「なんですか、これ」

 日記を読み終えた十和は眉間にしわを寄せた。最初の方の記述は、いい年をした男が若い女性の部屋を覗いていたことに対する嫌悪感があった。しかし後半になるとそれ以上に、記述内容の異様さに寒気がした。とてもまともな人間が書いた文章ではない。

「十和ちゃん、これを読んで何か疑問に思うことはなかった?」鏡香が尋ねる。

「部屋に入ってきた女は誰なのか、ですか?」

 十和の言葉のあとに、佐神がつづけて言った。「六車樹里亜はどこに行ったのか」

「えっ、ずっといるじゃないっすか。林が監視していたんだから」

「いや、九月の記述と十一月の記述を読みくらべてみろ」佐神は机の上にノートを開いた。破り取られる直前のページと、破り取られた直後のページだ。「九月の記述ではしつこいくらいに樹里亜、樹里亜と言っていたのに、十一月三日以降は樹里亜の名は一度も出ていない。ただ“女”と書いてあるだけだ」

「つまり…」と十和。「”女“という記述は樹里亜さんではなく、九月二十四日に家に入ってきた謎の女を指している、ということですか。樹里亜さんと謎の女が入れ替わったと?」

 佐神と鏡香が同時に頷いた。

「ありえないっすよ。あの部屋で死んでいたのは、たしかに六車樹里亜でした。遺体の確認のときも母親が間違いなく娘だって言っていました。それに母親が定期的に彼女の部屋を訪れていましたから、入れ替わるなんて不可能っす」

「そこが謎なのよ」と鏡香。「あの部屋で亡くなったのは、たしかに樹里亜さんだった。でも林さんには樹里亜さんの姿が、別な女の姿に見えていた。しかもその女はすでに死んでいるうえに、林さんとは顔見知りの関係だった。不思議よね」

 これは樹里亜が部屋に引きこもっていたという事実と、九月二十四日の『なぜあの女が樹里亜の部屋に?』という記述、そして、十二月二十六日の『“また”死んだ』という記述からの推理だろう。

 林の日記の様子が九月二十四日以降に乱れはじめたのは、すでに死んだはずの女が樹里亜の部屋に現れ、樹里亜として生活していたから、ということか。

「めちゃくちゃオカルトの臭いがするんすけど」

「だから私が追いかけているんじゃない。これってものすごい大ネタになりそうな予感が──」そこで鏡香は口をつぐんだ。

 事務所の中に控えめなノックの音が響いたからだ。

 十和は「いま出ます」と慌ててソファから立ち上がり扉を開けた。

 もこもこのクリーム色のダウンジャケットに黒のロングスカート姿の華奢な女が、寒そうに身体をさすりながら立っていた。女は黒のキャップに大きなサングラス、さらにはマスクまで着用しているため顔がまったくわからない。

「こちらは佐神探偵事務所さんでよろしいでしょうか」女は小さいけれどよく通る声で訊いた。

「は、はい。こちら、佐神探偵事務所で間違いありません。中へどうぞ」十和はどぎまぎしながら彼女を暖かい事務所の中へ案内した。声が少し裏返ってしまったが、仕方がない。依頼人がやって来るのは実に数か月ぶりのことなのだから。

 事務所に入った女はソファにいる三人に会釈した。

「実はお願いしたいことがありまして…」

 女がキャップを脱ぐと、キャップの中に仕舞われていたロングヘアが波打ちながら肩に落ちた。光を反射する鮮やかな金髪は、ケアにそうとうお金がかかっていることをうかがわせる。上品なシャンプーの香りが周囲に漂った。

 サングラスとマスクの下から現れたのは、黒目がちの大きな瞳と高い鼻、形のいい唇。小動物のような実に可愛らしい顔だ。

「あら」鏡香が目を瞬かせながら口元に手をあてた。

 十和と波木はあんぐりと口を開けて固まっていた。

「さっ…」波木が震える手で女を指さす。「桜川澪奈っ!」



 *



 事務所は興奮の真っただ中にあった。その台風の中心にいるのはもちろん、今をときめく若手女優、桜川澪奈である。十和と波木は感激にうるんだ目で何度も目くばせを送り合い、鏡香はオフィスチェアに座り、美術品でも鑑賞しているかのような態度で彼女を見つめていた。芸能人に疎い佐神だけはその狂乱の外側にいた。

 澪奈は注目を浴びることに慣れているのか、どこ吹く風で温かいコーヒーをすすっている。

「ええっと、桜川澪奈さん…」佐神は向かいのソファに座る澪奈に言った。「芸能人の方ですか?」

 佐神のうしろに立っていた波木が口を挟んできた。「ちょ、ちょっと待ってください。佐神さんもしかして、この方がどなたかご存じないんすか。三年前、すい星のごとく現れた期待の超実力派女優の桜川澪奈さんを?」

 さらに彼の隣に立つ十和がつづけて言う。「三年連続好感度ナンバーワン女優、演技が上手いと思う若手女優ナンバーワン、SNSフォロワー数百万人の桜川澪奈さんを知らないんですか」

 佐神は首を振った。何度聞かれたって知らないものは知らない。

 十和と波木はあっけにとられた様子で見つめ合い、それから声をそろえて言った。「これだからオジサンは」

「おもしろい方たちなんですね。探偵事務所って、もっと固い感じだと思っていました」澪奈がころころと笑った。たぶんこういう飾らないところも、人気の理由の一つなのだろう。

「失礼しました。彼らは少し興奮しているようなので、お気になさらず。桜川さん、本日はどういった依頼で来られたのですか」

「実は…」澪奈は佐神の背後に立っている十和と波木を見上げた。「お二人は座らないんですか」

 二人は慌てて両手を振った。あの桜川澪奈を前にして椅子に座るなんてとんでもない、というジェスチャーだ。いきなり芸能人に話しかけられて驚いたのか、二人とも声を出すことを忘れていた。

「置物だと思ってください」と佐神。「それで、依頼というのは?」

「人を探してほしいんです」澪奈は鞄から取りだした一枚の写真を机に置いた。そこに写っていたのは黒いロングヘアの十歳くらいの少女だった。白いワンピースを着た少女は縁側に座り、食べかけのスイカを片手にカメラに向かってピースをしている。「私と同い年の従姉の、桜川繭子ちゃんです。この子を見つけてくれませんか」

「桜川繭子?」鏡香が口を挟んだ。「間違っていたらごめんなさい。その子ってたしか誘拐事件の…」

「兵庫小4女児誘拐殺人事件の被害者です」

「なんですか、その事件?」という十和の質問に答えたのは佐神だった。

「今から十五年前に兵庫県で起きた誘拐事件だ」

 その事件は兵庫県の山のふもとにある田舎町で起きた。被害者は当時十歳だった桜川繭子ちゃん。午後四時頃、小学校の校門を一人でくぐる後ろ姿を担任教師に目撃されたのを最後に忽然と姿を消した。事件が発覚したのは午後六時半過ぎ。家に帰ってこない繭子を心配した祖母が警察に通報したことによる。

 その後、警察と町内会の人々によって捜索が行われたが、彼女はおろか目撃者も見つからなかった。不幸なことにその日は土砂降りの雨が降っており、警察犬の鼻が利かなかったのだ。

 警察は怨恨や営利目的の線から捜査を進めたが、容疑者を絞り込むことすらできなかった。なぜなら桜川家には特殊な事情があったからだ。

『桜川家で行われていた異常な宗教』

 そんな文字が週刊誌上に踊ったのは事件が起こってから十日ほど経った頃だった。その週刊誌によると、桜川家は繭子を教祖とした新興宗教で信者から金を巻き上げていたというのだ。佐神は事件の捜査に当たっていないので、その真偽はわからない。しかし桜川家に足しげく通い、繭子を特別視していた人間がたくさんいたというのは事実だった。そのため容疑者となる人物があまりにも多く、捜査が混乱したと聞いている。

 そういう事情もあり、事件はネットでもテレビでも連日報道され注目の的となった。過熱しすぎた報道が原因で自殺を図った親族もいたほどだった。さいわい未遂で終わったが、事件がどれだけ親族に影響を与えたのかがうかがえる。

 一か月経ったあとも犯人は捕まらず、事件はこのまま迷宮入りするかに思われた。しかし事件は急展開を迎える。

 ネットの掲示板に『桜川繭子を殺したのは俺だ。死体はバラバラにして山に捨てた。戦利品として左手の小指を持ち帰った。身体の方は今頃、獣たちに食い荒らされ骨になっているだろう』という書き込みをした男が捕まったのだ。

 警察はその男──土井滋の自宅を捜索したところ、ホルマリンに漬かった子供の小指が見つかった。DNA鑑定の結果、繭子のものと断定された。

 警察は土井を誘拐事件の犯人として再逮捕したのだが、彼の証言には怪しいところばかりだった。

 土井は繭子を車で誘拐したと証言したが、彼は車の免許を持っていなかった。車をどこで調達し、どこで処分したのかという質問に、彼は「その辺にあった車を盗んだ。車は海に捨てた」と答えた。しかし彼の住む地域で車の盗難届は出されておらず、海に捨てたという車も見つからなかった。

 殺し方も首を絞めて殺しただの、包丁で刺して殺しただの、尋問のたびに証言が二転三転する。極めつけは、繭子の遺体がどこを探しても見つからなかったことだ。延べ千人以上が捜索に加わったにも関わらず、骨の一つも発見されなかった。

 それに土井は以前に、虚偽の爆破予告や、別の殺人事件の被害者遺族への脅迫での逮捕歴があった。マスコミお抱えの精神科医によると、土井滋という男は異常に肥大化した承認欲求の化け物、とのことだった。

 そのため警察も世間も土井が注目を浴びるために嘘の証言をしているのではと疑った。しかし真犯人や共犯者につながる証拠は一切出てこなかったのだ。彼が繭子の小指を持っていた以上、犯行に関わったことは間違いない。そういうわけで警察は、誘拐殺人及び死体遺棄等の容疑で土井を書類送検した。

 その後まもなくして、土井は獄中で自殺してしまったので真相は藪の中である。


「つまり」佐神は言った。「繭子さんの遺体を探してほしい、ということでしょうか」

「いいえ、遺体ではなく繭子ちゃん本人を探してほしいんです。繭子ちゃんはきっと生きています」

「しかしあの事件の犯人は繭子さんを殺したと証言していたでしょう」

「あの男が本当に犯人だとお思いですか」澪奈の大きな目が佐神の目をとらえた。その瞳に少しも揺らぎはなかった。「私は知り合いの警察官の方からこの事務所を紹介していただきました。優秀な元捜査一課の刑事がやっている探偵事務所があると。佐神さんの目から見て、あの事件の犯人は土井滋だったと思いますか」

 佐神は言葉に詰まった。管轄外の事件なので捜査資料を読んだことはない。けれどニュースで見聞きした内容だけでも、土井が犯人である可能性は低いように思われた。しかし仮に土井が犯人でなかったとしても、十五年も前に失踪した少女が今も生きている、なんてことが有り得るだろうか。

「逆に聞きたいんだけど、澪奈さんはどうして繭子さんが生きていると思うのかしら?」

「呪い代行サイトって聞いたことありませんか」澪奈はタブレット端末を机に置いた。「このサイトなんですけど」

 四人の視線が画面に集まる。そこに映っていたのは、黒い背景に赤い文字で“呪い代行サイト”と書かれたサイトだった。二〇一〇年代頃を思わせる簡素なつくりだ。タイトルの下には藁人形の画像と、呪いたい相手の名前や依頼人の個人情報などを書き込むためのメールフォームがあるばかりだった。

 呪いの方法などの説明は書いておらず、一番下の欄に料金が書いてある。金額は一回につき一万円とあった。霊感商法の相場に比べると破格の安さにも思える。驚いたのは、呪いが効かなかった場合は返金、と書かれていたことだった。よほど自信があるのか、それとも詐欺だと訴えられるリスクを回避するためなのか。

「このサイトに呪いたい相手の名前を書いてお金を振り込むと、その人は本当に亡くなるそうです」

「はあ…」佐神は頭を掻いた。自分はいったい何の話を聞かされているんだ?

「私のマネージャーの知り合いの人が、部長の名前を書き込んだそうなんです。すると数日後に赤い小袋が届きました。神社でもらう御守りより一回り小さいくらいの大きさです。一緒に添えられていた手紙には、『つらかったでしょう、もう大丈夫ですよ。これを呪いたい相手がよく持ち歩いているものに忍ばせてください』と書いてあったそうです」

「忍ばせたわけね?」と鏡香。

「そしたらその人の様子が少しずつおかしくなって、三か月後くらいに本当に死んだと言っていました」

「どんな死に方だったの?」死んだ目の佐神とは対照的に、鏡香はたいそう興味を持ったようだった。「自殺? 病死? 事故死? まさか他殺?」

「会社を辞めて一か月くらい家に引きこもったあと、自分の眼球をボールペンで突き刺して亡くなったと聞きました」

「えっ、それって…」十和が素っ頓狂な声を上げた。

 澪奈以外の全員の視線が、鏡香の膝の上にあるノートに吸い寄せられた。あのアパートで死んでいた二人の状況とそっくりではないか。徐々に様子がおかしくなり、自宅に引きこもったあと自殺を遂げる。じかも残酷な方法で。

 四人の視線に気がついた澪奈が首を傾げた。「なんですか、そのノート?」

「実はね…」鏡香は今までの経緯を手短に説明し、それから彼女に訊いた。「ねえ、その部長がどんなふうにおかしくなったのか、聞いてないかしら?」

「佐藤がいつも俺を見ていると、周囲に漏らしていたそうです」

 澪奈の話によると、その部長はある日を境に「佐藤が俺を常に監視している」と言いはじめたらしい。周囲は彼の言動を真に受けず、仕事上のストレスによるものだと解釈した。なぜなら佐藤という男は数年前に、部長からのパワハラによって会社を退職しその後、自宅で首を吊って死んでいたからである。

 しかし部長の様子は次第におかしくなっていった。目の下には真っ黒な隈ができ、精神状態が不安定なのは誰の目にも明らかだった。佐藤の監視を恐れてか、会社いるときでも常に血走った目で周囲を見回している。いつ爆発してもおかしくない状態だった。

 そしてついにある日、部長が取引先の相手を殴るという事件が起こった。さいわいすぐに周囲の人間が取り押さえたので、相手が大きなけがを負うことは免れた。

「佐藤、いい加減にしろっ。いつもいつも俺を監視しやがって!」

 部下に羽交い絞めにされている間、部長は殴った相手を指さしながら、そう叫び続けていた。

 もちろん殴った相手は佐藤ではない。佐藤とは似ても似つかないし、そもそも女性だ。それなのに部長は彼女のことを佐藤だと言い張っていたのだ。

 その事件のあと、部長は会社を辞めた。そして一か月後に彼は自殺した。

 遺体を発見した人の話によると、家の中は壮絶だったらしい。

 立派な一戸建ての家の中にはゴミが山のように積んであった。奥さんと子供はとっくに家を出たらしく、部長はゴミの山の中で一人寂しく干からびて死んでいた。洞穴のようにぽっかりと空いた彼の眼窩には、ボールペンが突き刺さっていた。死因は頸動脈をかき切ったことによる失血死だった。奇妙なことに家の中にある鏡はすべて取り外され、窓やキッチンシンクや蛇口などは赤い塗料で塗りつぶされていたという。

「遺書には『街中に佐藤がいる。どこもかしこも佐藤ばかり。みんな俺を見ている。俺も佐藤になった』と書いてあったと聞きました」澪奈が言った。

「俺も佐藤になった、というのはどういう意味なのかしら?」

「部長さんが亡くなる直前に言っていたそうです。街で行きかう人の顔や家族の顔、鏡に映る自分の顔すらも、佐藤に見えるって」

「ああ、それでシンクや窓を塗りつぶしていたわけか」十和は得心がいったような声を上げた。「自分の顔…、というより佐藤さんの顔が映らないようにしていたんですね。となると林さんの日記の謎も解けましたね」

「おそらく呪われたのは六車樹里亜さんね。隣人の林さんは彼女の部屋に出入りして監視し続けるうちに、呪いの影響を受けてしまった…、ってところかしら」

「となると、樹里亜の部屋に入ってきたのは、彼女を呪った相手ってことっすか?」

「ちょっと待った」佐神が片手を上げた。話があらぬ方向へと脱線しすぎているせいで、質問の答えがまだ帰ってきていないことに誰も気がついていない。「桜川さん、もう一度お聞きしますが、あなたはなぜ繭子さんが生きていると思うのですか」

「この呪いの方法です。こんな呪い方ができるのは繭子ちゃんしかいません」

 佐神の目がぐるりと天井を仰いだ。

「繭子ちゃんの事件のときに、桜川家がおかしな宗教をしていたという報道があったでしょう。でも違うんです。桜川家はたしかに、人に頼まれて降霊術を行っていました。でもあれは昔からの地域に根付いている拝み屋さんとか、東北のイタコみたいな、伝統あるものなんです。怪しい宗教なんかじゃありません」

「どういう降霊術をしていたの?」と鏡香。

「いや、降霊というのも少し違いますね。普通の霊媒師は自分の身体に、亡くなった人の魂を降ろすでしょう。でも繭子ちゃんは、相手が罪悪感を抱いている人の姿を降ろすことができたんです。相手が生きていようがいまいが関係なく」

 十和は先生に質問する生徒のように右手を挙げて訊いた。「それって、繭子さんは相手が罪悪感を抱いている人の姿そっくりに化けることができる、ということですか」化けるという言葉が適切かどうかはわかりませんが、と彼女はつけ加えた。

「その通りです」澪奈は頷いた。

「つまり」佐神は小さくため息をついた。彼はオカルト関係の話を聞くと頭痛がしてくるのだ。「部長にだけ周りの人間の顔が佐藤に見えていたのは、繭子さんに呪われたから、ということでしょうか」

「はい。こんなことができるのは繭子ちゃんしかいません。でも好きで呪っているわけではないと思います。心の優しい子だったし、あの能力は本来、残された遺族や後悔を抱えて生きている人々の苦しみを和らげるためのものでしたから。きっとお金儲けのために彼女の力が悪用されているんだと思います」

 澪奈は佐神の目をまっすぐに見つめながら言葉をつづけた。彼女の目は真剣そのものだった。

「繭子ちゃんは私の大切な友達でした。小学生の頃、いじめられていた私と唯一仲良くしてくれたのが彼女だったんです。だからもしも繭子ちゃんが生きていてつらい思いをしているのなら、今度は私が助けてあげたい。どうかお願いします、佐神さん。繭子ちゃんを見つけてくれませんか」

 佐神は困ったように頭を掻いた。澪奈の願いが切実であるということは、目を見ればわかる。しかしどれだけ頭を下げられようが、人間には出来ることと出来ないことがあるのだ。十五年も前の誘拐事件の被害者を見つけ出すことは、砂漠の砂の中から一粒の砂金を見つけ出すことに等しい。

「桜川さん、申し訳ありませんが──」

「引き受けましょう」十和が佐神の言葉をさえぎって言った。「必ず我々が繭子さんを探し出してみせます。というより、このサイトの主を見つけるのなんて、ほんの三分もあれば充分ですよ」

「えっ、どういうことでしょうか?」

「ハッキングして、このサイトの主の個人情報を覗き見ちゃえばいいんです」十和は自分のノートパソコンを手に、佐神の隣に座った。「どこに住んでいる、何という名前の人なのか一発でわかります」目にもとまらぬ速さでキーボードを打ち鳴らし、パソコンに次々と命令を繰り出していく。十六歳の頃に警視庁のデータベースに侵入し、保護観察処分を受けた彼女にとっては、そのくらいは朝飯前なのだ。

 波木は十和に背を向けて窓の外を眺めることで、目の前の犯罪に気がついていないふりをした。

「おい」佐神は慌てて十和の手首を掴んだ。不服そうな表情を浮かべる彼女と目が合った。せっかくいいところなのに邪魔しないで、と彼女の顔には書いてあった。「この依頼は断る。余計なことはしなくていい」

「どうしてですか。このサイトから繭子さんの居場所を特定できるかもしれないのに」

 佐神は澪奈に聞こえないように小声で言った。「もし別人だったらどうする。桜川繭子が失踪したのは十五年も前だ。そんな人間を探し出すなんて不可能なんだよ」

「やれるだけやってみれば良いじゃないですか」十和はすでに佐神の顔から視線をそらし、パソコンの画面に集中している。「それともせっかく来た依頼をふいにする気ですか、私の今月分の給料すらも払えていないのに?」

 佐神は言葉につまった。給料が未払いなのは確かだが、それとこれとは話が違う。

 十和の手が止まった。

「あれ?」十和は怪訝そうに首をかしげて画面を見つめた。

「どうしました?」澪奈が訊いた。

「わかんない、フリーズした…」十和が画面を見つめたまま答える。澪奈相手にため口で話しているところを見るに、かなり焦っているのだろう。「おかしいな…」

 画面上には黒い背景に白や黄色の英数字がずらずらと並んでいる。佐神にはこれらが何を意味するのかさっぱり分からない。けれどこれが不測の事態であることだけは彼にもわかった。いつもならば十和の命令に素直に従うコンピューターが、今日に限ってはうんともすんとも言わない。どんなコマンドを打ち込んでも画面がフリーズしたまま動かないのだ。

「ハッキングしていることが相手にばれたんじゃないの」と鏡香。

「まさか。こんな単純で脆弱なサイトを運営している人に、気づかれるはずがありません。機械音痴の人がよく言うセリフを借りれば、何もしていないのにフリーズした、という状態です」十和は左手で苛立たしげに自分の唇をいじりながらキーボードを叩いている。

 その時、十和が「あっ」と声を上げた。

 画面の左上に直径三センチくらいの真っ黒い染みが浮かびあがった。それは墨汁を垂らすかのように、じわりじわりと右下へと広がっていく。画面の大部分が真っ黒に塗りつぶされてしまった。

「なんだ、これ」佐神が言う。

「液晶漏れです。でもこれって画面に物理的な衝撃が加わることで起こる現象なので、何もしていない状態でおこるなんて──」十和は言葉を切って天井を見あげた。

 すべての蛍光灯が一斉に明滅をはじめたのだ。しかも十和の頭上にぶら下がっている蛍光灯だけは、まるで何者かに力を加えられているかのように左右に振れている。揺れが次第に大きくなる。明滅もいっそう激しくなる。

 誰も言葉を発することができなかった。全員が青白い顔で、出鱈目に揺れ動く蛍光灯を見つめていた。いま自分たちの目の前で起きている現象が理解できなかったのだ。事務所内には、蛍光灯をぶら下げるチェーンが擦れあう音だけが響いている。

 次の瞬間、蛍光灯が砕け散った。佐神と十和の頭上に破片が降りそそぐ。

 佐神はとっさに自分の頭をかばった。細かな破片が手の甲にぶつかり、鋭い痛みが走った。床に落ちたガラス片が甲高い悲鳴を上げながら砕け散る。

 佐神はおそるおそる顔をあげた。蛍光灯の明滅はいつの間にか止まっていた。

 自分の身体を見下ろして異変がないか確認する。手の甲にできた細かな傷から血がにじんでいた。さいわいなことに大きな怪我はしていないようだ。自分の足元に、五センチほどの大きさのガラス片が落ちていることに気がつき、ぞっと鳥肌が立った。もしもこれが身体に当たっていれば、ただでは済まなかっただろう。

「十和ちゃん、大丈夫っすか。怪我してないっすか。佐神さんも」波木がうしろから心配そうに声をかけてきた。

「問題ない」佐神は右隣に顔を向け、それから眉をひそめた。十和の様子がおかしい。「おい、どうした。大丈夫か」

 十和は正面を見つめたまま固まっていた。表情はなく、右の鼻の穴からは鼻血が出ていた。口元をつたい落ちた血が胸元を汚しているのに一向にかまう様子がない。佐神に肩をゆすられても身じろぎひとつしなかった。

「十和さん?」澪奈の呼びかけにも答えない。

 十和の黒目がぐるりと一周したかと思うと、彼女は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。



 *



 佐神はスマートフォンのマップ上に立てた赤いピンの位置を確認しながら、家々の立ち並ぶ通りを歩いていた。ピンの説明欄には桜川文代の家と書いてある。文代は繭子の祖母だ。そして、繭子の両親と祖父はすでに亡くなっているので、誘拐事件の関係者の中で唯一存命の人物でもある。

 結局、繭子の捜索依頼を引き受けることになった佐神と十和は、彼女の家に向かっていた。事件当時、繭子とその両親と文代は兵庫県の田舎にある立派な一軒家に住んでいた。しかし現在は埼玉県の小さな家に住んでいる。年齢のせいで足腰が悪くなり、数年前から認知症の症状が見られはじめたので娘夫婦の家の近所に越してきたらしい。現在は週三回、ホームヘルパーを利用しているとのことだった。

 住宅街を抜けて商店街のアーケードを歩いた。まだ年が明けてから三日しか経っていないということもあり、人の姿はまばらだ。けれどそれを抜きにしても、その商店街は活気がなかった。営業している店の数よりもシャッターの下りた空き家の方が多い。

 郊外というより下町だな、と佐神は思った。それもかなり衰退した。

 アーケードを抜けた二人の頬を冷たい風が殴った。

「何かあったのか」佐神は十和に訊いた。

「何かって、何がですか」

「何かは何かだ」

 佐神の言葉を聞いた十和はすこし考えたあと、「ああ」と思い出したようにつぶやいた。「この前のことですか」両掌で頬をさすりながら言う。「平気ですよ。ちょっと鼻血が出て失神しちゃっただけですから。体調はまったく問題ありません」

「ふうん」佐神の片方の眉がぴくりと上がった。

 十和はなにか後ろめたいことがある時、自分の顔を触る癖があった。体調のことで嘘をついているのか? いや、十和の様子は澪奈が来る前からおかしかった。

「矢代が来たのか」

 十和はぎょっとした表情を浮かべて足をとめた。質問には答えずに、ただ佐神の目だけを凝視している。青ざめた彼女の顔にははっきりとこう書かれていた──どうしてわかったの?

 一台のトラックが大きな音を轟かせながら二人の脇を通り過ぎて行った。排気ガスの臭いが鼻をつく。風に巻き上げられた十和の髪が宙で踊った。

「まさか」十和は無理やり作った笑顔を佐神に向けた。彼女の指は、寒さで赤くなった鼻の頭を触っていた。「今更あの男が私の所に来るはずありませんよ。きっとどこかで私のことなんて忘れて、のうのうと生きています。あれはそういう男です」

 それは違う。何年経とうが、あの男は決して十和を忘れたりはしない。蛇のように執念深く十和をつけ狙い、彼女の細い首に食いつく機会をうかがっている。矢代を突き動かしているのは、佐神への復讐心だ。それが消えない限り、あの男が十和から手を引くことはない。たとえまた刑務所に逆戻りすることになろうとも。矢代新とはそういう男なのだ。

「行きましょう。約束の時間に遅れちゃいますよ」十和は佐神に背を向けて足早に歩きはじめた。

「十和」佐神はその背中に呼び掛けた。「何かあったらすぐに俺に言え」

 十和が肩越しに後ろを振り返ると、左手をあげた。わかったという意味だろうか。それとも、もうこの話は終わりという意味だろうか。太陽の光が、左手首に巻いた時計の文字盤に反射して、きらりと佐神の目を刺した。


 文代の家は小さな木造住宅が立ち並ぶ一角にあった。家同士の隙間はほとんどなく、狭い家が肩を寄せ合うようにして建っている。いわゆる住宅密集地域と呼ばれる場所だ。通路は狭く、車が一台通るのがやっとだ。どの家も木造で、玄関の前には金のなる木やオリーブなどの鉢植えや、自転車などが所狭しと並んでいる。火事が起きたらひとたまりもなさそうだ。

 佐神は、桜川の表札が掲げてある家のインターホンを鳴らした。家の中からパタパタと小走りの足音が聞こえてきた。ややあって玄関の引き戸が開いた。

 現れたのは、眼鏡をかけた長身の男だった。年齢は十和よりもいくらか年上で、柔らかそうな髪を真ん中で分けている。文代が週に数回頼んでいるというホームヘルパーだろう。

「はじめまして。私、佐神探偵事務所から来ました、佐神と申します」佐神はポケットから取り出した名刺を男に渡した。「本日は文代さんにお話を伺いたくて参ったのですが、文代さんはご在宅でしょうか」

「さがみ、さん…。変わった名前ですね」男は佐神の名刺をまじまじと眺めたあと顔をあげた。黙っていると能面のような冷たい印象を受けるが、笑うと愛嬌がある。「澪奈さんから話は聞いています。寒かったでしょう。さ、入ってください」小山内は関西訛りでそう言うと、二人を家の中へ案内した。

 文代は居間に置かれたL字型のソファでラジオを聴いていた。

 年齢は八十歳くらいだろうか。短く切りそろえた髪は一本残らず真っ白になっている。華奢な骨格と高い鼻は、どことなく澪奈に似ている。若い頃はかなりの美人だったに違いない。

 机の上にはお茶っ葉にポット、お菓子、新聞紙、老眼鏡、手芸の雑誌、編みかけのぬいぐるみなどが雑多に置いてあった。この様子から察するに、彼女は一日のほとんどをこの場所で過ごしているのだろう。

 この世代の人にはめずらしく、テレビは置かれていない。台所へ続く、すりガラスの引き戸は閉め切られていた。

 小山内が彼女の隣に座り、やや大きな声で言った。「文代さん、東京の方から探偵さんがいらっしゃいましたよ。今朝話したでしょ。繭子ちゃんの話を聞きたがってる人がおるって」

「ああ、さっき言うてた探偵さん」文代は二人にお辞儀をした。「座ったままですいませんね。足腰が悪いもんで。どうぞかけてください」

 佐神と十和は挨拶を返しソファに腰かけた。茶色い革張りのソファは狭い部屋の大部分を占めていた。部屋広さとソファのサイズが合っていないのは、前に住んでいた家で使っていたものだからだろうか。

 小山内が二人の前に温かいお茶を置いてくれた。

「僕は二階の部屋にいるんで、用があったら呼んでください」小山内はそう言って部屋をあとにした。

 十和はメモ帳を開き、ICレコーダーをセットした。調査で他人から話を聞くときは基本的に佐神が聞き役で、十和は記録係を務める。

「繭子のことを調べてるって聞いたけど、なんで今頃になって?」

「実は澪奈さんから、繭子さんを探してほしいと依頼を受けまして」佐神は答えた。「事件がおきた当時のことを聞かせていただいてもかまいませんか」

「澪奈ちゃんは繭子と仲が良かったからなあ。まだ諦められへんのやろうな」文代はすこし気の毒そうな表情を浮かべた。「私の話でええんなら、なんぼでも話すけど。ずっと昔のことやから、正確に話せるかどうか」

「思い出せる限りでかまいません。繭子さんが失踪した日のことを教えてください」

「そうやなあ…。あの日はたしか朝からえらい雨が降ってたんや。あの子が学校行く前にな、母親があの子に『今日は外で遊ばんと、はよ帰ってきいや』って言うとったんをよう覚えてるわ。最後に目撃されたのは、あの子が一人で校門をくぐる姿やろ。いつもやったら澪奈ちゃんと寄り道しながら帰っとったんやけど…。あの日は母親の言いつけを守って、寄り道せんと帰ったんやろな」

 文代は目を閉じて眉間にしわを寄せた。母親のその一言がなければ孫があんな目に遭うことはなかったかもしれない。が、だからと言って母親を責めることもできない。そんな複雑な感情が行動に現れているように思えた。

「繭子が学校に行ったあとは、母親とその旦那は仕事に行った。あの雨じゃあ農作業も出来んから、爺さんは朝もはようにパチンコに行って、私は家で留守番しとったわ。夕方になってから私はご飯をつくって、繭子の帰りを待っとった。あの子の両親は帰りが遅いから、夕飯はいつも私と爺さんと繭子の三人やった。でもその日はなかなか繭子が帰ってこんでな。それで警察に電話したんや」

 文代はそこで言葉を切って考え込むような仕草をした。

「それで、警察が来てからは…、…来てからは…」文代が不安げに視線をさまよわせた。唇がかすかに震えている。

「思い出せませんか」佐神が優しい口調で訊く。

 文代は驚きと悔しさが入り混じった顔で頷いた。まるで自分の記憶の引き出しの中が空っぽになっていたことに、今はじめて気がついたような感じだった。あれだけ大きな事件の記憶を思い出せなくなっているということは、彼女の認知症はかなり進行しているのかもしれない。

「そういえば」佐神はふと思い出したかのように自分の膝を叩いた。空気を変えるためとはいえ、我ながらなんて臭い演技だろう。「繭子さんには不思議な力があったそうですね。なんでも相手が罪悪感を抱いている人間の姿になることができたとか」

「繭子には、というか、その能力は桜川家の女ならみんな持ってるわ。年取ってからは出来んくなったけど、私も若い頃はその力を使って拝み屋のまねごとをしとった」

「えっ、みんな持っているんですか」十和が思わず口を挟んだ。

「桜川家の本家に生まれた女は、ある儀式をするんや。それをしたらみんなその力──私らは“面降めんおろし”と呼んでた力──を得ることができる」

 文代の話によるとその儀式というのは、六歳から九歳になるまでの三年間に行われるらしい。

 桜川家の少女は六歳になると、家に代々伝わる特別なお面をつけるのだ。このお面は人前では決して外してはならないという決まりがある。実の両親の前でもだ。そのため少女はお面をつけている間、幼稚園や学校にも行くことはできない。

 家にこもり、祈祷をして一日を過ごす。だから繭子が初めて小学校に通ったのは小学三年生になってからだった。

 その三年間を耐え抜くと、晴れて面降ろしの力を手にすることができる。自由自在に姿を降ろすことができるようになるのだ。

「大昔の桜川家の当主がな、嫁さんのことをえらい溺愛しとったそうや。綺麗な嫁さんの顔を毎日かわいいかわいい言うて誉めそやしとった。でもある日、その嫁さんがぽっくり死んでもうた。当主の悲しみ方は尋常やなかった。泣きすぎて気が狂った当主は、死んだ嫁さんの顔の皮を剥いで、それでお面をつくったんや」

「顔の皮を…?」十和が呟いた。

 佐神は首を傾げた。妙に聞き覚えのある話だが、どこで聞いた話だったか…。

「佐神さん、この話って鏡香さんの…」十和が佐神に耳打ちをする。

 そこでようやく彼の脳裏にひらめきが走った。鏡香が少し前に出版した怪異鬼譚という本に収録されていた話だ。たしか『剥がれる』というタイトルだったか。あれにも人間の皮でつくったお面が出てきたはずだ。

「当主はそのお面をかぶって妻として生活しはじめたんやと。周りから見たら、けったいなお面をつけた男にしか見えん。でも時々な、当主が別の人間──見た相手が罪悪感を抱いている人間──の姿に見える、と言い出す者がおったそうや。いつしか当主は死んで、お面だけが残った。相手が罪悪感を抱いている人間の姿を降ろせるようになる、不思議なお面だけが」

 それが人皮にんぴの面のいわれや、と文代は言った。

「では繭子さんも、その能力を使って拝み屋のようなことをしていたのですか」

「噂を聞きつけて遠いところから、わざわざ色んなお客さんが来てくれたわ。みんな最初は暗い顔で来るんやけど、繭子の姿を見て涙を流しながら『ごめんな、ごめんな』って謝ったあとは、すっきりした顔で帰っていくんや。たとえ本人やなかったとしても、謝ることで胸のつっかえが取れるんやろな」

「素敵な能力なんですね」と佐神。──本来は。

「ただ、なぜか繭子だけはうまいこと力が発現せんでな。私のサポートがないと、あかんかったけどな」

「サポート?」十和が首を傾げた。

「お嬢ちゃんは、口寄せって知ってるか?」

「呼び寄せた霊体を自分の身体に憑依させて、死者の言葉を生者に伝えるという、あれでしょうか。降霊術の一種で、たしか青森県のイタコが有名でしたよね?」

「よう知っとるな、その通りや」文代は頷いた。「私が口寄せした霊体を、繭子の身体に入れんのや。そしたら、力のない繭子でも姿を降ろすことができたんや」

「では、繭子さん一人では姿を降ろすことができなかった、ということでしょうか」と佐神。

「そういうことや」

 佐神と十和は顔を見合わせた。

 澪奈は、呪いは繭子の能力を悪用したものだと言っていた。しかし繭子はその能力自体をそもそも持ち合わせていなかったのだ。やはりあの呪い代行サイトを運営している人間は、繭子とは別人だということだろうか?

「その人皮の面は、いまどこにあるのでしょうか」佐神は訊いた。

「さあなあ。あれは繭子の事件からすこし経った頃に盗まれてしもうたから、どこにあるのかなんか、さっぱりわからん」

「被害届は出しましたか」

「そんなもん出せるかいな。人の皮でつくったお面が盗まれましたって警察に言うんか? それにもう使うこともないからな。あんなもん持ってたってしゃあないわ」

「あの、文代さん」十和が口を開いた。「もしも桜川家以外の人間が、そのお面を使って儀式を行ったらどうなると思いますか」

「そら、試したことないから断言はできんけど…。素質のある人間やったら、桜川家の人間と同じ力が使えるようになるかもしれへんな」

 十和は重ねて聞いた。「では、面降ろしを利用して人を呪うことは可能でしょうか。例えば…、周囲の人間の姿が、その人が罪悪感を抱いている人間の姿に見えるようにする、といったことは?」

「もしかして、澪奈ちゃんが言うとった呪いの話か。繭子が実は生きてて、人を呪っとるって言うとったけど、有り得んわ。あんな芸当は繭子には出来ん。そもそもあれは人の心を癒すために使うもんやからな」

「桜川家の人間以外で、儀式の内容を知っている人はいましたか」と佐神。

 文代はしばらく考え込んだあと、首を横に振った。「おらんはずや。あれは門外不出の儀式やったから」

 佐神は顎に手をあてて考え込んだ。

 犯人はいったい何のためにお面を盗んだのだろう。儀式のため? しかし儀式は門外不出だったはずだから、お面を盗んだとしても犯人には使いこなせない。

 ──犯人が桜川家の誰かから儀式の方法を聞き出していたとしたら?

 いや、と佐神は頭を振った。仮に犯人が儀式の内容を知っていたとしても、やはりそれを行う目的がわからないのだ。なぜなら儀式には六歳の子供が必要だし、儀式を行ったからといって力が手に入るとは限らない。桜川家のような特殊な家庭ならともかく、自分の子供をそんなギャンブルに巻き込む親がいるだろうか。

 それに面降ろしの力がなぜ人を呪う方向に変質してしまったのかも謎のままだった。

「あら」壁時計を見上げた文代が声をあげた。時計の針は午後四時十七分を指していた。「そろそろ繭子が帰ってくる時間やわ。ご飯つくってあげなあかんから、お兄ちゃんたちには悪いけど、もう帰ってもらえるやろか」

「繭子さんが…?」

 困惑して目をぱちぱちさせる十和の左腕を、佐神は肘でつついた。これは、もう録音は必要ないという合図で、十和は素直に従った。

「長居してしまったようで申し訳ありません。文代さん、本日はご協力ありがとうございました。我々はこれで失礼させていただきます」佐神は頭を下げた。隣の十和もそれにならった。

「はいよ、また遊びにおいで。繭子も喜ぶから」文代はゆっくり立ちあがると、おぼつかない足取りで台所へ向かった。時々こんな風に認知症の症状が出てしまうのだろう。

「小山内さんを呼んでくる」

 佐神は十和にそう言い置いて居間を出た。角度の急な階段をのぼった先にある木製の扉をノックした。

「はい」小山内の返事とともに扉が開いた。彼は右手にハンディモップを握っていた。「ああ、探偵さん。話は終わったんですか」

「ええ、たった今。お忙しい中ご協力していただき、ありがとうございました」

「お気になさらず。文代さん、足が悪くなってからは外に出て人と話す機会が減っていたみたいなんで、お二人と話せていい刺激になったと思います」

 佐神はちらりと部屋の中に目をやった。カーテンが閉まった窓のそばに子供用の学習机があった。ピンク色のデスクマットが敷いてあるので女の子のものだろう。棚には小学生用の教科書が並んでいる。

「あれは繭子ちゃんのです」佐神の視線に気がついた小山内が後ろを振り返って言った。「お孫さんのものは未だに捨てられへんと言っていました。文代さんは足が悪くて二階に上がれないんで、僕が時々こうして掃除してるんです」

「少しだけ拝見させていただいてもかまいませんか」

「ええ、どうぞ」

 学習机の隣にはクローゼットと本棚が、部屋の入り口の左側にはベッドが置いてあった。どれも小さな子供用。本棚に並んでいるCDは、十五年前に一世を風靡した女性アイドルグループのものだった。

 この部屋は十五年間、時が止まったままだった。

「小山内さんのご出身は関西ですか」佐神は訊いた。

「やっぱり訛ってますよね、僕。京都からこっちに来たんですけど、なかなか関西弁が抜けなくて」小山内は恥ずかしそうに頭を掻いた。「文代さんが関西弁なのもあって、つい引っ張られてしまうんですよね」

「京都だったら仕事で一度だけ行ったことがありますよ。飯もうまいし人も明るいし、いいところでした」たしか殺人事件の捜査で京都まで出張させられたのだ。忙しくて観光をする暇はなかったが、適当に入った飯屋のにしん蕎麦が美味しかったのを覚えている。

「探偵さんってそんな遠くまで調査に行かれるんですね」

「いや、あの頃はまだ探偵ではなく刑事として働いていました。その時の上司が人使いの荒い人間でね。たった一日の出張で証拠をあげて来いと言うので大変でしたよ」

 小山内が目を瞬かせた。「刑事さんだったんですか。ああ、だから──」彼はそこで口をつぐんだ。

「目つきが悪いでしょう。よく言われます」

「あ、いえ、そんなことは…」彼は困ったように笑みを浮かべた。「すみません…」

 小山内はきまりが悪いのか、手に持ったハンディモップで繭子の机の上を掃除しはじめた。しかしそこはもうすでにピカピカだった。

 佐神の目がふと、本棚の一番下の段にあったアルバムにとまった。背表紙には山原市立岩下小学校卒業アルバムと書かれていた。どうやら小学校は亡くなった繭子にもアルバムを贈呈したらしい。

 ページをめくる。六年生の修学旅行や運動会の写真に混じって、繭子が写っている写真も掲載されていた。繭子の顔つきだけ、ほかの子たちに比べて幼いのは四年生の頃に撮った写真だからだろう。どの写真にも繭子の隣には澪奈の姿があった。二人とも屈託のない笑顔をカメラに向けている。それだけでこの二人がいかに仲が良かったのかが、うかがい知れた。

 さらにページをめくる。

 佐神の手が止まった。

 六年二組の生徒たちの個人写真が載っているページだ。幼い少年少女たちが笑顔で写っている。その写真の中に見覚えのある名前を見つけたのだ。

 ──伊藤樹里亜。

 ポニーテールのその少女は佐神に向かって笑いかけている。

 佐神はスマートフォンを取り出して、六車樹里亜の名前を検索欄に打ち込んだ。出てきたのは数年前に起きた、いじめ事件の記事と樹里亜の顔写真だ。彼は樹里亜の画像を拡大した。

 スマートフォンをアルバムの隣に置いて、伊藤樹里亜の写真と六車樹里亜の画像を見比べた。

「どうかしましたか」小山内が肩越しに覗き込んできた。

「この二人、似ていると思いませんか」切れ長の瞳と扁平な鼻、口の端からのぞいている尖った八重歯。全体的に雰囲気が似ている気がする。それに年齢も一致している。やはり同一人物だろうか。

「どことなく面影がありますね。誰なんですか、この子?」小山内はそう言ったあと、慌てて両手を振った。「あっ、調査中のことは言えませんよね。すみません」

「いえ、こちらこそ申し訳ありません。ご協力していただいたのに、お話しできなくて」

 いいえ、と小山内が首を振る。

 佐神はアルバムのページをスマートフォンのカメラで撮影した。アルバムを閉じて本棚に戻す。立ち上がる時になんとなく窓の方に目が行った。

 カーテンがきっちり閉まっていると思っていたが、わずかに隙間が空いていた。入り口から見たときは気がつかなかったが、どうやらカーテンレールが壊れているらしい。完全には閉まらないようになっていた。

 その隙間から覗いていたのは新聞紙だった。

 佐神はおもむろに窓に近寄り、カーテンを開いた。

 窓一面に新聞紙が貼りつけられていた。日の光を通さないほど何重にも、隙間なくびっしりと。新聞紙の上で踊る夥しい数の小さな文字は、腐った肉にたかるハエの群れを連想させた。

 強迫観念じみた異常な心理状態を思わせる光景に、佐神は眩暈を覚えた。これはあのアパートで死んでいた林の部屋と同じではないか。

「これは…?」佐神は訊いた。「文代さんは、なぜこんなことを?」

「わかりません。認知症の症状の一つだと思ったんですが、理由は怖くて聞けませんでした」

「これはいつ頃からありましたか」

「さあ…。僕が文代さんの担当になった頃…、数年くらい前には、もうすでにあったんで、詳しいことは」

「数年前?」呪いを受けた人間はみんな三か月ほどで死んでいる。それなのになぜ文代は生きているんだ。いや、そもそも足腰の悪い認知症の老婆を呪う理由は何だ? 

 佐神は首を振った。わからないことだらけだった。

「大丈夫ですか」小山内が心配そうに顔を覗き込んできた。

「ええ。すみませんが私はこれで失礼させていただきます」

 佐神は小山内に頭を下げて部屋をあとにした。

 急勾配の階段を降りるときに、自分の心臓の鼓動が速くなっていることに気がついた。この状況に恐怖を感じているのか? オカルトだの呪いだのくだらないと思っていたのに、いつの間にか信じてしまっている自分がいた。

 居間に続く扉を開けた。

 十和はソファの前に立っていた。鞄を胸に抱いて台所をじっと見つめている。彼女の視線の先からは、食材を炒める音と、ソースのいい香りが漂っていた。

「十和」

 声をかけられた十和はぎくりと肩を揺らして、佐神に青白い顔を向けた。そこには怯えと困惑が混じったような表情が浮かんでいる。

 佐神さん。十和は声を出さず、口だけ動かして彼の名を呼んだ。

 佐神は無言で十和に近づいた。彼女が目顔で示した方に視線を向ける。

 目に飛び込んできたのは、台所で料理をつくる文代の後姿。それと真っ黒に塗りつぶされたシンクだった。



 *



 二人が東京に着いたのは夜十時だった。高速道路は年始の渋滞で動かないだろうと予想して、電車に乗ったのが間違いだった。二人の乗った電車が人身事故を起こして二時間近く足止めを食らったのだ。予定ではもっと早くに帰れるはずだったのだが。

 文代の家で見たあの光景が始終、十和の頭の片隅でちらついていた。おそらく佐神もそうだったのだと思う。そういうわけで二人とも車内では言葉少なだった。

 最寄り駅から自宅までの道を歩く。街灯が少ないため通りは真っ暗で心細い。けれど十和が周囲を警戒せずに歩いているのは、隣に佐神がいるからだろう。彼がそばにいるときだけは十和はポケットから手を出して歩くことができる。スタンガンを握りしめなくても、不安になることはないのだ。

 二人はマンションの前で立ち止まった。エントランスから漏れた明かりが通りを照らしている。それを見た途端、ようやく帰ってきたのだと実感して、どっと疲れが押し寄せてきた。

「わざわざ送っていただいて、ありがとうございました」十和は佐神に頭を下げた。

 佐神は何も言わないかわりに右手を軽くあげた。

 十和は、おやすみなさい、と挨拶をしてからエントランスの自動ドアをくぐった。集合ポストを開けるときに一瞬、嫌な予感が胸をよぎったが杞憂だった。入っていたのはダイレクトメッセージばかりで、矢代からの写真は一枚もない。

 短くため息をついてエレベーターのボタンを押す。エントランスの出入り口に目を向けると、佐神はまだ通りに立っていた。コートの襟をかき合わせ、寒さに身を縮めながら。おそらく十和の部屋の電気がつくまで、無事に部屋に入ったことを確認するまで、そこにいるつもりなのだろう。

 何もそこまでしてくれなくたって、いいのに。十和の心がちくりと痛んだ。佐神の優しさはありがたいが、時々それを重荷に感じてしまうことがあった。自分は彼の足枷になっていやしないだろうか。

 二十二歳の時、矢代の事件のトラウマのせいで外に出られなくなり、悩んでいた十和に手を差し伸べてくれたのが佐神だった。「探偵事務所を開業したから、助手として働かないか」と十和を誘ったのだ。

 もちろん嬉しかった。だが同時に大きな罪悪感が両肩にのしかかってきたのも事実だった。なぜなら十和にはわかっていたからだ。彼が警察を辞めて探偵事務所を立ち上げたのは十和のためであること、そして、佐神は自分のせいで矢代にレイプされた十和への償いとして、一生彼女を傍で支えるつもりなのだということを。

 ──私は彼のことを、償いという名の鎖で縛りつけてしまっているのでは?

 到着したエレベーターに乗る。五階のボタンを押すと、浮遊感とともに箱は上昇した。階数表示板をぼんやりと眺める。二階、三階、四階…。到着音が鳴って扉が開いた。

 エレベーターから降りたところで、十和の足が止まった。

 部屋の前に男が立っていた。夜の闇に溶けこむ黒いコートを着たその男は、外廊下の柵にもたれながら煙草をふかしていた。長時間そこに立っていたらしく、足元には何本もの吸い殻が転がっている。執拗に踏み潰されたせいで、吸い殻から飛び出した刻みがそこら中に散らばっていた。

 吹き抜けた風が十和のもとに煙草の香りを運んだ。五年前のあの日に嗅いだショートホープの香りを。

 心臓を冷たい手で鷲掴わしづかみにされたような気がして、息が止まった。十和は二歩、後ずさりした。鞄のバックルがエレベーターの操作盤に当たり、ガチャンと音をたてた。

 男がこちらを振り向く。矢代は目にかかった前髪を指で払いのけると、十和に手を振った。五年前と変わらない軽薄そうな笑顔を浮かべながら。

「遅かったじゃないか。待ちくたびれたよ」

 矢代がこちらに歩いてくる。

 十和の背後でエレベーターの扉が閉まる音がした。

 呼吸の仕方がわからなかった。逃げなければと思うのに、足を動かすことができなかった。平衡感覚がおかしくなり、両足がまるで底なし沼に沈んでいくかのような錯覚に陥った。

 二人の距離は徐々に近づいていく。三メートル、二メートル、一メートル…。

 十和は震える手をポケットに突っ込んだ。スタンガンを握りしめる。近づいてきた矢代に向かって勢いよく突き出す。

「おっと」矢代が十和の手首を掴んだ。やすやすと捻り上げられた彼女の手は、スタンガンを取り落とした。大きな音が静かな廊下に響いた。「ずいぶんな歓迎だ」

 矢代に蹴り飛ばされたスタンガンは廊下を滑り、消火栓の扉に当たって止まった。

 十和は恐怖に見開いた目で矢代を見あげた。歯がガチガチ鳴っているのは寒さのせいではない。心臓の鼓動が耳の奥で早鐘を打ち、呼吸は自分でもわかるほど速く浅くなっていた。

 助けて。そう叫んだはずなのに、十和の喉からは、ひゅうひゅうと空気が通り抜ける音しか出なかった。

 矢代は目を細め満足げな顔で十和を見下ろしていた。彼の手はいまや十和の身体のどこにも触れていない。左手をだらりと身体の脇に垂らし、右手で煙草をつまみ紫煙をくゆらせている。矢代にはわかっているのだ。彼を前にすると、十和は恐怖で動けなくなってしまうことが。

「まだ佐神と一緒にいるんだな」矢代が煙を十和の顔に吹きかけた。「あんなことされたのに、どうして?」

 十和は何も答えなかった。いや、答えられなかった。恐怖のせいで全身の筋肉がこわばり、逃げ出すことはおろか舌を動かすことすら、ままならなかった。蛇に睨まれた蛙のように、充血し潤んだ目で、ただじっと矢代の顔を見つめることしかできなかった。

 十和の脳裏に矢代の言葉がよぎった。裁判員に、なぜ十和をレイプしたのか、と聞かれた矢代が放った言葉だ。

 ──佐神と仲が良かったから。

 彼は二十歳の時に自分を逮捕した佐神のことを逆恨みしていたのだ。

 十五歳の時に両親が死んで以来、矢代は三つ年の離れた妹のことを親代わりに育ててきた。悪事にも手を染めた。しかしそれは幼い二人が生きていくためには仕方のないことだった。それなのに佐神は矢代を逮捕し、妹は彼のもとを去った。たった一人の肉親から捨てられたのは、佐神のせいだというのが彼の言い分だった。

 十和に気があったわけでも、落ち度があったわけでもない。ただ佐神を苦しめる手段として彼女を犯したのだ。雨が降る夜に、車の中に十和を連れ込んで。

「髪、切ったんだ。こっちの方がいいよ」矢代の左手が十和の頭を撫でた。「もしかして俺のためか、俺が髪の短い女が好きなのを知って?」

 矢代の視線が十和の顔から首を伝い、胸、下腹部、つま先へと移動し、そしてまた下腹部から顔へと戻ってきた。その間も矢代の左手は、彼女の頭皮を優しくなでていた。

 背筋にぞっと鳥肌が立った。十和にはその視線の意味がわかっていた。この男は、目で十和の服を脱がせたのだ。ジャケットもシャツもブラジャーもショーツも剥ぎ取られた。男の瞳の中で、十和は一糸まとわぬ姿で立っていた。

 矢代の視線が、彼女の身体の上を蜘蛛のように這いまわっている。十和はおよそ言葉では言い表せないほどの羞恥心と屈辱に支配されていた。自分は今、またこの男に犯されているのだ。嚙み締めた下唇からは血がにじんでいた。口の中に鉄の味が広がった。

 悔しかった。なにより、この男のなすがままになっている自分自身が一番情けなかった。

 ──私は五年前からなにも変わっていない。

 矢代がぷっと吹き出した。「そんな顔するなって。今日は顔を見に来ただけなんだからさ」十和の頬を手の甲で叩きながら煙を吐き出す。「元気そうでよかったよ。佐神に伝えといてくれないか。今度はもっと楽しいことをするつもりだって」

 矢代はそう言うと、コートの裾をひるがえして闇の中に溶けていった。外階段へつづく扉が閉まる音が廊下に響く。あとに残ったのはショートホープの香りだけだった。

 十和は長いため息をついてその場に座り込んだ。自分の両ひざに顔をうずめる。左手首に巻いた腕時計をぎゅっと握りしめた。けれど、いつまでたっても震えは収まらなかった。

 助けて。

 十和は心の中で何度もそう叫び続けていたのに、その声が誰かの耳に届くことはなかった。静かな廊下には、十和の無言のSOSだけが響き渡っていた。



 *



 佐神はコートの襟をかき合わせ、ため息をついた。白い息が夜の闇に溶けて消えた。一月の夜気は容赦なく彼から体温を奪い去る。マンションのエントランスに目を向けると、ちょうど十和がエレベーターに乗り込む姿が見えた。

 ポケットに手を突っ込んで上を見あげる。澄んだ夜空にかがやく満点の星々も、美しい弧を描く三日月も佐神の眼中にはなかった。彼が見ていたのは五階の一番端の部屋。十和が住んでいる505号室のベランダだけだった。あの部屋の電気がつくまで、この場を離れることはできない。彼女が無事に部屋に帰り着いたことを確認するまでは。

 我ながら過保護だと苦笑する。しかし佐神にはこれ以外の償い方がわからないのだ。どれだけ言葉を尽くそうが、彼女の心の傷が消えることはない。いや、そもそも口下手な彼には、十和にどんな言葉をかけてやればいいのかもわからない。だからせめて、矢代の脅威がなくなるまで傍にいようと決めた。十和がもう二度とあんな思いをしなくてもいいように。それが佐神の背負った十字架だった。

 雲が月を覆い隠し、周囲の闇が濃くなった。遠くでは救急車のサイレンが鳴り響いている。けれどこちらの通りは静かなものだった。通行人はおろか家から漏れ聞こえてくる話し声もない。不思議なほどに静まり返っている。

 そんな中でふと佐神は何者かの視線を感じた。じっとりとした視線が身体にまとわりついている。捜査一課にいた頃に培った勘がはっきりと告げていた──殺意に満ちた眼差し。

 視線に気がついたことを相手に気取られぬよう、目だけ動かして周囲の様子を探る。駐車場の車、家と家の間の路地、塀の影…。

 佐神の目がとまった。

 電柱の影に誰かがいる。柱の陰に隠れて顔は見えないが、ベージュのスカートの下から伸びる細い素足から察するに女だろうと思われた。女は身じろぎひとつしないで、そこに立っていた。

 佐神は視界の端に女の姿を捉えたまま、マンションのエントランスに顔を向けた。目を合わせてはいけないと本能的に察した。こんな時間にあんな場所に立っている人間は、まず間違いなくまともではない。それも、これほどの殺気を放っている人間ならばなおさらだ。

 女が一歩、佐神の方に足を踏み出した。女の顔が街灯の白い光に照らし出される。

 佐神はぎょっとして、そちらに身体を向けた。

 やや吊り上がり気味の大きな瞳と、細い鼻筋、形のいい唇、短く切りそろえられた髪の毛。それらすべてに見覚えがあった。街灯の光の輪の中に立っていたのは、たしかに十和だった。

 なぜ十和があそこに? 彼女はさっきエレベーターに乗ったはずだ。それなのにどうして…。

「十和…?」佐神は十和に呼び掛けた。

 返事をするかわりに、彼女は顔に満面の笑みを浮かべた。青白い街灯が十和の顔に奇妙な陰影を生み出している。知っている顔なのに、まるで別人の顔のように思えた。

 いや、違う。これは十和ではない。

 佐神はうなじの毛がぞっと逆立つのを感じた。視線を上に向けて十和の部屋を見あげた。部屋の電気がまだ点いていなかった。なぜだ。彼女がエレベーターに乗り込んでから、もう五分は経過している。

 佐神は再び女に目を向けた。女は相変わらず街灯の下に立っている。歯をむき出しにして笑うその女は、不気味なほど十和にそっくりだった。

 ──呪い。

 脳裏をよぎったその言葉を、佐神はかき消した。馬鹿な。いったい何の理由があって呪われなければいけないんだ。

 佐神は女から目を離さないまま、ポケットからスマートフォンを取り出した。震える手で十和に電話をかける。呼び出し音が鳴る。しかし十和は電話に出ない。じりじりとした焦燥感が彼をさいなんだ。

 気が遠くなるほどの長い時間のあとで、通話が繋がる音がした。佐神の目の前にいる女はスマートフォンを持っていなかった。

「十和」佐神は冷静を装いながら呼び掛けた。「十和。お前、今どこにいる?」

 十和からの返答はない。しかしかすかに、荒い呼吸の音とカチカチと歯が触れ合うような音が聞こえてきた。

「どうした、大丈夫なのか」

「矢代が」十和は上ずった声であの男の名を呼んだ。声はひどく震えていた。「佐神さん、助けて」

 佐神は弾かれたように駆けだした。マンションのエントランスに向かって。目の前にいる偽物の十和ではなく、電話の向こうから助けを求める本物の十和に向かって。

 エントランスの入り口の扉を開き中に入る。扉に肩を強打したが痛みは感じなかった。エレベーターのボタンを連打する。頭上の階数表示は五階のランプが点灯していた。

 舌打ちをする。佐神はエントランスを飛び出した。通りを吹き抜ける風が佐神のコートの裾をはためかせた。マンションの左側にある外階段に向かって駆けた。

 外階段にたどり着いた時、ショートホープの香りが鼻先をかすめた。しかしそれは一瞬の後に冷たい夜風によって洗い流された。

 階段を一段飛ばしで駆け上がる。佐神の頭の中で嫌な想像ばかりが膨らんでいった。もしも十和があの男に怪我をさせられていたら? もしもまた襲われていたら? 俺はどんな言葉をかけてやればいい? 俺のせいでまたつらい目に遭わせて申し訳ない、と?

 佐神は折れそうなほど強く歯を食いしばった。日頃の運動不足のせいで心臓が悲鳴をあげ、足は鉛のように重かった。だがそれでも佐神は走ることをやめなかった。十和の悲痛な叫びが耳の奥でこだましていた。

 五階のフロアへ出る扉を開ける。佐神の目に飛び込んできたのは、エレベーターの扉の脇に座り込む十和の姿だった。彼女は自分の両ひざに顔をうずめていた。遠くからでも華奢な両肩が震えているのがわかった。

「十和」佐神は十和の元に駆け寄った。彼女のそばにしゃがんで声をかける。「どうした、何があった? 矢代に何かされたのか」

 十和がおもむろに顔をあげた。充血した瞳が佐神をとらえる。十和は手の甲で口元をおさえながら頭を振った。唇がかすかに震えているのが見えた。

 その動作は佐神の心臓を締めつけた。実際、彼はほんの少しの間、息の仕方を忘れていた。十和は矢代に何かをされたのに、彼に心配をかけまいとして嘘をついたのだ。それが佐神にはどうしようもなく苦しかった。

 佐神は十和の肩を抱いて立ち上がらせた。

 冷たい風が吹き抜ける廊下を歩いて部屋に向かう。二人は何も喋らない。505号室の前で足を止める。十和が鞄から鍵を取り出して鍵穴に差し込んだ。

 と、佐神はドアポストから白い紙がはみ出しているのに気がついた。引き抜いてみると、それは一枚の写真で、白い肌をむき出しにした涙目の十和が写っていた。五年前、矢代に犯されている最中に撮られたものだった。写真には文字がそえられていた──マヌケな元捜査一課の刑事さんへ。大切なものからは目を離すなよ。

 佐神は十和に気づかれないように写真をクシャクシャに丸めてポケットに突っ込んだ。

 十和に促されて扉をくぐる。部屋に一歩足を踏み入れた佐神は絶句した。

 ワンルームの部屋の中には物がほとんどなかった。あるのは無機質なガラステーブルの上に置かれたデスクトップ型のパソコンと、冷蔵庫とベッドだけだった。カーペットも敷かれていないため、床板がむき出しである。部屋の中にもキッチンにも二十代の女性らしい装飾品や置物の類は見当たらなかった。

 いや、そもそもこの部屋には生活臭が一切ない。十和が実家を出てこの部屋に引っ越してきたのは、探偵事務所で働くことが決まった日からだ。まさか三年間ずっと、彼女はこの無機質な部屋に住んでいたというのだろうか。

 あの事件のあと、十和が長かった髪をばっさり切り、服装の趣味を変えたのは知っていた。しかしこの部屋を見たのは今日がはじめてだった。矢代を連想させる物を一つ一つゴミ袋に詰めて、最終的に残ったこの独房のような冷たい部屋で、十和が一人生活していたことなどつゆも知らなかったのだ。

 佐神は軽い眩暈を覚えた。

 十和はあの事件以来、いったい幾つのものを諦め、手放してきたのだろう。家の中の物だけに限った話ではない。大学生活や恋愛、そして人間らしい生き方…。

「お水、飲みますか」十和は冷蔵庫から取り出したペットボトルの水を佐神に差し出した。「すみません、何もお構いできなくて。ベッドにでも座っていてください」

 佐神は礼を言ってそれを受け取った。「それより本当に大丈夫なのか」

「ええ。さっきまではかなり精神的にきていましたけど、今はもう復活しました。佐神さんが私より真っ青な顔をしているせいで、どうも冷めちゃったみたいです」十和はぺろりと舌を出した。

「慌てふためいて来た甲斐があったよ」佐神はベッドに腰かけてペットボトルの水を一気にあおった。久しぶりに全力疾走したことと、この部屋を目の当たりにしたことで、ひどく喉が渇いていた。

「佐神さん」彼が水を飲み終えたのを見計らって十和が声をかけた。いつの間にかガラステーブルの前においてあるゲーミングチェアに腰かけている。彼女は頬杖をついて部屋の中を見回しながら言った。「この部屋。私はべつに病んでいるわけではありませんからね」

「わかってるさ。金がないんだろ?」

「誰かさんのせいで」

 二人は首をかしげて微笑みをかわした。

 それから佐神は十和から顔を背け、下唇を強く噛んだ。口の中に血の味が広がる。

 ──お前は本当に嘘をつくのが下手だな。

 佐神は十和の強がりを見抜いていた。けれどそれを指摘したり、彼女の手を優しく握ったりするような真似は絶対にしなかった。

 十和は今までこの部屋で矢代の幻影と孤独に闘ってきたのだ。気の遠くなるほどの長い時間を。あんなひどい目に遭った彼女が普通の人間と同じように社会生活を送るためには、そうとうな努力と覚悟が必要だったに違いない。様々なものを手放し、様々な感情を心の奥底に封印してきた。周囲に助けを求めずに平気なふりをして、たった一人で耐え忍ぶことが、彼女流の闘い方なのだ。そんな彼女がついた嘘を指摘することは、今まで十和が積み重ねてきた時間への冒涜に等しい。だから佐神は何も言わなかったのだ。

 静かな部屋の中で、十和の腕時計はカチカチと規則正しく時を刻んでいた。十和の闘いはつづいている。今までも、これからも。

 佐神はベッドから立ち上がり、パソコンを操作している十和の方に歩いて行った。

 パソコンの画面には黒い背景に白やら黄色やらの文字で書かれた英数字がずらずら並んでいる。佐神は目を細めて見てみたが、やはり意味はまったくわからなかった。そもそも老眼なので文字がぼやけてよく見えない。

 スクリーン越しに十和と目が合ったが、彼女は背後に立つ佐神に顔を向けることはなかった。

「今度はどこをハッキングしているんだ?」

「矢代のパソコンです」

「あいつの? 何でまた」

「全部のデータを消してやるんです。バックアップを取られていたら意味ないですけど、やられっぱなしだと気が済みません」十和は椅子をくるりと回して振り返り、佐神のコートのポケットに視線を落とした。「それに、いろんな人にその写真を見られるのは嫌なので」

 佐神は何も言えずに、ポケットの中の写真を握りつぶした。

「ちゃんと燃やしておいてくださいね」

 十和はそう言うとまたパソコンの画面に向き直った。彼女の指は演奏をするピアニストのようにキーボードの上を踊りながら、次から次へとパソコンに指令を与えていく。電脳空間の中で、十和の身体はやすやすとセキュリティの網をかいくぐり、矢代のパソコンの内部に侵入した。現実世界では太刀打ちできなくとも、ここでは十和の独壇場なのだ。

 十和は矢代のパソコンに保存されていた画像フォルダを開く。と、同時に二人の顔がこわばる。

 画面に映し出されていたのは幼い少女のポルノ動画だった。千以上ある動画にはすべて同じ少女が映っている。画面をスクロールしていくにつれて少女の顔は少しずつ大人びていった。おそらく十二歳頃から十七、八歳の頃にかけて撮り溜められたものなのだろう。

 カメラは様々なアングルから遠ざかったり近づいたりして、少女の身体を舐めるように撮影していた。まるで映画監督気取りだ。動画の雰囲気からして、明らかに合意のもとで行われている行為ではなかった。

「なんですか、これ…」十和が画面から顔を背けながら言う。

「これ…」佐神は画面に顔を近づけてよく見た。茶色がかったくせ毛のショートヘアに吊り上がり気味の大きな瞳、ふっくらした唇。たしかに見覚えがあった。「矢代の妹じゃないか?」

「矢代ってたしか、幼い妹を食べさせるために犯罪に手を染めたって言っていましたよね。それで佐神さんに逮捕された。妹に捨てられたのは、佐神さんに逮捕されたからだって…」

「だが実際は、妹は兄を捨てたのではなく、性的虐待から逃げ出したということか。それなのに矢代は、妹が逃げ出したのは俺のせいだと逆恨みしている」

「でも妹は矢代に虐待されていたなんて、一言も言っていませんでしたよ」

「怖くて言えなかったんだろう」性的暴行を受けたのに泣き寝入りする女性は珍しくない。十和のように警察や裁判所で、自分がされたことを証言できる人間ばかりではないのだ。「長い間、矢代の脅威に晒されつづけていたのならなおさらだ。だから彼女は過去に蓋をして逃げるという選択を取った」

「つらかったでしょうね、たった一人の肉親にこんなことをされるなんて。あの男は彼女のもとにも行っているんでしょうね。私にしたみたいに、写真で脅して反応を楽しんでいるに決まっています」

「いや、その可能性は低いんじゃないか」佐神は画面を一番下までスクロールしながら答えた。映し出されていたのは、ごく最近──出所してから撮られた写真だ。被写体はすべて十和だ。一人で歩く姿や、佐神と事務所から出てくるところ、鏡香と話している姿…。妹らしき女性の写真は一枚もない。「奴が狙っているのはお前一人だけだ」

「どうしてですか」十和が椅子を回転させて佐神の方を振り返った。「だって矢代はこんなに妹に執着しているんですよ。これだけたくさんの動画を撮って、妹に逃げられた腹いせに佐神さんに復讐するくらいに。そんな男がそう簡単に諦めるとは思えません」

 十和のやや吊り上がり気味の大きな瞳が佐神を見あげる。

 ──似ている。

 瓜二つとまでは言わないが、十和と矢代の妹は似通った雰囲気の顔立ちをしていた。

 佐神には確信があった。矢代はもう妹のことなど頭にない。彼はもっといい玩具おもちゃを手に入れたのだ。

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