナイフが手から滑り落ちる。矢代は顔面から床に倒れ込んだ。彼はそれっきり動かなくなった。

 佐神は深いため息をついて上体を起こした。矢代のポケットから手錠の鍵を取り出す。ふらつく足で十和に歩み寄り、手錠を外した。

「佐神さん」十和が喜びと心配が複雑に入り混じった瞳で彼を見あげた。

 その顔を見た瞬間、全身から力が抜けて彼は床に座り込んだ。十和の肩にコートをかけ、その華奢な身体を抱きしめた。十和の手首についた赤い手錠の痕が、佐神の胸を締めつけた。

 佐神は二人にレンズを向けているビデオカメラを蹴り飛ばした。カメラは床を滑りノートパソコンにぶつかって止まった。視聴者数が二十三万人にまで膨れ上がっていた。これだけ多くの人間がこのショーを見ていたのだ。これ以上の屈辱があるだろうか。

「悪い…俺のせいで…」佐神の口から出たのはそれだけだった。もっと謝らなければならないのに、言葉が喉の奥でつっかえて何も出てこなかった。そのかわりに十和の身体をぎゅっと抱きしめた。

 十和が首を振る。「あれ、フェイクですよ」

「フェイク?」

「あれは私が作ったフェイクのサイトです。よく見るとURLが微妙に違うでしょう」十和がパソコンを指さす。視聴者数は未だに増加しつづけ二十五万人に達していた。ライブ映像には白い壁しか映っていないにも関わらず。「矢代のパソコンにハッキングして、私が作った偽の動画サイトに飛ぶように細工しておいたんです。あのサイトは矢代以外誰も入ることができません。視聴者数もデタラメです」

「てことは…」佐神は目を瞬かせた。顔を両手で覆って長いため息をついた。彼の背中を十和が優しくさすった。「よかった。誰にも見られていないんだな」

 十和の手がぴたりと止まった。気まずそうに佐神と目を合わせる。「藤倉署の刑事さんたちは見ていると思います。あのサイトに動画を上げると、自動的に藤倉署のパソコンに転送されるようになっていますから。たぶんもうすぐ──」

 遠くでパトカーのサイレンの音が聞こえた。音は次第に大きくなり二人のいる場所に近づいてくるのがわかった。

「ね?」十和がいたずらっぽい笑みを浮かべる。

「俺は必要なかったってことか」

「そんなことありません」苦笑する佐神の言葉を、十和は慌てて否定した。「佐神さんが来てくれなかったら、殺されていたと思います」十和が彼に向き直って頭を下げた。「ありがとうございました」

「それにしても、よく予想できたな。あの男がライブ配信するって」

「五年ですよ」十和が矢代の方を振り返る。「五年間、あの男のことをずっと考えてきました。何をするかなんて、手に取るようにわかります」

 外の砂利道を踏みしめながらパトカーが敷地内に侵入してくる音がした。大勢の足音と話し声。窓の外を彩るパトランプの赤い色。

 佐神は仰向けに寝そべった。痛みは今更になって襲ってきた。心臓の拍動に合わせてズキズキ痛む脇腹を押さえながら、佐神は考えていた。藤倉署と矢代のパソコンをハッキングした十和が、どうすれば罪に問われないかを。



 *



「やったぞ!」

 波木は助手席でガッツポーズをする先輩刑事に目をやった。二人を乗せたパトカーはサイレンを轟かせながら、矢代の別荘へと向かっていた。

 数十分前に藤倉署のすべてのパソコンの画面上に突如、表示された矢代のライブ映像は、藤倉署内を騒然とさせた。つい先日釈放されたばかりの男が再び罪を犯し、その様子をライブ配信しているのだから当然である。それも署内のパソコンをハッキングし、画面をジャックしたうえで。

 刑事たちはすぐに矢代の居場所を特定し、女性の救出に向かった。もちろん波木も一緒だった。

「あの元刑事が矢代をやった」先輩は興奮を隠そうともせず、波木にタブレットの画面を向けた。そこに映っているのは十和の手錠を外す佐神の姿だった。先輩が波木の肩を優しく叩く。「お前の恋人は無事だ」

 波木は鼻水をすすりながら何度もうなずいた。昨日、病室で十和から矢代を罠にはめる計画を聞いていたので、こうなることはわかっていた。しかし実際に十和が矢代の手で辱められているのを見るのは耐えられないほど苦しかったのだ。

 何度も叫びだしそうになるのを堪えながら、波木は現場へと向かっていた。それが今ようやく解放されたのだ。ずっと憧れていた元刑事の手によって。

 別荘に到着すると、波木は我先に飛び込んだ。階段を駆け上がり寝室に躍り入る。床に座る十和と、その傍で寝そべる佐神、そして気絶している矢代の姿が目に入った。波木は二人のもとに走り寄った。

「波木さん」十和が立ち上がる。彼女は警察が来たというのに不安げな表情を浮かべていた。

 後から入って来た刑事たちが矢代に手錠をかけた。救急隊員が佐神を担架に乗せる。受け答えは明瞭で、命に別条はなさそうだ。

 十和が波木に抱きついてきた。彼もまた、こわばった十和の背中に腕を回した。視界の端で先輩刑事が、やれやれと首を振っているのが見えた。先輩にはこれが恋人同士の抱擁に見えているのだろうか。

 波木は十和の左手首を掴んだ。彼の掌の中で十和が身体を固くする。彼女の指先は波木のポケットの中にあった。波木は彼女の指先につままれている小さなもの──USBメモリをそっと取りあげた。

 彼を見あげる十和と目が合う。彼女は泣きそうな顔をしていた。

「やっぱりやめましょう。私はべつに捕まったって構いません」

「俺が提案した計画っすよ。やらせてください」

「でも、捜査一課に行きたいって言っていましたよね。もしもこのことが──」

 波木は十和の言葉を遮って首を横に振った。掌の中にある、昨日十和から受け取ったUSBメモリを握りしめる。

 十和が矢代なんかのために、罪に問われることはない。このUSBメモリは、十和が矢代のパソコンにハッキングした形跡を、きれいさっぱり消すようにプログラミングされてある。隙を見て、これをあの男のパソコンに差し込めばいい。そうすれば十和の犯罪の痕跡は消え、藤倉署のパソコンにハッキングしたのは矢代だということになる。

 勘のいい刑事の中には今回の事件と、十和が警視庁のデータベースに不正にアクセスしていた過去とのつながりを疑う者もいるかもしれない。しかし証拠はないのだ。きっと法治国家の大原則が彼女を守ってくれる──疑わしきは罰せず。

「どうして…」うなだれた十和が波木の腕を掴む。

 おそらくこれは波木が犯す、最初で最後の犯罪となるだろう。もしもこのことが露見すれば、捜査一課に配属されるという彼の夢は断たれる。それどころか警察にもいられなくなるかもしれない。けれど波木には迷いも後悔もなかった。愛する人を犯罪者にしたくない。それ以外にどんな理由がある?

 ごめんなさい、と言って波木の胸にすがる十和の背中を優しくなでた。

「平気っす。俺ならうまくやれます」

 そう、バレなければいいのだ。




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