その通りに立ち並ぶ飲食店は昨日のお祭り騒ぎなどまるでなかったかのように、いつも通りの日常に戻っていた。ピカピカ光る電飾を巻きつけたモミの木は倉庫に仕舞われ、店先に並んでいたサンタクロースとトナカイの人形は、いつの間にか姿をくらませていた。昨日の夜、赤い帽子をかぶり、鼻を真っ赤にしながら店先でチキンを売っていた店員もいない。

 十和は夢から覚めたあとのような、その通りを歩いていた。

 スマートフォンをいじりながら向こうから歩いてくるミニスカートの女と、ぶつからないよう道の端に移動する。彼女とすれ違う時に、十和は彼女の耳にぶら下がっているワイヤレスイヤホンを、腹立たしいような羨ましいような気持ちで見つめた。

 十和も十代の頃は彼女みたいに大音量の音楽が流れるイヤホンを耳にさし、平気な顔で外を歩くことができた。けれどあの事件以降はそんな真似はできなくなってしまった。ネズミのように常にビクビクしながら周囲の音に耳をそばだて、警戒するのが当たり前になってしまった。怪しい動きをしている者はいないか、後ろからつけてくる足音はないか。

 十和はショーウインドウに映った自分の姿を見た。白と紺のスタジアムジャンパーにカーキ色のカーゴパンツ。服の趣味もすっかり変わってしまった。あの日以来、肌が露出する服やボディラインが出る服は着ていない。それに胸元まであった髪もバッサリ切った。

 要するにあの女がつけていたイヤホンは、彼女がそういった警戒とは無縁の人生を送ってきたのだという証明なのだ。

 古本屋の角を右に曲がったところで、十和ははっと目を見開いてたたらを踏んだ。ちょうど同じように角を曲がってきた男とぶつかりそうになったからだ。冷たい手で心臓をわしづかみにされたような気がして、一瞬息ができなくなった。

 男が怪訝な顔で十和の脇を通り過ぎて行く。

 男の足音が完全に聞こえなくなってはじめて、十和は長いため息をついた。それでもまだ恐怖の余韻は色濃く残っていた。心臓が早鐘をうち、冷や汗が首筋を伝った。その時になってようやく、自分がポケットの中でスタンガンを握りしめていたことに気がついて苦笑した。

 じっとりと汗ばんだ手の中にあるゴツゴツした無機質な手触りが、二十歳になったばかりの夜に受けた、あの屈辱を思い出させる。

 ──ああ、クソッ。もう五年も前の話なのに。

 十和は厭な思い出をかき消すように頭を振ると、また歩き始めた。

 飲食店が立ち並ぶ通りの喧騒から少し離れた場所に、ひっそりとたたずむ三階建てのビルの前で足を止める。十和の右手はまだポケットの中にあった。一階の喫茶店から漏れてくるコーヒーの香りを嗅ぎながら外階段を駆け上がった。わざと大きな足音を立てているのは、先ほどの恐怖をごまかすためだ。

 二階の扉には佐神探偵事務所と書かれたプレートが掲げてある。

 十和はその扉をノックもせずに押し開いた。

「おはようございまーす」

 部屋に一歩足を踏み入れるなり、彼女は眉間にしわを寄せた。部屋の中がアルコールと煙草の臭いで充満している。昨日掃除したばかりの床の上には競馬新聞や空になったおつまみの袋、破れた馬券などが散乱していた。そして探偵事務所の主であり、この惨状を生み出した犯人でもある佐神は、ソファの上で大いびきをかいていた。

 十和は事務所にあるすべての窓を開けた。冷たい朝の空気と、眼下の道路を走る車のエンジン音が流れ込んでくる。暖房の効きすぎた部屋にはちょうどいい。それから彼女は棒状にくるくる巻いた競馬新聞で、佐神の額を叩いた。

「いてっ…」佐神が顔をしかめながら上体を起こす。ただでさえボサボサの髪が、寝癖でさらに爆発している。「なんだよ、朝っぱらから」

「スーツで寝ないでって、何回も言いましたよね、私? 誰が洗濯すると思っているんですか」

 佐神は今はじめて気がついたような顔で自分の服を見下ろした。ジャケットとパンツがしわくちゃなのはいつものことだから良いとして、問題はワイシャツだった。三日前にクリーニングに出したばかりのワイシャツには、しょうゆの染みがこびりついていたのだ。

 もじゃもじゃ頭をかきながら佐神が言う。「参ったな」

「私のセリフです」

 十和は馬券の屑をホウキで集めはじめた。なぜこの人はいつも片づけたそばから散らかしていくのだろう。年代順に並べておいた書棚の書類はいつの間にかバラバラになっているし、シンクにはビールの空き缶がいくつも転がっている。佐神のデスクに至っては目も当てられぬほどの散らかり方をしていた。事務所中から集まった埃とゴミのパーティー会場、あるいは混沌。

 たった一日でここまで汚せるのは、むしろ一つの才能なのでは?

「いくら負けたんですか」十和は、掃除の邪魔にならないようにソファの上で三角座りをしていた佐神に訊いた。「その顔だと三万円?」

「まさかお前、また俺のパソコンをハッキングしたんじゃないだろうな」

「そんなことしなくたって分かります。ほんと何考えてるんですか。ただでさえ経営がかつかつなのに、競馬だなんて」

 佐神はかつて警視庁捜査一課の刑事として働いていたのだが、三年前にとある事件がきっかけとなり辞職。その後この佐神探偵事務所を立ち上げた。しかしいざ立ち上げてみたものの、集客はいま一つだった。いや、それどころか今月分の給料がいまだに振り込まれていないほど、経営は火の車なのである。

 佐神の警察時代の知り合いや雑誌記者の友人などから仕事を回してもらうのだが、なぜか依頼人はみんなこの事務所を訪れた途端、落ちつきをなくし、そそくさと帰ってしまう。

 佐神の人相の悪さや酒臭い事務所、床の上に散乱している千切れた馬券など…。数えあげればきりがないほどの原因が、依頼者の足を遠ざけているのだ。それなのに佐神は一向に気にする気配がなく、ゆうゆうと酒やギャンブルを楽しんでいるのだから救いようがない。

「競馬で勝ったら赤字が埋まるだろ」佐神が子供のように唇を尖らせる。

 十和はなにも言い返さなかったが、その顔にははっきりと軽蔑の色が浮かんでいた──これが四十七歳の男の思考?

 佐神探偵事務所の扉が開いたのは、ちょうどその時だった。

 反射的に二人の視線がそちらに集まる。

 扉から入ってきた女は二人から注がれる視線に一瞬だけ目を瞬かせたあと、にっこりと微笑んだ。

「あら、そんなに見つめられると照れるじゃない」

「鏡香さん!」十和の顔がぱっと輝いた。

「久しぶりね、十和ちゃん。一か月ぶりかしら」石川鏡香が長い指で前髪をかき上げた。艶のある黒いショートカットの髪は光を反射して輝いた。佐神と年齢が変わらないはずなのに、彼女はいつでも若々しい魅力にあふれている。といってもそれは無理な若作りによって生み出されたものではない。彼女の素晴らしい年の重ね方によって内側からにじみ出る、天性のものだ。

「はいこれ、二人に。ちょっと遅れたけどクリスマスプレゼント」鏡香は十和に赤い紙袋を手渡した。中身はクッキーの詰め合わせだ。それから彼女は不機嫌を隠そうとしない佐神に向かって言った。「あなた、また人相が悪くなったんじゃないの? 捜査一課を辞めてやっと丸くなると思ってたのに、どうして前以上に目つきが悪くなってるのよ。そんなんじゃ依頼人が来ないわよ」

 佐神はその小言を、自分の耳に指を突っ込むことでシャットアウトした。

「もしかして執筆活動がひと段落したんですか」十和が訊く。たしかここ最近、鏡香は来年に出版する予定の実話怪談本の執筆作業に追われていたはずだ。メッセージを送っても既読にすらならなかったほどに。

「ハロウィンもクリスマスも返上で書き続けて、やっと今朝、脱稿したのよ。もう今回ばかりは本当に死ぬかと思った」

「怪談作家って大変なんですね。あ、この前に出た本、すごく面白かったです。ええっと…、なんて本でしたっけ。ど忘れしちゃった。怪異なんとか…」

「怪異鬼譚?」

「そうです、そうです。それに載っていた『剥がれる』っていう怪談が、もう本当に怖くて。しばらく夜中にトイレに行けませんでした」

「あら嬉しい」鏡香は十和の頬を両掌で包み、頬ずりをした。「疲れた時は読者からのポジティブな感想に限るわ。五臓六腑にしみわたる」

「冷たい手」顔をしかめた十和が鏡香の手を優しく払い除けた。「温かいコーヒーを淹れましょうか。昨日の残りでよければケーキもありますよ」

「必要ない」佐神が口を挟んだ。「こんな女に飲ませるくらいならトイレに捨てた方がましだ」

「そんな言い方ないでしょう」と十和。

「どうしてあなたは、いつもいつも私のことを邪険にするわけ?」

「どうして?」佐神が上ずった声を上げる。「まさか心当たりがない、なんて言わないだろうな?」

 鏡香は片方の眉を上げながら肩をすくめた。まったくない、という意味のジェスチャーらしい。

 佐神の黒目がぐるりと回って天井を向いた。十和には読心術の能力はなかったが、佐神の考えていることが手に取るようにわかった──正気か、この女?

「十和ちゃん、何か知ってる?」

「え、えーっと…どうでしょうね」十和はあいまいな笑みを浮かべた。

 佐神と鏡香は元夫婦である。八年前に離婚したのだが、その別れ方はあまり良いものではなかった。鏡香がよそに男をつくり、離婚届を置いて家を出て行ったのだ。しかも相手は佐神とは犬猿の仲の弁護士だったので余計に質が悪い。そのナントカという弁護士はこれまでに何度も、佐神が検挙した犯人を無罪にしてきた男だった。

 そういうわけで佐神は未だにその時のことを根に持っているのだ。

 とはいえ佐神にも非がまったくないというわけではない。

 当時、捜査一課に勤めていた彼は事件が立て込むと捜査本部に泊まり込み、なかなか家に帰ってこなかった。結婚記念日にも誕生日にも。半月以上帰ってこないこともざらだった。

 だから、一人きりのリビングで夫の帰りを待っている鏡香の姿を想像すると、十和はとても鏡香を責める気にはなれなかったのだ。

「今日はどうしたんですか」十和はつとめて明るい声で話題を変えた。「もしかして依頼とか?」

「残念だけどそうじゃないの。ちょっと十和ちゃんを借りに来たのよ」

「私ですか?」

「今から怪談の取材で人と会う予定だったんだけど、一緒に来るはずだった男の子が急に熱出しちゃったのよ。だから十和ちゃんに一緒に来てほしいの」

「一人で行けばいいだろ」

「でもその人の自宅に話を聞きに行かなきゃいけないのよ。詳しくは聞いていないんだけどその人、怪異のせいで外に出られないらしくて。一人暮らしの男性の家に女が一人で行くのはちょっと、ねえ?」鏡香が十和の肩を組んだ。「それにメールの文面からして、精神的に少し不安定っぽいし。お願い、十和ちゃん。来てくれないかしら」

「大丈夫なんですか、その人?」

「ん-…、多分」怪訝な目を向ける十和に鏡香はにっこり微笑んだ。「よし。行こう」

「ちょっと待て、何がよしだ。うちの助手をおかしなとこに連れて行くな」

「じゃあ、あなたも一緒に来てよ。元刑事が一緒なら私たちも心強いわ」

「誰が行くか。俺も、十和もだ」

「あら、そう。残念だわ」鏡香は自分の頬に手をあてた。眉間には悲しげな皺がよっている。「しょうがない。私一人で行くしかなさそうね」

「そうは言ってないだろ」と佐神。

「なんなのよ、いったい? 一人で行けと言ったり、行くなと言ったり」

 鏡香は腰に手を当てて佐神を見た。彼はなにも答えない。

 しばらく続いた無言の睨み合いは、元妻のほうに軍配が上がったようだ。佐神は大きなため息をついて言った。「俺も行く」

「まあ、本当? ありがとう、助かるわ。やっぱり持つべきものは元刑事の元旦那ね」

 それと私、お酒飲んで来ちゃったから運転よろしくね、とお願いする鏡香に十和は思わず吹き出してしまった。

 鏡香は佐神にばれないように、上に向けた掌を円を描くようにくるくる回しながら、十和に向かってウインクをした。すべては掌の上、という意味らしい。



 *



 二日酔いでズキズキ痛む頭に顔をしかめながら、佐神は車を降りた。冷たい風にあおられ、思わずコートの襟をかき合わせる。

 やっぱり来るんじゃなかった。

 思い返してみると鏡香の口車にうまく乗せられた気がしてならない。あいつは、十和を借りたい、なんて言っていたが本当の狙いは佐神自身だったのでは? そんな彼の思案をよそに元妻と助手はさっさと駐車場を出て、道路を挟んだ向かいにあるアパートの方へ歩いている。

 十二分三百円。

 駐車場の看板の文字を読んだ佐神は、大きくため息をついた。

 二階建てで各階に三部屋ずつ、計六部屋あるこぢんまりとしたアパートだった。綺麗なクリーム色の壁とグレーの扉から察するに、比較的最近に建てられたものだろうと思われた。

「何号室だ?」佐神が訊く。

「103。あ、あなたは部屋の前で待っていてくれればいいから」

「ここまで連れてきて何言ってんだ。俺も行く」

「こんな狭いアパートに三人で来られたら困るでしょ。それに」鏡香は、無精ひげが伸びた佐神のしかめっ面を指さした。「あなた、顔が怖いのよ。取材相手が委縮しちゃうから駄目」

「ああそう。この寒さなら、いい酔い覚ましになりそうだ。どうもありがとう」佐神は大げさに両腕をさすったあと、十和に顔を向けて言った。「何かあったら呼べよ」

「何もありませんって」十和が苦笑する。

 鏡香が「過保護ねえ」と言いながらインターホンを押した。

 しかし反応がない。部屋の中からは衣擦れの音すらしなかった。

「時間を間違えたんじゃないですか」

「失礼ね。いくら徹夜明けでも、そんなミスしないわよ」もう一度インターホンを押してみたがやはり応答はなかった。

 十和がドアノブを回した。すると扉は何の抵抗もなく開いた。「あれ、開いてますよ」

「開いてるわね」鏡香が扉の隙間に顔を入れる。「林さーん。いませんかー?」

「用事があって出かけたとか」と十和。

「外に出られないって言っていたのよ、あの人。それに靴もあるし」

 三和土には男物のシューズが数足と革靴が一足、転がっていた。それらの上には焼き肉店や美容院などのチラシが大量に散乱していた。郵便ポストの取り出し口の蓋が外れていて、投函されたチラシが三和土に落ちるようになっていた。

 靴箱の上に置いている鏡は、なぜか黒い塗料で塗りつぶされていた。

 リビングへと続く扉は閉め切られているため、中の様子をうかがうことができない。しかし部屋の住人が精神的に病んでいるということはわかった。

「ねえ、なんか変な臭いしない?」鏡香が鼻をひくひくさせながら言った。「ほら、するよね?」

 彼女に促されるまま嗅いでみると、たしかに妙な臭いがした。

 これは、糞尿の臭いか?

 捜査一課にいた頃の記憶がよみがえる。佐神の脳裏にちらりと嫌な予感がよぎった。

「ちょっとここで待ってろ」

 佐神は三和土の端っこで靴を脱いで部屋に上がった。

「林さん。入りますよ」

 念のため声をかけてから扉を開く。開けた瞬間、糞尿の臭いが鼻をついた。

 佐神はその部屋の異様さに絶句した。

 暗い部屋の中央に男が倒れていた。三十代半ばくらいだろうか。中肉中背の男だった。

 仰向けの男の首筋には深い裂傷がある。モスグリーンのカーペットは流れ出た多量の血によって、暗褐色に変化していた。

 眼窩がぽっかりと空洞になった彼の右手のそばには果物ナイフと、赤く濡れた眼球が二つ転がっていた。強膜が破けてひしゃげた眼球は佐神の方を向いていた。

 一見したところ、男の手には刺し傷や切り傷──いわゆる防御層と呼ばれるものがなかった。つまり犯人と争った形跡がないということだ。

 薬で眠らされている間に何者かによって殺された、という線も考えられる。しかしその可能性は低いだろうと佐神は思った。男の腕を赤黒く染めている多量の血液や、食いしばりすぎてひび割れた歯、薄い笑みをたたえた口元などが、この惨状が彼自身の手によってつくられたことを物語っていたからだ。

 箸で魚の目をくり抜くように、自分の目をナイフで抉り出している男の姿を想像して、背筋が寒くなった。

 佐神は遺体の足首を少し動かしてみた。死後硬直は始まっていない。ということは、死んでからそんなに時間が経っていないということか。

 室内を見回す。男の死に方もさることながら、室内も異様そのものだった。

 鍵がかかった掃き出し窓には、夥しい数の新聞やチラシなどが無造作に貼りつけてある。まるで何かから目隠しをするように。朝だというのに部屋の中が暗いのは、このためだった。クローゼットの横に立てている姿見もテレビ画面も台所のシンクも、なぜかペンキのような黒い塗料で塗りつぶされていた。いったいこれが何を意味するのか佐神には想像もつかない。

 部屋の隅にはゴミ袋が山積みになっていた。鏡香が、取材相手は外に出られない、と言っていたのは本当のようだ。机の上にはパソコンとノートが一冊おいてあった。

「佐神君、大変っ」

 ふいに後ろから声をかけられ、佐神は振り向いた。鏡香だった。めずらしく慌てた様子だ。

「外で待ってろって言っただろ」

「そうじゃないのよ。隣の人が…」そこで鏡香は言葉を切り、きゃっ、と短い悲鳴を上げた。部屋の惨状を、驚きに見開いた目で見つめている。

「お前は外に出て警察を──」

 佐神の言葉に重なるように鏡香が上ずった声をあげた。「やだ、この部屋もなの?」

「はあ?」

「隣の部屋の人が死んでいたのよ。それであなたを呼びに来たのに…」

「どういうことだよ、それ」

 佐神は慌てて外に飛び出した。冷たい風が吹きつけた。

「あっ、佐神さん」アパートの前に座っていた十和が顔を上げた。彼女の隣には五十代くらいの中年の女性が、魂が抜けたような顔でへたり込んでいる。十和は女性の背中をさすりながら、102号室のドアを指さした。「リビングで娘さんが亡くなっていました。さっき警察に通報したので、十分ほどで着くと思います」

「あなたが部屋を入ったすぐあとに102号室から、その女性が這い出てきたのよ」鏡香が言う。「すごく取り乱していたから理由を聞いたら、娘が部屋で死んでいるって」

「確認したのか」

「十和ちゃんと二人で。たぶん焼身自殺じゃないかしら」

 佐神は102号室の扉を開けた。

 室内には焦げた臭いが充満していた。これだけ焦げ臭ければ火災報知器が鳴るはずだが、電源を切っていたのだろうか。

 三和土に並んだ靴の上にはうっすらと埃が積もっている。この部屋の住人もしばらく外に出ていないようだ。靴箱の上に置かれた鏡は、塗料で真っ黒に塗りつぶされていた。隣の部屋と同じだ。

 うなじの産毛がちりちりと逆立った。嫌な予感がした。

 開け放たれた扉の向こうで、仰向けで倒れている女の足が見えた。

 佐神は鼻と口を手で覆いながら短い廊下を進んだ。

 部屋の中は隣とほぼ似たような状況だった。掃き出し窓もキッチンのシンクも姿見もすべて、ペンキのような黒い塗料で塗りつぶされている。隣と違い、部屋の中にはゴミ袋の山はなかったので、ゴミ出しくらいはしていたのだろうか。

 机の上にあった水道の領収書の氏名欄には、六車樹里亜と書かれていた。

 暗い部屋の中はタンパク質が焦げた臭いで満ちていた。

 女は薄緑色のカーテンに包まれて死んでいた。ミノムシのようにカーテンにくるまっている。カーテンから突き出た足は血の気のない灰白色をしているが、それ以外の部分──顔と上半身は真っ黒に焦げていた。

 とくに顔の損傷が著しい。ひび割れた黒い皮膚の隙間からピンク色の肉がのぞいていた。死んでからさほど時間が経っていないらしく、その割れ目から薄く湯気が立ち上っていた。

 女の身体からは焦げた臭いに混じって灯油の臭いがした。

 佐神は部屋の中を観察した。

 荒らされた様子もなく、玄関の鍵もこじ開けられた形跡はなかった。クローゼットや洗面所、トイレなども見て回ったが不審な点はない。解剖して詳しく調べてみないことにはわからないが、自殺の可能性が高いように思えた。

 カーテンには防炎と書かれたタグがついていた。コンロの周辺の壁が煤で黒く汚れている。点火つまみは斜めになったままだったが、火はついていない。安全装置が働いて自動的に消えたのだろう。

 キッチンの隅には赤い灯油の容器があった。

 状況から推測するに女は灯油をかぶって火のついたコンロに頭を突っ込んだ。しかし苦痛に耐えられず、女は防炎カーテンで身体をくるむことで火を消そうとした。幸か不幸か火は消えたが女は助からなかった…。というところだろうか。

 不謹慎な言い方ではあるが、大きな火災にならなかったのが唯一の救いだ。

 佐神は一通り見終えると部屋を後にした。

 本当はこの二件の不審死について、もっとよく調べたいという気持ちがあった。けれどこれ以上現場を荒らしてしまうと捜査の邪魔になる。自分はもう捜査一課の人間ではないのだ。

 外に出ると、先ほどの中年女性がアパートの外階段に座っているのが見えた。彼女のそばには十和と鏡香がいる。女性は佐神と目が合うと、ぎこちない仕草で会釈した。さっきよりはいくらか落ち着いたらしい。

「六車樹里亜さんのお母さんですか」佐神は訊いた。

「六車?」と十和が怪訝そうに首を傾げると、女性はぎくりと肩を震わせた。

「あの、どうして娘の名前を…?」

「机の上に置いてあった水道の領収書に名前がありました」

「ああ、領収書…」なぜか母親は、佐神の言葉に安堵した様子でため息をついた。「樹里亜は私の娘です。昨日から娘と連絡がつかないので様子を見に行ったら、あんなことに…」

 声を震わせる母親の背中を十和がさすった。

「鍵は開いていましたか」

「閉まっていました。いつもならチェーンがかかっているのに、今日はかかっていなくて。変だなと思って中に入ったら娘が…」

「失礼ですが、ここ最近娘さんに変わった様子はありませんでしたか」

「娘が二十五歳の誕生日を迎えてすぐの頃だから、二か月くらい前だったと思います。ある日突然、私のもとに電話をかけてきたんです。『お母さん、助けて』って。慌てて娘の部屋に行ったら、家の中がおかしなことになっていました」

「あの窓やシンクが塗りつぶされていたのは二か月前からですか」

 佐神の言葉に母親は頷いた。「理由を聞いてみても支離滅裂な答えしか返ってきませんでした」

「どんな答えですか」と鏡香。

「見てるとか怖いとか…、だったと思います。ごめんなさい、ごめんなさいって何度も謝るばかりで、うまく聞き出せませんでした」

「それから二か月間、娘さんは引きこもりの状態だったのですか」佐神が訊く。

「そうですけど…。どうしてそれを?」

「娘さんの靴にはうっすらと埃が溜まっていました。それとクローゼットの中に吊るされていたのは秋物ばかりで、衣替えをした様子がありませんでした。それで、もしかしたら娘さんはしばらく外に出ていないのではないかと」

 母親は感心した様子で、その通りです、と答えた。

「つらいなら実家に帰っておいで、と言ったんですが、聞き入れてもらえませんでした。食料品などの買い出しはネットで済ませていたようです。私は時々あの子の部屋を訪れて、ゴミ出しや掃除なんかをしていました。あの子、私が部屋に行っても全然目を合わせてくれなくて……」

 母親は両手で顔を覆った。小さな肩が震えている。

 佐神と十和と鏡香の眉間には一様に皺が寄っていた。

 聞けば聞くほど、隣人の林と状況がそっくりではないか。

 外に出られないという点、窓やシンクを黒く塗りつぶしていた点、何かにおびえていた点。そして、無残な死を遂げたという点。それも同じ日に。

 本当に自殺なのだろうか。佐神の胸中にそんな疑いが湧いてきた。なにか見落としているものがあるのでは?

「六車さん」鏡香は母親が落ち着いた頃合いを見計らって声をかけた。「娘さんの様子がおかしくなってしまった原因に心当たりはありませんか」

「原因…」母親の目がそろそろと宙をさまよった。娘の死に直面したときとは別の動揺が、その顔に浮かんでいるように思えた。彼女はしばらく唇を震わせたあと、首を横に振った。「わかりません」

 嘘をついているのは明らかだった。

 母親はそれ以上の詮索を拒むかのように、両掌に顔をうずめ黙り込んでしまった。

 しんと静まり返った通りの向こうから、サイレンの音を響かせながら二台のパトカーがやって来るのが見えた。パトカーがアパートの前に停まる。

 助手席から降りてきたスーツの男は、佐神の顔を見て驚きに目を見開いた。

「佐神さんじゃないっすか。どうしてここに?」こちらに駆け寄ってきた男は、佐神のうしろにいる三人の姿を見て、再び驚いた表情を浮かべた。「それに十和ちゃんと鏡香さんまで」

「お前こそどうしてパトカーに乗ってるんだ。異動したのか?」佐神が訊く。

「まさか。野暮用で藤倉交番を訪ねていたら、無線が入ったので同乗させてもらった次第っすよ」男は佐神に向かって芝居がかった仕草で敬礼した。「不肖、波木。藤倉署強行犯係の刑事として日々邁進中であります。ちなみにこの間、昇任して巡査部長になりました」

 波木のさりげない自慢を佐神は「ふうん」と受け流した。

「ところで死体があったと聞いたんすけど、通報者はどなたですか」波木はポケットから黒い手帳を取り出しながら訊いた。

「十和ちゃんが通報したのよ」と鏡香。

「マジすか」波木の表情に心配の色が浮かんだ。しかしそれはほんの一瞬のことだった。彼は、刑事は他人に表情を読まれてはいけない、という現役時代の佐神の教えを忠実に守ったのだ。波木は十和に訊いた。「どんな様子でした?」

「102号室でこちらの女性の娘さんが亡くなっていました。たぶん焼死だと思います。第一発見者も彼女です」十和が答える。「それと隣の103号室でも男の人が亡くなっていたみたいで。そちらの方は見ていないのでわかりません」

「えっ、二つの部屋で同時に死体が見つかったってことっすか?」

 十和が頷く。

 波木は慌てた様子で、102号室の前で作業している制服警官に大声で指示を出した。「103号室にも規制線を貼っとけ!」それから波木は外階段の近くにいる三人に言った。「ご足労かけて申し訳ありませんが、署のほうでお話を聞かせてもらえませんか。あ、佐神さんはちょっとここにいてください」

 三人は制服警官に連れられて歩いて行った。

 波木は彼女たちがパトカーに乗り込むのを確認してから口を開いた。

「現場、どんな感じでした?」

「102号室で死んでいたのは二十五歳の女。現場の状況から推測するに、頭から灯油をかぶったあとコンロに頭を突っ込んだらしい。103号室の方は三十代半ばの男。自分の眼球を果物ナイフで抉り出したあと、頸動脈をかき切って死んだと思われる」

「抉り出したって、自分でっすか?」

「おそらく。まあ詳しく調べてみないことにはわからんが、二人とも自殺の可能性が高いだろう」

「マジすか」波木は細い目をさらに細くして佐神を見た。信じられない、と彼の顔には書いてあった。「二十代の女性が自殺の方法に焼身自殺なんか選びますかね。それに目玉を抉るって…。めちゃくちゃ事件の臭いがするんすけど」

「俺だって信じられないさ。しかし現場には殺人の痕跡が認められない」

 波木は「うーん」と唸り声をあげ、手帳の角で頭を掻いた。「ちょっと信じがたいっすけど、佐神さんが言うならそうなんでしょうね」

「まあ、俺の意見なんかには縛られずに、お前の思うように捜査したらいいさ」

「頑張ります」波木は佐神の言葉に力強く頷いたあと、少し言いづらそうに声を落とした。彼の眉間には皺が寄っている。「佐神さん。実はお耳に入れておきたいことがありまして」

 佐神は目顔で促した。

「明日、矢代が出所するそうです」

「矢代が?」佐神の頬がピクリと動いた。

 昔よく通っていた、あの昔ながらの定食屋の風景が胸中に浮かんだ。

 あの頃の佐神はまだ現役で、警察の花形部署である警視庁捜査一課に所属する刑事だった。彼は東京都の藤倉署管内で起きた連続殺人事件の捜査にあたっていた。そして彼とバディを組んでいたのが、藤倉署の刑事課に配属されたばかりの二十四歳の波木だった。

 その頃の二人は、藤倉駅の近くにある定食屋で昼食をとることが多かった。

 はじめて店に入ったのは、波木の提案があったからだった。佐神は食事なんて腹に溜まればなんでもいいと思っていたのだが、波木がしつこく誘うので、仕方なく付き合ったのだ。

 いつもは佐神の言うことを素直に聞く波木が、なぜそんなに食い下がるのか不思議だった。しかしその疑問は店に入った瞬間、氷解した。味ではなく店員が目当てなのだと。

 当時その店でアルバイトをしていた十和は、まだ十九歳だった。髪も今のように短くなく、若い女性らしい服装と化粧で身を包んでいた。彼女を見る波木の呆けた顔を、今でも覚えている。

 それから事件が解決したあとも佐神はその定食屋に通い続けた。波木のような理由からではない。主人の作るカレーライスの味が実家の味と似ていたからだ。それに十和や、時々顔を合わせる波木と会話するのも楽しかった。

「五年っすよ。…たったの五年」波木が言った。「あいつが刑務所から十和ちゃんに宛てた手紙に書いてあったこと、覚えてますか」

「出所したら謝罪に伺わせてください」

 たしか三年前、十和のもとに届いた手紙にはそう書かれていた。一見すると反省している風にも見えるが、矢代に限ってそれはないだろう。

 あの謝罪文は矢代流の脅し文句なのだ。──またお前に会いに行く。

「謝罪」波木が吐き捨てるように言った。「悪かったなんて少しも思っていないくせに。どうせまた──」そこで波木は言葉を飲み込んだ。

 周囲がまた騒がしくなった。パトランプを回転させながら黒のスカイラインが、アパートの前に停まった。藤倉署の刑事が到着したらしい。

 厚く垂れこめた雲からは、ぽつりぽつりと雨が降りはじめていた。いくつもの雨滴が灰色のアスファルトを黒く染めていく。あの日と同じ、雨。

 矢代の軽薄そうな顔が脳裏に浮かんだ。

 佐神の目をまっすぐに見つめて波木は言った。

「俺も十和ちゃんのことを守ってあげたいと思ってますけど、そばにいられないんで。だから佐神さん、頼みますよ。絶対に彼女から目を離さないでください」

「わかってる」

 佐神はコートの襟をかき合わせながら、ぶっきらぼうに答えた。波木に言われなくたってそんなことは百も承知だった。佐神はこれまで一度も十和から目を離したことはない。なぜなら十和が矢代にレイプされた原因は自分にあるのだから。


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