女がまだ十歳だった頃。少女だった頃の話。

 少女の母は彼女のことを秋穂ちゃんと呼んでいた。鼻につくような甘ったるい声で、ニコニコ目尻を下げながら。

 少女は名前を呼ばれるときまって、元気に返事をして笑顔で母の方を振り返った。べつに彼女のことが好きだったからではない。そうしないとひどく怒るからだ。

 母はとにかくよく怒る人だった。少女がオレンジジュースを飲んだ時、家の庭にやって来た野良猫に興味を示さなかった時、ゴキブリを怖がらなかった時。母は机を強く叩いて立ち上がり、充血した目で少女を睨みつけた。カサカサにひび割れた唇は小刻みに震えていた。

 とくに少女が立ち上がった時の怒り方は尋常ではなかった。子供相手にものすごい剣幕で、唾を飛ばしながら口汚く少女を罵った。時には暴力も。「秋穂ちゃんはそんなことしない!」というのが彼女の決まり文句だった。

 だから少女はおとなしく母の指示に従っていた。母のことをママと呼び、とびきりの笑顔で彼女の胸に抱きついていた。

 父の方はというと、少女にはさほど愛情がないように思う。少女の名前を呼んだことは、記憶にある限り一度もない。目を合わせたこともなかったように思う。だが身体に触れてくることは時折あった。

 母の目を盗んで少女のもとにやって来ては少女を抱いた。少女を抱き終えると父はそそくさとズボンのファスナーを閉め、少女に向かって人差し指を立てた。「絶対に言うなよ」というのが彼の決まり文句だった。

 だから少女は言わなかった。ベッドの中でだけ父のことを道孝さんと呼び、艶のある笑顔で彼の腕に抱かれていた。



 *



 その日、佐神探偵事務所にやって来た波木の鼻息は荒かった。朝一番で事務所のドアをくぐり、意気揚々と来客用のソファに腰かけた。よほどの大ネタを掴んだらしい。彼は獲物を捕まえた猟犬よろしく、向かいに座る十和に得意げな笑みを浮かべながら、胸を反らせていた──俺を褒めてください!

 面倒臭いな。佐神は事務机の上に転がっていた一足のシューズを手に取ると、オフィスチェアに座ったまま二人のもとに移動した。十和の隣にその靴を置く。十和は無言で今履いている靴を脱ぎ、その靴に履き替えた。

「なんすかそれ」波木が怪訝な表情で尋ねる。

「靴」佐神は答える。それは彼が今朝早くに、近くの店で買ってきた新品のシューズだった。それも厚底の、レディースの靴。

「見りゃわかりますよ」と唇を尖らせる波木に、佐神は訊いた。

「頼んでいたことは、わかったのか」

「もちろんっす。頼まれていた以上のこともわかりました」波木はちらちらと十和に視線を送りながらポケットからスマートフォンを取り出した。

「頼んでいたことってなんですか」十和がパソコンから顔をあげずに訊く。

 彼女は今朝からずっとパソコンでの作業をつづけている。いや、ちがう。今朝、佐神が十和の部屋の固い床で目を覚ました時、彼女は昨日の夜と変わらぬ姿勢でパソコンをいじっていた。だから昨日の夜からずっとだ。目の下に隈ができているので間違いない。

「ちょ、ちょっとタイム」波木は慌ててソファから立ち上がり、佐神にこっそり耳打ちしてきた。「佐神さん、まさか抜け駆けしてないっすよね」

「何の話だ」

「だって二人とも唇を怪我してるじゃないっすか。まさか…」波木は右と左の人差し指の腹をくっつける仕草をした。「キス…?」

 佐神は無視した。

「あ、もしかして六車樹里亜さんの件ですか」と十和。

「そのとおりっす。六車樹里亜と伊藤樹里亜は同一人物でした。樹里亜の姓はもともと伊藤でしたが、中学の頃にシングルマザーだった母親が再婚したことで、六車姓に変わったみたいっす」

「ということは樹里亜と繭子は小学校の同級生だったというわけだ」

「それからこれは澪奈さんに聞いたんすけど、繭子さんと澪奈さんは小学生時代に伊藤樹里亜のグループにいじめられていたそうっす」

 澪奈は小学生時代に唯一自分と仲良くしてくれたのが繭子だったと言っていた。樹里亜にいじめられていた者同士で友情を育んでいったということか。

「となると、樹里亜さんの家に入って来た謎の女は、繭子さんである可能性が高くなったんじゃないですか。林さんの日記の記述からして、謎の女は面降ろしができる人物ですし」

「面降ろし?」と首を傾げる波木に、佐神は文代から聞いた話を手短に説明した。

「ずっと疑問だったんですよ。呪い代行サイトに呪いを依頼すると、赤い小袋と共に『これを呪いたい相手の持ち物に忍ばせてください』という手紙が届く。呪いのアイテムが届くだけで、相手の持ち物に忍ばせるのはセルフサービスなんです。それなのにどうして樹里亜さんの時だけ、謎の女が直接出向いて来たんだろうって」

「つまり」と波木。「誰かに依頼されたわけではなく、繭子さんが樹里亜に復讐するためにやって来た、ということっすね」

「その通りです。名推理でしょう」

「でもどうして今更?」波木が訊く。

「それに関してはほら」十和は波木に、ネットの匿名掲示板が表示されているパソコンの画面を見せた。「樹里亜さんが呪われる少し前から、この掲示板に彼女の勤務先の会社の情報がさらされていたんです。繭子さんはこれを見て、彼女を呪うことにしたんですよ、きっと」

「だが繭子は面降ろしが上手くできなかったんだろ。それに誘拐された人間なら、そんなことをする前にまず警察に駆け込むと思うが」

 佐神がそう言うと、途端に十和は言葉に詰まってしまった。彼女は着眼点はいいのだが、いつも肝心な点を見落としてしまうのだ。

「そこで登場するのが、これっす」波木は鼻の穴を膨らませながらスマートフォンを机の上に置いた。映し出されていたのは赤い巾着袋の写真だった。隣に置かれた千円札と比較すると、大きさはその四分の一くらい。刺繍も飾りもない簡素で小さい。

「これって、もしかして」と驚いた表情を浮かべる十和に向かって、波木は大きく頷いた。「おそらく呪い代行サイトから送られてくる、例の小袋っす」

「大発見じゃないですか、波木さん。どうやって見つけたんですか」

「樹里亜の父親に頼み込んで、遺品を検めさせてもらったんす。そしたら鞄の底板の下にこれが」

「これは樹里亜の両親の家にあったのか」佐神が訊く。「両親に何か影響は?」

「母親の方は体調を崩して入院したと聞きました。これが呪いの影響かどうかはわかんないっす。ただ父親の方はケロッとしていましたよ。親子仲があまり良くなかったみたいで、むしろ馬鹿な義娘むすめが死んでくれて有難いまで言っていました。話した限りだと樹里亜にも、樹里亜が追い込んで自殺させた同級生にも、罪悪感を抱いていない様子でした。だから呪いが効かなかったのかもしれないっすね」

「波木さんの体調は大丈夫なんですか」

「今のところは何の問題もありません。袋と髪と和紙を別々の場所で保管しているからじゃないっすかね」

「髪と和紙?」と佐神。

「袋の中に入っていたものっす。和紙と、それにくるまれた毛髪が数本。それと和紙には乾いた血痕らしきものが付着していました」波木が画面をスワイプさせ、次の写真を表示する。そこには髪の毛の束と、茶色く乾いた染みがついた正方形の和紙が写っていた。

 髪の毛や血液を使って相手を呪うという話は、オカルトに詳しくない佐神でも聞いたことがある。以前の佐神ならば、こんなくだらない物で人が殺せるか、と鼻で笑っていただろう。しかし昨日の、あの女の姿を見てしまった以上、信じざるを得なくなっていたのだ。

「一昨日、和紙を血液鑑定と指紋鑑定に回してきました」波木は満面の笑みでピースサインをつくってみせた。「これで、呪いを振りまいている人間が繭子さんかどうか、はっきりするってことっす」

「さすが藤倉署のエース。未来の捜査一課長」と囃し立てる十和に向かって、波木はピンと立てた人差し指を左右に振った。

「実はエースが見つけてきたのはこれだけじゃないっす」波木はそう言って懐から取り出した手帳を開いた。「アパートで死んでいた樹里亜と林、それから澪奈さんの知り合いの上司。この三人の死に方には共通点があったでしょう」

「鏡や窓、シンクなど自分の姿が映るものを塗りつぶしていたことと、死ぬ直前に自分の目を傷つけていたこと」佐神が答える。

「その二つの特徴を持った自殺事件が過去になかったかどうか、知り合いの刑事たちに聞いて回ったんす。そしたらなんと、二十件以上もの報告があがってきました。俺が聞いたのは新宿署と八王子署と杉並署の人間だけなのに、それだけあがって来るってことは、被害者はもっと大勢いますよ」

「その自殺はいつ頃から起こっているんだ?」

「それが、ここ二年ほどの話なんすよね。突然そういう奇妙な自殺遺体があがりはじめたものだから、警察の中には変なドラッグが流行っているんじゃないか、と疑っている人もいるみたいっす」

「二年?」佐神は眉間にしわを寄せた。繭子が誘拐されたのは十五年前で、人皮の面が盗まれたのはその少しあとだ。仮に呪いを行っている人物が繭子であろうとなかろうと、時期がずれすぎではないか。

「あの、ちょっとこれ見てもらってもいいですか」十和が机の上にタブレットを置いた。そこに表示されていたのは、世界中の人々の投稿を見ることができるSNSのコミュニケーションアプリだった。「ここの検索欄に呪い代行サイトのURLを打ち込んでみたんです。サイトについて何か呟いている人がいないかと思って。そしたら何件かヒットしたんですが、呟きの内容が少し引っかかるんですよね」

 佐神と波木は十和が差し出した画面に目を落とした。URLとともに言葉が添えられている。一番古い投稿は九年前のものだ。

『はじめは半信半疑だったけど、本当にばあちゃんに会えた。いっぱい泣きながら謝ったからか、胸のつっかえが取れたような気がする。ばあちゃん、散々迷惑かけたのに死に目に会えなくてごめんな』

『知り合いから教えてもらったけど、死んだ人に会えるとか胡散臭すぎ。しかも三十万とかふつうに詐欺でしょ』

『部屋に入ると息子がいました。今でも自分の見た光景が信じられません。でもたしかにあれは十年前に死んだはずの息子でした。悩み事を聞いてあげられなくてごめんね、駄目な母親でごめんね、と何度も息子の頭をなでながら謝りました。また会いに行きます』

『呪い代行してくれるサイト見つけた。一万円だしお願いしてみようかな』

『ガチで先輩死んだ。やばすぎ』

「これって明らかに面降ろしのことを言っていますよね」十和が言う。「しかも感謝を述べる呟きがほとんどで、呪いに関する話は一切出てきていません。呪いという言葉が出はじめたのはここ二年ほどの話です」

「つまり…、どういうことっすか?」

 佐神が答えた。「このサイトは、もともとは呪い代行サイトではなかった。このサイトの主は、人の心を癒すために面降ろしの力を使っていたが、なぜか二年前に突然、呪いをまき散らしはじめたということだ」

「んんん…なるほど。ますます、わかんなくなったっす。いったい何があったら呪い代行なんて、はじめようと思うんでしょう。しかも人を呪い殺すのは一万円で、面降ろしは三十万って。普通は逆じゃないっすか」

 三人の間に沈黙が流れたところで、十和が腕時計に目をやり、「あっ」と声をあげた。

「佐神さん、そろそろ出ないと新幹線に間に合いません」

「どっか行くんすか」

「鏡香さんがこの前出版した本に、人皮の面らしきものが出てくるんです。もしかしたら繭子さんの事件に何か関係があるかもしれないので、そのお面が見つかったという古民家の周辺で聞き込みをしようかと」

「ということは京都出張っすか、二人きりで?」波木は馬鹿みたいに口を開けたまま何度も目をパチパチさせた。「雪の舞う場末のさびれた旅館で、しっぽりと温泉につかったりするんすか。おそろいの浴衣を着て郷土料理に舌鼓を打ったりも?」

「怒りますよ」

 十和に冷ややかな目で睨まれた波木は、しぶしぶ立ちあがった。「帰ります…」鞄を胸に抱えて消沈した足取りで出口へと向かう。今朝、事務所に来た時とは正反対の態度で。彼は佐神の前を通り過ぎる時に、ちらりと一瞥をくれた。──また抜け駆け。波木の目は佐神にそう訴えていた。

 反論するのも馬鹿馬鹿しい。

「波木さん」十和が扉を開けようとした波木を引き止めた。

 波木は振り返って片方の眉をあげる。「なんすか?」

「矢代の妹の所在を調べてくれませんか。私の方でも調べてみたんですが、見つからなくて…。お願いします。波木さんしか頼れる人がいないんです」

「どうして矢代の妹なんか…」波木は困惑しきった顔で、今度はしっかりと佐神の目を見つめた。

 佐神は彼に向かって無言で頷いた。矢代を再び刑務所に送るには、妹の証言が必要なのだ。



 *



 京都の冬は寒い、と聞いていたがここまでとは。こちらの気温は東京よりも五度高いと聞いて油断していた。近くの山から吹き下ろす風は冷たく、十和の指先から瞬く間に体温を奪っていった。体感温度は東京よりもずっと低い。十和よりも寒さに弱い佐神は、最寄り駅で電車を降りた瞬間から肩をすぼめて黙り込んでしまった。彼は寒いと不機嫌になってしまうのだ。

 しかし十和の方はかなり上機嫌だった。佐神からもらった新品の靴で、軽やかな足取りで、緩やかにカーブした道路を歩いていた。左手には細い用水路と、薄っすらと雪の積もった田んぼが、右手の道路を挟んだ向こうには古風な日本家屋や、観光客向けのショップなどが並んでいた。ノスタルジックな田舎の風景と、観光客向けの賑やかな雰囲気が程よく混じり合った町並みだ。

 鏡香に送ってもらった地図を頼りに道を進む。十和は喫茶店の前に設置されていたアニメキャラクターの等身大パネルに向けて、スマートフォンのシャッターを切った。黒い髪に青い瞳の制服姿の少年が画像フォルダに保存される。

「それ、至るところにあるが何かのキャラクターか」佐神は撮影した写真を満足そうに眺める十和に訊いた。

 駐車場からここまで歩いてくる間に、もう何枚似たようなキャラクターのパネルを見たかわからない。驚いたことに、アニメとは一切関係なさそうなシャッターが下りた古びた漢方薬屋の店の前にもパネルが置いてあった。コンビニの前の通りの脇には、そのキャラクターが描かれたのぼりが立っており、冷たい風にはためいていた。この町がいかにアニメの恩恵を受けているのかがうかがえる。

「噓でしょ、佐神さん。『君ため』を知らないんですか。社会現象になるくらい流行ったアニメですよ」

「君ため?」

「君たちのための物語、略して君ため。田舎に住む中学生の男の子が友人たちと力を合わせて、地球を侵略してきた宇宙人と戦う話です。十数年以上前の作品でありながら、いまだに根強い人気を誇る名作アニメです。かくいう私も、もう十回は観ました」十和は観光名所を紹介する添乗員さながら、掌で町並みをさし示した。「そのアニメの舞台となった場所が、まさにここ、城咲町しろさきちょうなんです」

 そう、ファンにとってはまさに聖地巡礼なのだ。十和は佐神に向かって得意げに、先ほど撮った少年の写真を見せた。「君ためは絶対に観た方がいいですよ。佐神さんもきっとハマりますから」

 しかし十和の熱弁も、佐神にはいまひとつ響かなかったのか、彼は「ふうん」と気のない返事をした。

「興味がないなら聞かなきゃいいのに」十和が唇を尖らせる。

 それから十五分ほど歩いた先に、鏡香から教えられた古民家はあった。彼女の本の記述にある通り、周囲の家々に比べてかなり大きくて立派な家だった。どっしりとした古風なつくりの二階建ての一軒家だが、リノベーションが済んでいるので外壁は白く、屋根もきれいに張り替えられている。レトロな雰囲気とモダンな雰囲気がほどよく調和した佇まいだ。庭の隅にある小さな蔵だけが、唯一手つかずのまま古びていることを除けばとても魅力的な家のように思えた。

 山と田んぼの緑に囲まれたノスタルジックな町並みでありながら、交通の便はさほど悪くなく、近くには『君ため』の聖地もあるので訪れる観光客も多い。ここでカフェを開こうと思った悟志さんの気持ちはよくわかった。この地にやって来た時は、きっと希望に満ち溢れていたに違いない。まさかあんな惨劇に見舞われるとは夢にも思わずに。

 十和は家の前に立ち止まってスマートフォンで写真を撮った。日の光を浴びた白い外壁がまぶしく輝いていた。

 家の窓はすべて閉め切られており、人が住んでいる気配はない。妻を亡くした悟志さんがこの家を引っ越したのは五年ほど前のことだ。その前に住んでいたのは澄田という名の夫婦だったと鏡香から聞いた。夫妻が売った家を悟志さんが買い取り、リノベーションしたのだと。

 ということは人皮の面を盗んだのは澄田夫妻なのかもしれない。自分の子供に面降ろしの儀式をさせ、その後、不要になった面を蔵に放置した、というところだろうか。

「今は誰も住んでいないようですね」十和が佐神の方を振り返る。「聞き込み、どこから行きますか」

「そうだな。昔からやっているような、事情通の店員がいる古い店がいいだろう」佐神はコートの内ポケットから取り出した指輪を左手の薬指にはめながら頷いた。彼は聞き込みを行う時はきまって指輪をはめる。べつに元妻のことを思い出しているわけではない。指輪をはめている人間は、そうでない者に比べて他人からの信頼を得やすいのだ。


 それから二人は周辺の店や家を訪ねてまわりながら聞き込みを行った。時に怪訝な顔をされ、時に無知な観光客向けのぼったくり商品をつかまされそうになりながら。なかには明らかに澄田夫妻のことを知っている様子の人間も何人かいたが、なぜか彼らは一様に口を閉ざしていた。

 凄惨な死を遂げた悟志さんの妻に関して口を閉ざすのはともかく、なぜ澄田夫妻のことにまで黙り込んでしまうのかは、さっぱりわからない。

 日は陰りはじめても収穫はゼロだった。

 ひたひたと迫る夜気に顔をしかめる佐神の肩を、十和が叩いた。「佐神さん、あの店ってまだ行ってませんよね」

 佐神は彼女が目顔で示した方に目をやる。道路を挟んだ向こうにはシャッターが半分開いた状態の漢方薬屋と、その前で作業をしている八十代くらいの小柄な老婆の姿があった。例の古民家に行く際に、前を通り過ぎた記憶がある。その時はシャッターが完全に下りており、『君ため』のパネルがぽつんと置かれていたはずだ。

 二人は早足で道路を渡り老婆のもとに行った。

「すみません、ちょっとお話よろしいですか」

 佐神に声をかけられた老婆は怪訝そうに二人の顔を見比べた。杖をついているので足が悪いのかもしれない。「なんや、あんたら」

 佐神は彼女に自己紹介をして、例の古民家に住んでいた澄田夫妻について話を聞かせてほしいと頼んだ。

「探偵…」老婆は細い目をますます細めた。西日が彼女の顔の左半分をオレンジ色に照らしている。「なんで澄田さんとこを調べてるんや? また何かやらはったんか、あの人ら」

「また? 澄田夫妻は以前にも何か問題を起こしていたのでしょうか」

 佐神の質問に、老婆は逡巡するかのように眉間にしわを寄せた。手に持った杖がゆらゆら揺れている。話すべきかどうか考えているといった感じだった。

「安心してください。我々が得た情報は誰にも話しませんし、あなたから聞いたということも絶対に漏らしません」佐神は老婆に優しく笑いかけた。彼は仏頂面で威圧感のある顔立ちだが、笑顔は意外とさわやかなのだ。そのため、たいていの女性はその笑顔をみるとたちまち警戒心を緩めてしまう。「澄田さんについて、少しだけお話をうかがえませんか」

 老婆は通りにさっと視線を巡らせた。それから腰をかがめてシャッターをくぐり、二人にも入ってくるように合図をした。

 店内は不思議な香りが漂っていた。木や葉っぱや土のような自然の香り、それとハッカのようなつんとする香りが混ざり合った独特の匂いだった。

 老婆はカウンターに座っており、その後ろには大きな百味箪笥が置いている。店の右側には立派な木製の棚があったが、生薬の入ったガラス瓶がいくつか並んでいるだけで、ほとんど空っぽだった。もしかすると店をたたむつもりなのかもしれない。

 二人は老婆の向かいに腰かけた。記録係の十和はレコーダーのスイッチを入れ、メモ帳を開いた。

「で、澄田さんの何が聞きたいん?」

「澄田夫妻についてできるだけ詳しく聞かせてくださいませんか」

 佐神がそう言うと、老婆はため息をついて口を開いた。



 *



 あの親子が引っ越してきはったんは、今から十七、八年くらい前やったかな。奥さんの麗美さんと旦那さんの道孝さん、それと娘の秋穂ちゃんの三人で京都市の方からこっちに引っ越してきたんや。麗美さんはえらい上品な人で、いつもニコニコしながら挨拶してくれはったな。旦那の方は愛想もないし、ようわからん得体の知れん感じやったわ。祈祷師をやってるみたいな話を噂で聞いたけど、ほんまやろか。

 二人は四十代半ばくらいやったけど、七、八歳くらいの一人娘がおったわ。遅くにできた子供らしくて目に入れても痛くないような、たいそうな可愛がり方してはったわ。

 秋穂ちゃんは可愛い子やった。病名は忘れたけど、なんかの病気で歩かれへんらしくて、毎日車椅子に乗って麗美さんとこの辺を散歩してたわ。人懐っこい子で、私と目が合うと、くしゃくしゃの笑顔で「おばあちゃーん」って手を振ってくれてな。それがほんまに愛らしい。

 そういう明るい子やったから、ほかの子らとも仲が良かった。

 一番印象的やったんは、そうやなあ…。公園でのことやろか。ある日、小さい子がな、秋穂ちゃんの左手を指さして言うたんや。

「なんで秋穂ちゃんの左手は指が四本しかないん?」

 たしかに秋穂ちゃんは小指がなかった。麗美さんの話やと、幼い頃に車のドアで挟んで小指を飛ばしてしまったらしいんや。大人はなんにも言わんかったけど、子供はそういう気づかいがないやろ? だから無邪気に聞いてしまったんよ。

 そしたら秋穂ちゃんはにっこり笑って、こう言うた。

「私は神様と指切りげんまんしたんや。絶対病気を治してなって。だから小指がないんやで」

 それを聞いたときに私は思った。いや、そこにおったみんなも思ったわ。この子はなんてええ子なんやろうって。だからな、この辺りに住んどったもんはみんな秋穂ちゃんに骨抜きにされとったんやわ。

 ……でもなあ、秋穂ちゃんの病気が治ることはなかった。あの子の両親がけったいな民間療法にはまっとったせいや。この町に引っ越してきた理由は秋穂ちゃんの療養のためらしいね。この町は霊的エネルギーに満ちてるとか、夢のお告げがあったとか、なんやようわからんことを言うてはったわ。

 たぶん娘の病気を治したい一心やったんやろな。病院にも行かんと、おかしな占いやら祈祷やらにお金をつぎ込んどったみたいやわ。

 でもな、いくら治したい気持ちがあっても病院に行かんかったら、病気は悪化する。秋穂ちゃんも十歳になったあたりで、ころっと亡くなってもうたんや。かわいそうになあ、親があんなんやったばっかりに…。

 両親の落ち込みようは見てられへんかったわ。とくに麗美さんが。

 子供を喪った母親の泣き声言うんは、すさまじいもんでなあ。いや、あれは泣き声というより、獣の咆哮の方が近いかもしれん。朝も晩も関係なく一日中その叫び声が家の中から響いとった。

 それからどのくらい経った頃やろか。

 ある日、麗美さんがにこにこ笑いながら家から出てきたんよ。私はてっきり麗美さんが秋穂ちゃんの死から立ち直ったもんやと思って、挨拶をして「お出かけですか」って聞いたわ。そしたら麗美さんが、

「ええ。これから秋穂に会いに行くんです」

 この人ついに気が狂ってしもうたんかと思って、ゾッとしてもうてなあ…、私はなんも言えんかったわ。

 その日から麗美さんは頻繁に出かけるようになった。どこに行くかは知らんけど、一人で朝から車で出かけて夜まで帰ってこない。近所の人にも「秋穂に会いに行ってる」と話しとったみたいやわ。

 事件が起こったんは、それからしばらく経った頃やったと思う。

 澄田さんの家の中から、子供の声が聞こえるようになったんや。子供のはしゃいでるような、キャッキャ言う声とちがうで。泣き声やったり、猿轡をされてる状態で叫んでるみたいな、くぐもった叫び声や。

 監禁されてる…、そんな感じやった。

 ちょうどその頃は、兵庫県で小学生の女の子が誘拐されたっていうニュースが連日流れてた時でな。たしか…なんとか繭子ちゃん、言うたやろか。みんなはっきりとは口に出さんかったけど、犯人は麗美さんちゃうかって思ってたわ。警察に行くべきかどうか、みんながお互いの顔色をうかがいながら様子見してるような空気やった。

 というのも、みんなが通報をためらってたのには訳があったんや。

 うちの店の前に飾ってる漫画のパネルがあるやろ。その頃は、あの漫画がちょうど世間で流行りはじめた時期やった。うちみたいな寂れて廃れるのを待つだけの小さい町に、あの漫画のおかげで観光客がなだれ込んで来たんや。もしもそんな時期に、うちの町から誘拐犯が出ました、なんてことになってみい。ぜんぶパアや。

 だからみんな口を閉ざしとった。

 まあでも、その後に犯人が捕まったみたいやから良かったけど。

 ……あれは、ほんまの犯人なんやろか。誘拐された女の子は小指がなかったんやろ。それに年齢も秋穂ちゃんと同じくらいやし。あんまりにも共通点がありすぎちゃうやろか…。

 それにな、犯人が捕まったあとも澄田さんの家の中からは時々、子供の気配がしとったんよ。もしも捕まったあの男が犯人じゃなかったとしたら、繭子ちゃんが殺されてなかったとしたら。あの子は事件が解決したあともずっと家の中に閉じ込められとることになる。

 もしかしたら私らはとんでもないことを、してもうたんと違うか? 助けを求めてる小さい女の子の声を、自分たちの私利私欲のために、無視してもうたんと違うか? そう思ったら恐ろしゅうて、それ以来みんな何も言わんくなってもうたわ。

 澄田さんらはそれから何年かしたあとに引っ越していきはったから、子供がどうなったのかはわからん。


 私の話はこれで終わり。お兄ちゃんたち、話聞いてくれてありがとうね。

 ──え? なんでこんな話をあんたらに聞かせたんかって?

 実は私な、ガンでもう間もなく死んでしまうんよ。でも、こんな大きな秘密を抱えたまま死んでいくんは嫌やろ? だから死ぬ前に洗いざらいぜんぶ吐き出して、楽になりたかったんやわ。

 ああ、すっきりした。もう思い残すことはないわ。



 *



 太陽は山の向こうに沈み、夕方と夜の間の、青紫色の空だけが残された。老婆の店を出た二人は何とも言えない複雑な表情で、駅へと続く道を歩いていた。彼女の話した内容があまりにも衝撃的だったせいなのか、それとも老婆の身勝手な告白に閉口してしまったためなのかは、わからない。

 佐神は大きくため息をついた。白い息が溶けて消えた。

「繭子さんを誘拐したのは、澄田麗美ということでしょうか」十和が訊く。「繭子さんのことを、娘の秋穂ちゃんとして傍に置いていくために?」

「その可能性が出てきたな」

 麗美が足しげく通っていたのは桜川家だろう。そこで麗美は繭子に面降ろしをしてもらっていた。「秋穂に会いに行く」と言っていたのは、そのためだ。麗美は桜川家で秋穂と会っていたのだ。

 しかし不幸なことに、麗美の心の傷は面降ろしの力では癒すことができなかった。むしろより一層、秋穂への執着を強める形になってしまった。繭子に会うたびに麗美の思いは強まっていき、ある時、彼女はこう考えた。

 ──繭子を誘拐すれば、また愛する秋穂と一緒に暮らすことができる。

 そしてついに彼女は繭子を誘拐するに至った…、というところだろうか。

「繭子さんの小指を切り落としたのは、より秋穂ちゃんの姿に近づけるためか。誘拐事件の犯人だとして逮捕された土井滋は、もしかすると誘拐の現場を目撃したのかもしれないな。彼は麗美が捨てた小指を持ち帰り、ホルマリンに漬けた。猟奇殺人犯として有名になるために」

「でも繭子さんには面降ろしの力がなかったんでしょう。誘拐したところで、秋穂さんの姿にはなれないのでは?」

「いや、麗美の夫は祈祷師だったそうじゃないか。もしも道孝に口寄せを行う能力があれば、繭子でも姿を降ろすことができる」

「ということは、繭子さんは今も秋穂ちゃんとして生かされている可能性がありますね」十和は慌ててポケットからスマートフォンを取り出した。「波木さんに事情を話して、澄田夫妻の居場所を探ってもらいます」

 電話をかける十和の姿を横目に見ながら、佐神はいまひとつ腑に落ちない様子で眉間にしわを寄せていた。

 なぜ澄田夫妻は人皮の面を盗んだのか。それと、なぜ呪いを振りまく必要があるのか。この二つの疑問はまだ解けていない。



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