矢代新やしろあらたは舌打ちをした。

 ようやく刑期を終えて実家に帰ってきたというのに、懐かしさも嬉しさも、いっさい湧いてこなかった。そもそも子供の頃からこの家は好きではなかった。それに彼は二十歳の時に傷害で三年間刑務所で服役し、その後、二十四歳のときに強制性交で再び刑務所に入った。二十代の頃だけでいえば、家にいた時間より刑務所にいた時間の方が長い。この家に愛着など少しもなかったのだ。

 矢代はまた舌打ちをした。

 彼を苛立たせた原因は、玄関を入ってすぐの廊下に無造作に積みあげられた段ボールの山と、その表面を覆っている厚い埃の山にあった。家全体が埃臭く、この家にはもう長いこと誰も足を踏み入れていないのは明らかだった。そのことに無性に腹が立ったのだ。

 ──べつに妹が待っていることを期待していたわけではないが。

 矢代は段ボールを力任せに蹴った。大きな音がして上に積んでいた段ボール箱が廊下に落ちる。押収品目録交付書と書かれた紙がはらりと宙を舞い、矢代の靴の上に乗った。玄関扉のガラス格子の隙間から差し込んだ日光の中で、細かな埃がきらめいていた。

 ガムテープを引きちぎり、段ボールの封を開ける。中には映画のDVDがぎっしりと詰め込んであった。

 違う。

 二つ目の封を開ける。漫画や小説などが入っていた。そのほとんどは映画に関するものだった。映画脚本術、映画論、名作映画解剖学、シナリオ技巧、映画制作解説…。刑務所に入る前に、むさぼるようにして読んでいた懐かしいものばかりだ。

 これも違う。

 三つ目でようやく目当てのものを見つけた。

 矢代はノートパソコンを抱えると、靴を脱いで部屋に上がった。玄関から居間までの短い廊下を歩いただけで靴下は埃で覆われてしまった。

 居間の時間は、警察が家宅捜索に来たときのままで凍りついていた。五年前のあの時のまま。衣服や薬箱など、押し入れに仕舞っていたものはすべて引きずりだされている。テレビ台の棚に並べていたはずのゲームやCDの類はきれいさっぱりなくなっていた。

 床の上には書類や小物が散乱している。

 しかし居間の隅に飾っていた仏壇だけは荒らされた様子がなかった。両親の遺影がないのは、妹が家を出るときに持って行ったからだろう。供えていた仏飯はカラカラに乾き、その周りでは何匹かの蠅が干からびて死んでいた。

 矢代は床に落ちていたカッターナイフを手に取った。

 仏壇に置いてある、りん布団に刃をあてる。布が裂ける甲高い音がして、中に詰まっていた綿があふれ出した。中身をまさぐると指先に固いものが触れる感触が伝わってきた。どうやら警察はこれを見逃してくれたらしい。

 矢代は綿の中から取り出したSDカードをパソコンに接続した。

 明るい画面の中に千以上の動画が並んでいる。これは彼が十五歳の頃から──両親が死んだ頃から撮りためていたものだ。被写体のほとんどは同じ少女だ。一人で映っているものもあれば、矢代と二人で映っているものもある。懐かしさについ矢代の頬が緩んだ。

 画面を下にスクロールしていく。

 矢代の指が止まった。一枚の写真をクリックする。画面いっぱいに十和の姿が映し出された。服がはだけ、彼女の白い肌がむき出しになっている。カメラのレンズから背けられた顔には、恐怖と屈辱と羞恥がない交ぜになった表情が浮かんでいた。

 矢代は画面上の十和の身体を指でなぞった。

 哀れな十和。彼女はこれから再び同じ屈辱を味わい、そして殺されるのだ。



 *



 その日の朝、佐神探偵事務所の扉を開けた十和はつとめて明るい声であいさつをした。「おはようございます!」

 扉の隙間から吹き込んできた冷たい風が、暖房のききすぎた事務所内の空気をかきまぜた。めずらしく今日はアルコールの臭いがしなかった。

 机を挟んで向かい合わせにソファに座っていた鏡香と波木は、片手をあげて「おはよう」とにこやかに彼女のあいさつに答えた。しかし事務机の前で頬杖を突いた佐神だけは、細めた目で十和の顔を見ていた。口の端にくわえた煙草から紫煙が伸びている。

 十和の頬がひくりと引きつる。まさか彼の元にもあれが送られてきたのか?

 彼女の脳裏に、ある写真がよぎった。今朝、ドアポストに投函されていたその写真を見つけた時、十和は身体の力が抜けていくのを感じた。そこに写っていたのは五年前の十和。まさに今、汚されている最中の自分の姿だった。

 矢代が出所したのだ。

 写真の裏には矢代からの直筆のメッセージが添えてあった。十和の頭の中には、矢代が刑務所からたった一通だけ送ってきた手紙の文面が、ぐるぐる回っていた。

 出所したら謝罪に伺わせてください。

 十和は震える手で写真に火をつけた。橙色の炎が、十和の白い肌の上をゆっくりと広がっていく。なぶるように、弄ぶように。まるであの夜、身体の上を這いまわっていた矢代の掌ように。

 焦げ臭いにおいが鼻をついた。

 十和は左腕につけたシルバーの腕時計を握りしめた。冷たい金属の手触りが、乱れた彼女の呼吸を整えた。

 あの夜のことを思い出しそうになった時、十和はきまってこの腕時計に触れた。それは三年前、矢代の記憶と折り合いをつけ、前を向いて生きていくことを決意した日に佐神がプレゼントしてくれたものだった。以来、就職祝いのその腕時計は彼女のそばで、彼女の成長を見守りつづけていた。無機質な文字盤が刻むのは、十和が矢代と闘ってきた長い長い時間だ。

 三年と四十八日──時間にしておよそ二万七千四百三十二時間。それだけの時間を彼女は闘ってきたのだ。だから、ここで負けるわけにはいかない。

「私はあの頃とはちがう」十和は自分自身に言い聞かせるように何度もつぶやいた。十和の瞳の中で橙色の炎が揺らめいていた。

 写真は完全に炎の中に飲みこまれた。灰が宙を舞う。

 ──五年も待たせて悪かった。

 やがて写真は、裏に書かれたそのメッセージとともに燃え尽きた。


「なんですか?」十和は前髪を指で払いのけながら、極めて冷静を装い訊いた。

「べつに」佐神が彼女から目を逸らす。気だるそうに鼻から煙を吐き出した。

「喧嘩でもしてるの、二人?」と鏡香。

「まさか」十和は鏡香の隣に座った。「二人ともおそろいで、今日はどうしたんですか」

「俺は鏡香さんに呼ばれたんっすよ。せっかくの非番だったのに電話でたたき起こされて、事務所に来いって。今日、大晦日っすよ?」

「いいじゃない、どうせ一緒に年を越す彼女もいないんでしょ。ここなら人目を気にせずに思う存分話せるから便利なのよ」

「うちを集会所代わりに使うんじゃねえよ」と佐神。

 鏡香は元旦那の言葉を無視してつづけた。

「五日前にアパートで遺体を見つけたでしょ。つい昨日、103号室で自死された林さんの遺族から、彼の日記を預かったの」

「あれって結局自殺だったんですか」十和が驚いた声を上げた。

「俺たちもいろいろ調べてみたんすけど」波木が言う。「不審な点は一切なし。なにより林が隣人の六車樹里亜の部屋に仕掛けていた隠しカメラに、彼女が自殺するまでの一部始終が映っていたんす。樹里亜がまるで顔を洗うみたいに灯油を顔にかけたあと、顔からコンロの火に突っ込む様子が」

「顔からってすごいわね。私だったら怖くて絶対に無理」

「しかも樹里亜の場合は目からっす。左の眼球周辺の損傷がとくに激しかったんで」

「文字通りの目玉焼きね」と鏡香が物騒な相槌をうった。

「隠しカメラって、盗撮していたってことですか?」十和が訊く。

「そう、林は樹里亜のストーカーだったんすよ。毎日毎日カメラで彼女の私生活をのぞき見して、それを日記に書きつけていた。部屋にも何度も侵入していたみたいです。そういうわけで警察は、樹里亜の自殺をカメラで見てしまった林が、ショックで後追い自殺をしたと結論づけたって感じっす」

「それって恋愛感情からのストーカーですか? それとも悪意からのストーカー?」

 十和の言葉に鏡香が首を傾げた。「なにそれ。どういう意味?」

「アパートの前で六車樹里亜の名前を聞いたときに、やけに聞き覚えのある名前だったから変だなって思っていたんですよ。それであとから調べてみたら彼女、何年か前におきたいじめ事件の首謀者でした」

「本当かそれ」佐神は急に興味がわいてきたのか、キャスターつきの椅子をゴロゴロ転がしながら三人のもとにやってきた。

 波木が頷いて、彼に言った。「八年前に兵庫県でおきた女子高生飛び降り事件、覚えていませんか。ネットでの犯人探しが過熱して、首謀者だけでなく関係ない人の住所までさらされて、かなり問題になってたんすけど」

「そういえばあったな」と佐神。「東京に引っ越してきていたのか」

「地元にはいられないでしょうからね。日記を読む限りでは、林は樹里亜に恋愛感情を抱いていたみたいっす。彼女がネットで誹謗中傷されているのを知って、『俺が守るんだ』って一人で燃えあがっていた感じで」

「おいお前、まさかその日記を持ってきたなんて言わないよな」

「あら、よくわかったわね」鏡香はそう言って鞄から取り出した大学ノートを机に置いた。「少し引っかかる点があるから、二人にも読んでほしいのよ」

「何が引っかかるんですか」十和が尋ねる。

「それを先に言っちゃうと面白くないでしょう」鏡香は人差し指を唇の前に立てて言った。「最初の方は飛ばしてくれて構わないわ。林さんの様子がおかしくなる少し前──九月頃から読んでみて」

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