女がまだ十歳だった頃。懐かしい思い出の話。

 些細なことで癇癪をおこす母。目も合わせない父。少女は両親に何の感情も抱いてはいなかった。好きでもなければ嫌いでもない。ただ一つ屋根の下に住んでいる人、という程度の認識だった。そもそも彼らとは血が繋がってすらいない。

 少女が唯一心を許していたのは姉だけだった。

 姉はいつもベッドの上にいた。姉の足首には鎖がついた足枷がはまっており、彼女が動くたびに鎖はジャラジャラとうるさく鳴いた。ベッドとバスルームとトイレ、姉が行動できる範囲はそれだけだった。部屋の外にいる姿は一度も見たことがない。だからずっと彼女はあの部屋で生活していたのだと思う。

 母は姉については一切言及しなかった。まるで姉など存在していないかのように振舞っていた。父はよく姉を抱いていたが、姉と話しているところは見たことがない。ことが終わると、目も合わせず足早に部屋を出て行くからだ。

 姉は、自分は誘拐されたのだと言っていた。

 少女はそんな姉の部屋に足しげく通っていた。母に暴力を振るわれたあと、父に抱かれたあと、少女は姉の身体に抱きついた。姉はいつも少女の頬を優しくなでてくれた。すると、なぜだかわからないが少女の心はふわふわと軽くなる。目を閉じるとまるで雲の中にいるような温かい気分になった。

 少女にはその感情が愛であると理解することができなかった。少女は一度も愛された記憶がなかったから。愛というものを知らなかったのだ。

 姉は少女にたくさんの話をしてくれた。

 昨日見た夢の話、むかし読んだ絵本の話、流行りのアイドルの話…。その中でもとくに少女のお気に入りだったのは、姉の友人の話だった。姉も同じく友人の話をするのが楽しいらしく、その時の表情はいつもより輝いていた。

 姉と、その大きな瞳のとびきりかわいい友人は同じ小学校に通っており、いつも二人で遊んでいたそうだ。テレビゲームやお絵かきはもちろん、鬼ごっこやかくれんぼなど二人で遊ぶのには向いていない遊びでも、友人となら楽しくできた。

 二人は親戚同士だったので、友人が家に泊まりに来ることもしばしばあった。

 そんな時はきまって夜中に二人でこっそり布団を抜け出して、縁側で星を眺めていたのだという。きらきら光る星をつなげて、二人だけの特別な星座をつくっていた。

 澪奈ちゃん。

 その友人の名前を呼ぶ時、姉の桜色の唇はいつも微笑みの形をしていた。

 けれどごく稀に、姉の顔が歪むことがあった。その男の名前を呼ぶ時、彼女の顔は父に抱かれている時のように苦痛に歪んでいた。

「誰かをこの手で、本気で殺したいと思ったのはあの時がはじめて」姉はいつもそう言った。

 姉の話によると、その男は刑事だったそうだ。姉が父と母に誘拐されてしばらく経った頃、その男は誘拐事件の聞き込みのために家にやって来た。男は応対した母と玄関先でいくつか言葉を交わしたあと、早々に帰って行った。

 その時、姉は居間にいたのに。父親に羽交い絞めにされナイフを向けられていたので、助けを求めることはできなかった。だが、もしも刑事が家の中に入ってきていたら。

 姉の願いが届くことはなかった。刑事は母に背を向けると、その家をあとにした。

「アホやなあ、あの刑事。すぐ近くにおったのに」

 父は黄ばんだ歯をむき出しにして笑ったそうだ。

「サガミ…」姉は憎しみに満ちた目で言った。「殺してやりたい」



 *



 探偵事務所の扉がノックされた時、佐神の意識は半分ほど夢の中にあった。混沌とした夢の世界にノックの音が忍び込み、佐神の意識を覚醒させる。

 佐神は重い瞼を無理やりこじ開けた。左目はなんとか開いたが、右目はまだ閉じたままだ。酒を飲んでいないのに、身体がひどく疲れていて頭痛もしていた。ブラインドの隙間から入ってくる信号機の光が部屋の中を赤く照らしている。時計の針は午前一時二十一分を指していた。京都から帰ってきたのが夜の十二時少し前なので、まだ一時間ほどしか眠っていない。どうりで疲れているわけだ。

 ため息をついて上体を起こす。スーツのままソファで眠っていたらしい。また十和に小言を言われる。

 部屋にさし込む信号機の光が青に変わった時、再びノックの音が響いた。

 ──コン、コン。

 佐神は扉に顔を向けた。意識が完全に覚醒する。遅れて、自分がノックの音で目を覚ましたのだということを思い出した。

 佐神は机の上に置いてあった細長いビールグラスを手に取り、ゆっくりソファから立ち上がった。こんな物でも武器がないよりはましだ。音を立てないように扉へと向かう。ノックの音はその間も、一定の間隔で鳴り響いていた。

 扉の上部についている、すりガラスの小窓越しに黒い影が立っているのが見えた。

「誰だ」佐神が黒い影に問う。

 ──コン、コン。

 影は答える代わりにノックを返した。

 嫌な汗が背筋を流れた。真っ先に頭に浮かんだのは矢代の顔だった。グラスを持つ手に力がこもる。佐神はグラスを背中に隠して、ドアノブの鍵を回した。

 ノックの音が止まる。カチャリと金属の音がして鍵が開く。佐神はドアノブに手をかけたまま、相手の出方をうかがった。

 黒い影は微動だにしなかった。ただじっと扉が開かれるのを待っている。扉の向こう側は衣擦れの音すらせず、不気味なほど静まり返っていた。

 それからしばらく睨み合ったあと、佐神は影に対して身体を斜めにした状態で、扉をそっと引いた。冷たい風が部屋の中に流れ込む。

 黒いフードを被った人物が立っていた。矢代ではない。体型から察するに女だろうか。

 そのことに気がついた途端、冷たい汗が首筋を流れた。

 女がゆっくりとフードを取る。闇の中に白い肌が浮かび上がり、風に吹かれた女の短い髪が宙を踊る。やや吊り上がり気味の大きな瞳が佐神をとらえた。

 ──十和。

 うなじにぞっと鳥肌が立った。佐神は半歩、後ずさった。グラスを掴んだ掌が汗ばんでいる。心臓の音がうるさい。いつの間にか浅く速くなっていた呼吸をおさえながら、佐神は口を開いた。「答えろ。お前は誰だ」

「繭子」

 次の瞬間、女は佐神の方に駆け寄ってきた。この女が十和の顔をしていなければ、佐神はやすやすと女を床に組み伏していただろう。だが、そうはいかなかった。彼の身体は石のように硬直していた。女が佐神の胸の中に飛び込み、華奢な身体が彼の腕の中におさまった。

 すると佐神の脇腹に焼けつくような痛みが走った。右手から滑り落ちたグラスがガチャンと音を立てて砕けた。信号機の光が、透明な破片を黄色く染める。彼の右の脇腹には果物ナイフが深々と刺さっていた。流れ出た血液がスーツに真っ赤な染みをつくった。

 佐神は脇腹を右手でおさえて床に膝をついた。

 女ははっと目を見開くと、髪を翻しながら扉の方へ駆けだした。女の後姿が入り口の向こうの闇に溶けて消える。外階段を駆け下りる靴音が遠ざかる。開け放たれたままの扉から忍び込んだ夜風が、佐神の頬をそっと撫ぜた。

 掌を生温かい血液が汚した。視界がぼやけ意識が朦朧としているのに、傷口の痛みだけは心臓の拍動に合わせ、燃えるように激しく痛んだ。

 佐神の身体がぐらりと倒れた。

「十和…」血の気の失せた唇で彼女の名前を呼んだ。

 あの女が十和でないことはわかっている。けれど佐神は考えられずにはいられなかった。

 十和は矢代に犯される原因をつくった佐神を恨んでいないだろうか? 一度でも彼を殺してやりたいと思ったことは? あの女が十和ではないと果たして言い切れるだろうか?



 *



 波木は念のためもう一度だけ病室の扉をノックした。扉に耳を近づけて中の音に耳を澄ます。やはり返事はない。彼はスマートフォンを取り出し、十和から送られてきた病室の番号と、今自分が立っている部屋の番号を確認した。間違いなく佐神の入院している病室だ。十和が付き添っていると聞いているが、なぜ返事がないのだろう。波木は「入りますよ」と声をかけてから扉を開いた。

 個室のベッドで目を閉じている佐神の姿が目に入った。

 十和はその枕元に置いてある椅子に座ったまま、目を閉じていた。膝の上に両手を置いてお行儀よく座っているようにも見えるが、ノックの音に気がつかなかったということは、深い眠りの中にいるのだろう。小さな机の上には開きっぱなしのノートパソコンがあった。

 窓から差しこんだ西日が病室をオレンジ色に染めていた。

 波木は音を立てないよう、佐神の枕元にお見舞いの品が入った紙袋を置いた。佐神の顔を覗き込む。顔色は悪くないように思える。

 昨日の真夜中、眠っていた波木のもとにかかって来た電話は、彼の先輩にあたる刑事からだった。「佐神って元刑事、お前の知り合いじゃなかったか? うちの管内で刺されたらしいぞ」

 その言葉を聞いたときは心臓が縮み上がったが、命に別条はないと聞いて安心した。佐神は刺されて意識を失う前に自力で救急に連絡したらしい。そのおかげで処置が間に合ったとのことだった。

 十和の肩がぴくりと動いた。椅子の上で小さく伸びをしながら、眠そうに目を開いた。彼女はようやく波木の姿に気がついた様子で、目を瞬かせた。「波木さん、来てたんですか」

「ええ、たった今」波木は十和に勧められ、彼女の隣の椅子に腰かけた。「佐神さんの様子はどうっすか」

「まだ目を覚ましません。でも命に別条はないし後遺症の心配もないので、じきに目を覚ますだろうって、お医者さんが言っていました」十和は佐神の顔を見て目を細めた。「本当によかった」

 波木はポケットから差し入れの缶コーヒーを取り出そうとしたが、やめておいた。十和の目の下には隈ができている。今の彼女にカフェインは不要だ。「もしかして昨日の夜からずっと付き添ってるんすか」

「なんだか心配で家に帰る気になれなくて。それより、佐神さんを刺した犯人は見つかったんですか」

「残念ながらまだっす」ナイフから指紋が検出されなかったうえに、あそこは付近に防犯カメラがないので、犯人の特定までにはしばらくかかるだろう。

「事務所の中で倒れていたってことは、犯人も事務所にいたってことですよね。足跡は見つからなかったんですか」

 十和の言う通り、現場からは女のものと思われる足跡が残されていた。けれど波木はそれを彼女に伝える代わりに首を横に振った。「すみません、捜査に関することは言えないんすよ」

 二人の間に気まずい沈黙が流れる。

 つらそうに眉間にしわを寄せる十和の横顔が、波木の胸を締めつけた。もちろん彼だって、佐神の事件に関して得た情報はすべて十和に話してあげられたらと思っている。しかし規則である以上、それはできないのだ。

「なんだか嫌な予感がします」十和は布団の端をめくって佐神の掌をそっと持ち上げた。「佐神さんの手、どこにも傷がないでしょう。佐神さんは脇腹を正面から刺され、事務所の入り口のそばで倒れていた。不意打ちで後ろから刺されたならともかく、正面から知らない人間がナイフを持って近づいてきたら、普通は抵抗しますよね。とっさに手でかばったり、相手の身体を引っかいたり」

 波木は佐神の手を見た。たしかに彼女の言う通り、掌にも腕にも抵抗して切りつけられた跡──防御創はない。

「はじめは矢代が刺したんだと思っていました。でもあの男に刺されそうになったら、佐神さんはきっと抵抗するはずです。それに矢代は佐神さんを殺すような真似は絶対にしません。そんなことをしたら、私が苦しんでいる姿を佐神さんに見せつけることが、できなくなりますから」

「つまり、佐神さんを刺したのは矢代ではなく、顔見知りの人間だということっすか」

「顔見知りというか…、佐神さんの目には、顔見知りのように映っていたんじゃないかと思います。だから犯人は、抵抗されることなく佐神さんを刺すことができた」十和は波木の目を正面から見つめた。「事務所で発見された足跡は、女性のものだったのではありませんか」

 波木は何も言わなかったが、その沈黙は答えがイエスであることを雄弁に物語っていた。

「面降ろしをした状態で事務所を訪れた繭子さんが、佐神さんを刺したという可能性はありませんか。これ以上、事件のことを掘り返すなと警告するために」十和は、繭子が誰の姿を降ろしていたのかということは、あえて名言しなかった。

「いや、その可能性は低いと思います。だって繭子さんは事件を掘り返されたところで、困ることはないでしょう。彼女は被害者っすから、むしろ見つけてほしいと思うはずっす」それに、と言って波木は鞄から取り出したA4サイズの茶封筒を、十和に手渡した。「これを見てください」

 十和が封筒を開けて中の書類に目を通す。

 それは樹里亜の遺品から見つけ出した赤い小袋の鑑定結果だった。毛髪に関しては残念ながらDNAを検出することはできなかったが、和紙についていた血液と指紋はちゃんと鑑定することができたのだ。

「検出されたDNAと繭子さんのDNAは不一致…」十和が文章を指でなぞりながら読み上げる。彼女の目が大きく見開かれた。「波木さん、これ。澄田千尋って…」

 警察のデータベースに、和紙から検出された指紋と一致するものがあった。つまり和紙に指紋を残した人間には前科があったのである。その指紋の持ち主の名前は澄田千尋。澄田道孝と澄田麗美の娘だ。

「千尋と道孝には詐欺の前科がありました。今から三年前──千尋が十八歳、道孝が六十歳の頃の話ですなんでも親子で共謀して、死んだ人に会えると嘘をついて被害者から多額のお金を要求したとか。おそらく面降ろしをしていたんでしょうね」

「澄田夫妻の子供は秋穂ちゃん一人だけだったのでは? 実はもう一人子供がいたということですか」

「いや、千尋は澄田夫妻とは血が繋がっていません。彼女は河北猛と妻の陽子の間に生まれた子供です。しかし千尋が五歳の時に両親が死んでしまい、その後、澄田夫妻に引き取られたそうっす」

 面降ろしの力を手に入れるためには、六歳から九歳まで人皮の面をかぶる必要がある。澄田夫妻に引き取られた時、千尋はまだ五歳で、儀式を行える年齢だった。だから澄田夫妻は千尋を引き取ったのだろう。澄田夫妻が人皮の面を盗んだ謎もこれで解けた。

「ということは、佐神さんを刺したのは澄田千尋かもしれない、ということですね」

「なくはないっす」

「澄田夫妻は今どこに?」

「それがわかんないんすよ。麗美の方は十年ほど前に、道孝は逮捕後まもなく獄中で病死しています。千尋は釈放されて以降、どこに住んでいるかはさっぱり。記録では埼玉の山奥にぽつんと建っている家に住んでいる、ってことになってたんすけど、知り合いに頼んで見に行ってもらったら、もぬけの殻でした」

「ここまで来て手詰まりか…悔しいですね」

「あ、そういえば一つだけ気になる点が」波木は思い出したように懐から取り出した手帳を開いた。「澄田夫妻と河北親子は四人とも、城咲町に住んでいたんす。しかも河北猛と陽子の死因は自殺。これってなんか引っかかりませんか」

「たしかに気になりますね。澄田夫妻と河北夫妻ってどういう関係だったんですか」

「さあ、そこまでは…。でも陽子は城咲町のスナックで働いていたみたいなので、もしかしたら道孝と知り合いだったかもしれないっすね」

「そのスナックの名前、わかりますか」

「ポエムという名前のスナックです。住所は…」

 十和は波木が読み上げた住所をスマートフォンに打ち込んだ。「そのお店、まだやっているみたいですね」

 ストリートビューの画面には古びた外観のスナックが表示されていた。色あせた赤い店舗テントには白い文字で“カラオケ喫茶&スナック ポエム”と書いてある。ずいぶん年季の入った佇まいだ。

「決めました。私、明日ここに話を聞きに行ってきます。何か手掛かりがあるかもしれません」

 波木は驚いた顔で十和を見た。「えっ、一人で? 危険っすよ、佐神さんが刺されたばかりなのに。鏡香さんと一緒に行くとかはできないんすか」

「怪談のイベントで北海道にいるので無理ですよ。佐神さんがこうなってしまった以上、私が行くしかありません」

「でも…」と波木は食い下がった。今の状況で十和を単独行動させるのは気が引けた。佐神はこうして怪我を負わされているし、それに何より気がかりなことがもう一つあった。「矢代のこともあるでしょう。十和ちゃん、いったい何を考えているんすか」

「何って?」

 波木は鞄から茶封筒を取り出して、十和の前に掲げてみせた。「どうして俺に、あいつの妹のことを調べさせたんすか」

「彼女の居場所がわかったんですか」

 封筒を取ろうと伸ばされた十和の手を、波木はさっとかわした。十和が無言で波木を見あげる。その目は強く彼に訴えかけていた──早くそれを渡してください。

 波木は首を横に振った。

 十和は佐神と仲良くしていたばかりに矢代に襲われてしまった。佐神はずっとそのことを気に病んでいた。その後、佐神は十和のそばに寄り添い、彼女を守る生き方を選択した。しかし、そもそも二人が仲良くなるきっかけをつくったのは、ほかならぬ波木自身だったのだ。そのため波木も長年、佐神と同じように悩み苦しんできた。そして波木は波木なりの方法で十和への償いをしてきたのだ。藤倉署の刑事として一人でも多くの犯罪者を検挙することで、十和が安心して暮らすことができる街をつくる、という方法で。

 だからもしも二人が矢代のことで秘密を抱えているのなら、自分にも打ち明けて欲しい。もう蚊帳の外は御免だ。

「たしかに俺は佐神さんみたいに、頼りがいのある人間じゃないかもしれないっす」波木は十和の目をまっすぐに見つめながら言った。「でも十和ちゃんを守りたいという気持ちは誰にも負けません。だって俺は、君のことが好きだから。あの定食屋で出会った時からずっと」

 窓から差しこんだ夕日が二人の横顔を赤く照らした。外の駐車場で鳴っているクラクションの音、廊下を行きかう足音、風に揺られる木々のざわめき。すべてが遠く聞こえた。

 呆気にとられた表情でこちらを見つめる十和に向かって、波木は言葉をつづけた。

「何をするつもりなのか、話してくれませんか」波木は十和の手に茶封筒を握らせた。彼の告白は終わった。さあ、今度は十和の番だ。

 十和はしばらくの間、膝の上にある茶封筒に視線を落とし、それから決心したように波木の顔を見あげた。「私は明日、矢代の妹に会いに行きます」

 十和の口から語られた言葉は、驚くべきものだった。つい先日、出所した矢代が再び彼女の前に現れて十和を脅したこと。矢代が長年にわたって自分の妹に性的虐待を加えていたこと。その証拠となるデータを入手したので、妹に会って彼の非道を刑事告訴するように説得するつもりだということ…。十和はそれらの話を簡潔に語った。

「もしも矢代の妹が証言してくれれば、あの男をもう一度刑務所に送ることができます」十和が言う。「五年…あるいはもっと長い期間」

「それで俺に彼女の居場所を調べさせたんすね。だったら、俺も一緒に行きます。十和ちゃん一人より、刑事である俺が一緒にいた方が話を円滑に進められます」

「いいえ、私一人で行きます。波木さんに迷惑をかけたくないので」

「俺は迷惑だなんて思わないっす。俺にできることならなんでも──」

「違うんです」十和は首を振った。「もしも告訴を断られた場合、過去のことをあれこれ掘り返されたくない、そっとしておいてほしいと言われた場合。私は逮捕されてでも、矢代を刑務所に送るつもりです」

「逮捕…?」波木の表情がこわばる。嫌な想像が脳裏をよぎった。十和が矢代の脇腹にナイフを突き立てる姿。「何をするつもりなんすか」

「佐神さんにも話していない計画のこと、波木さんにだけお話しします。そのかわり」十和は椅子を引いて波木の方に、にじり寄って来た。大きな瞳が彼を真正面から見あげた。「ここで聞いた話はすべて、病室を出たら忘れると約束してください」



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