剥がれる
『剥がれる』 石川鏡香
「念願かなって開いたカフェだったんです」
そういって話を聞かせてくれたのは、悟志さんという四十代の男性だった。
彼は大学を卒業したあと、イラストレーターとして大阪府にあるゲーム関係の会社に就職した。憧れて入社したものの、きつい仕事ばかりまわされるうえに残業が多く、会社に泊まり込むこともしばしば。仕事をやめようかと思ったことは一度や二度ではなかった。けれど持ち前の忍耐力と負けん気でなんとか食らいついていたのだという。
その頑張りもあってか悟志さんの実力は次第に周囲に認められ、会社からも取引先からも一目置かれる存在となっていった。その後、悟志さんは自分と同じ神奈川県出身で会社の受付嬢だった亮子さんと結婚したのを機に会社を独立した。
「独立してすぐの頃はどんな仕事も引き受けていました。会社員時代に知り合った人たちから仕事をもらえてはいたんですけど、なんだか不安で。とにかく人脈を築くことに全力を注いでいました」
会社員をしていた頃よりも多忙だったが、亮子さんの献身的な支えのおかげで頑張ることができた。仕事が軌道に乗ってからは忙しさも落ちつき、亮子さんと余暇を楽しむ機会が増えた。それと同時に、彼の胸の中である夢がふくらみ始めた。
田舎でカフェを開きたい。
悟志さんは神奈川県出身だし、祖父母の実家は東京である。就職のために家を出たあとも大阪の都心で暮らしている。一度も田舎というものを経験したことがなかったのだ。そのため彼は田舎暮らしというものに強い憧れがあった。
ちょうどその頃はテレビドラマの影響もあり、古民家カフェという言葉が流行りはじめた時期でもあった。そこで悟志さんは思い切って、自分の夢を亮子さんに打ち明けることにした。
「妻は根っからの都会っ子なうえに虫が苦手だったので、かなり反対されましたよ」
難色を示す亮子さんに、悟志さんはあの手この手で説得を試みた。事業計画書を作ってプレゼンするのはもちろんのこと、試作メニューを食べさせてみたり、実際に古民家カフェに連れて行ったりもした。会社員時代に培った忍耐力がなせる業である。
そしてついに亮子さんは折れた。
それからしばらくして、二人は京都府のとある古民家に引っ越した。二人が四十二歳のときだった。
広い木造二階建ての一軒家で、庭の隅には立派な蔵が鎮座している。一階がカフェで二階が居住スペースになっている。
そこは彼が以前から目をつけていた家だった。田舎ではあるが車で少し行けば都市部に出る。近くには観光スポットもあるので集客も見込めるだろう。カフェを開くのにはうってつけの場所だ。
「いい感じに古びていて情緒があって、しかし内部はリノベーションを済ませてあるので奇麗で使い勝手もいい。まさに理想の家でした。まあ、蔵をのぞけばの話ですけど」
庭の隅にある蔵はリノベーション費用を浮かすために放置していたのだ。中には前の住人が集めていた物が残ったままだと聞いていた。
引っ越した初日、悟志さんは蔵の中を見てみようと思った。何が入っているのか純粋に気になったし、これだけ広い家に住んでいた人の持ち物なのだから、ひょっとすると掘り出し物があるかもしれない。
そんな下心もありつつ、悟志さんは蔵の扉を開いた。埃っぽい臭いが鼻をつく。入り口から差し込む日の光によって、闇に沈んでいた蔵の内部が照らし出される。
悟志さんはぎょっと目を見開いた。
たくさんのお面が蔵の壁一面を覆っていたからだ。
般若のお面、翁面、女面、獅子頭、ひょっとこのお面、そのほか赤や緑の彩色を施した外国のお面など、大きさも形も様々な種類のお面が所狭しと並んでいた。
薄暗く埃っぽい蔵の中に広がるその光景は異様そのものだった。
そのとき悟志さんの視線が、乱雑に積みあがった行李の上に置いてある、古い桐箱に止まった。ノートパソコンくらいの大きさで、高さは十センチほど。色あせた紫色の紐が結ばれている。
なぜかわからないが、その箱に入っているのはお面であると確信した。それと、中を見てはいけないということも。
桐箱からは、壁にかかったお面よりももっと不気味な何かが感じられたのだ。ありきたりな表現で言うと、恨みや念といった類のもの。とにかく近寄ってはいけない気がした。
悟志さんはすぐに蔵の扉を閉め切って使用禁止にした。亮子さんはもともとあの蔵を使うつもりはなかったらしく、理由も聞かず、すんなりと受け入れてくれた。
「はじめのうちは何か起こるんじゃないかとビクビクしてたけど、とくに何も起こりませんでした。カフェの仕事が忙しくて、蔵のことは次第に頭の隅に追いやられてきました」
カフェの売り上げは上々だった。亮子さんが開発したSNS映えするメニューが口コミで広がり、お客さんがわざわざ遠方から来てくれるようになった。
「実際にやってみると俺よりも妻の方が商売がうまくてね。あいつがいなかったら、あそこまで繁盛することはありませんでしたよ」
近所の人たちは、よそからやってきた夫婦にも温かく接してくれた。都会に住んでいた頃は、わずらわしいだけだと思っていた近所づきあいが、こんなに楽しいものだとは思わなかった。ここに来ることをあんなに渋っていた亮子さんも、カフェの経営が楽しいらしく、以前よりも生き生きと若返って見える。
二人は幸せの絶頂にあった。
そんな生活に陰りが出はじめたのは、カフェを開いてから一年ほど経った頃だった。
ある日、悟志さんが接客をしていると、男性のお客さんに呼び止められた。
「なあ、なんか変な音せえへん?」
ほら、聞こえるやろ、と言いながら男性は耳のうしろに手を当てている。
促されるままに悟志さんも耳をすました。
──ぺり、ぺりっ…。
男性の言う通り音はしていた。セロハンテープをはがす時のような、粘ついた感じの音。店内のBGMにかき消されるほどの、かすかな音。しかし演奏が小さくなった時や、曲と曲の合間になるとたしかに聞こえてくる。不快というほどではないが、一度気になってしまうと無視するのは難しいだろう。
「これ、何の音?」
「あー…、換気扇だと思います。最近ちょっと調子が悪くて。すみません」
換気扇が原因ではないというのは自分が一番よくわかっていた。なぜならつい半月ほど前にメンテナンスをしたばかりだったのだから。しかし原因がわかりませんでは客に納得してもらえない。そういうわけで、とっさにそんな嘘をついたのだった。
男性客はいま一つ腑に落ちていない様子だったが、それ以上は何も言ってこなかった。
その日の夜、悟志さんは亮子さんと音の出所を探ってみることにした。音は店を閉めたあとも聞こえている。試しに換気扇や水道の元栓を止めてみたが無駄だった。
二人は二階に上がった。リビング、夫婦の寝室、トイレ、洗面所にも音の原因になりそうなものはない。
物置部屋に入ったときだった。
「あ、音が大きくなったんじゃない?」
先頭を歩いていた亮子さんが振り向いて言った。
たしかに先ほどよりも大きくなった気がする。それでもかすかな音ではあるが。
二人は和室の中を見回した。夏が終わり使わなくなった扇風機や、まだ出番が来ていないこたつ布団、使わなくなった健康器具などが雑然とおいてある。
ここはもともと亮子さんの寝室として使っていた部屋だ。しかし乾燥のせいか、この部屋で寝ると朝起きたときに顔の皮膚がつっぱると言うので、物置として使うようになったのだ。
二人で手分けして探してみたが、やはり音の出所はわからない。もう諦めようかと言おうとしたその時だった。亮子さんが「きゃっ」と悲鳴を上げた。
「どうした?」
亮子さんは、驚いて立ち上がった悟志さんに非難がましい目を向けた。
「やめてよ気持ち悪い。どうしてこんなことするの?」
「えっ、何が?」
いったい何のことを言われているのかさっぱり分からなかった。しかし亮子さんはそうとう怒っているようで答えてくれない。彼女は眉間にしわを寄せて部屋の隅の床を指さしていた。
なに怒ってんだよ。苛立ちながらも悟志さんは彼女の指さした場所に近づいた。
部屋の隅に小さくて白いゴミが、高さ一センチほどの山をつくっていた。一見すると低い盛り塩のようでもある。
埃…、いや、砕いた米か…? それにしては薄っぺらいような…。
そっと指でつまんで顔を近づける。
「うわっ」
悟志さんは慌ててそれを放り投げた。
人間の皮膚だった。
かさかさに乾燥した小さな皮の断片が、山をつくっていたのだ。悟志さんは服の裾で何度も指をぬぐったが、あの乾いた感触は消えなかった。
「なんだよこれ」
「あなたがやったんでしょ。私は絶対に触りたくないから、あなたが片づけてよ」
「だから俺じゃないって」
あなた以外誰がいるの、と語気を強める亮子さんに気圧され、悟志さんはしぶしぶ頷いた。指先に残る感触があまりにも気味悪く、なぜこんなところに皮が落ちているのか、など考える気にもならなかったのだという。
結局その件もあって、音の原因を探るという話はそれっきりになってしまった。
しかし音はその後も止まることはなかった。
一度、業者を呼んでみてもらったが原因はわからなかった。あの音は昼も夜も関係なく鳴りつづける。昼間に厨房で忙しく働いている間はまだいいが、問題は夜だ。くつろいでいる時だろうが寝る前だろうが聞こえてくる。とくに朝起きた時にあの音を耳すると本当にげんなりするのだ。
そんな生活が続くうちに悟志さん夫婦はノイローゼ気味になってしまった。
ストレスのせいで浅くなった睡眠は、二人から余裕を奪っていった。夫婦間での言い争いは日ごとに増えた。そんな店内のぎすぎすした空気を察したのか、次第に訪れる客の数は減っていった。提供する料理の質が落ちたというのも一因かもしれない。
なんとかしなければと思うのだが、どうしても気力が湧いてこない。日々を生き抜くことで精いっぱいだったのだ。
ある日、悟志さんが車で買い出しに出かけた時のことだった。
大型スーパーへと続く道を走っていると、ふと前方にトラックが止まっているのが見えた。トラックはこちらにケツを向けた状態で、道をふさぐように斜めに停まっていた。運転席にも助手席にも人の姿はない。
何かあったのだろうか。悟志さんは車を停めて道路に出た。
その日はとても暑い日で、セミがまったく鳴いていなかった。周囲には自分たち以外、行きかう人も車もない。しんと静まり返った通りに焼けつくような日差しが降り注いでいた。身体にまとわりつく湿気に顔をしかめながら、悟志さんはトラックの方に歩いていく。
トラックから二メートルほど離れたところに子供が倒れているのが見えた。
九歳か十歳くらいだろうか。うつ伏せに倒れているので顔はわからないが、服装からしておそらく男の子。右のふくらはぎから飛び出した白い骨と、あらぬ方向に曲がった右腕が事故のすさまじさを物語っている。コンクリートの上に飛び散った血液は乾きかけていた。
と、悟志さんの足元から低い呻き声が聞こえた。驚いて視線をそちらに向ける。その時はじめて、中年の男が地面にうずくまっていたことに気がついた。男の視線は少年の身体に注がれているが、その瞳は焦点が合っていない。
「ちょっと、あんた。大丈夫か」
男の身体をゆすってみるが、反応は一切なかった。事故を起こした精神的ショックによって虚脱状態に陥っているのだと思われた。
運転手がこうなっている以上、自分がしっかりしなくては。悟志さんは震える手でスマートフォンを取り出した。心臓が早鐘を打っていた。はじめて直面した凄惨な事故の光景に、冷や汗が止まらなかった。
警察か、救急車か、それとも消防車か。いや、それよりもまず息があるかどうか確かめるべきか。
悟志さんはおそるおそる少年のもとに近づいた。コンクリートに飛び散っている血を踏んではいけないような気がして、つま先立ちで歩いた。ふくらはぎから飛び出した白い骨と、赤い血液のコントラストで頭がくらくらした。
悟志さんは少年の傍にしゃがんだ。むっとした臭いが鼻をつく。聞こえてくるのは自分の荒い息遣いだけだ。
仰向けにするために、少年の小さな頭と華奢な肩に手をそえた。痛みを与えないよう彼の身体をそっと持ち上げる。
──ぺり、ぺりっ、ぺりっ…
悟志さんはぎょっとして動きをとめた。
あの音だ。毎日毎日、気が狂うほどほど聞いていたので間違いない。でも、いったいなぜ…。
悟志さんはもう一度、少年の頭を数センチほど持ち上げてみた。
──ぺり、ぺりっ…
音は少年の顔の下から聞こえてきていた。悟志さんの動きに呼応して音が鳴る。
悟志さんは少年の顔を覗き込んだ。
コンクリートによって、大根おろしのように削られた顔の皮膚はほとんどなくなり、赤い筋肉とオレンジ色の脂肪、そして小さな白い歯がむき出しになっていた。どろどろしたゼリー状の眼球が眼窩から飛び出している。その目に光はない。おそらくもう手遅れだろう。
やや凝固して粘性のある液体へと変化した血液が、少年の顔と地面との間で糸をひいていた。血だまりの中に千切れた唇の破片と、剥けた顔の皮膚の一部が落ちていた。
悟志さんは少年の頭を持ち上げた。やはりテープをはがす時のような粘ついた音がする。そして、彼は気がついた。
ああ、そうか。この音だったのか…。
これは乾いた血液が剝がれるときの音だ。粘性を帯びた血液は、少年の顔と地面とをくっつける糊の役割をしている。これが悟志さんの手によって剝がされる時に、例の音が鳴るのだ。
そのことに気がついた悟志さんは心底ぞっとした。
毎日鳴りつづけるあの音と、部屋の隅に積みあがっていた皮膚の山が、線でつながりそうな気がしたからだ。
あの家はもう駄目かもしれない。
炎天下の昼下がり、朦朧とする意識の中で悟志さんはそう思ったという。
それから半年の月日が流れた。悟志さん夫妻はまだあの家に住み続けていた。音は相変わらず鳴りつづけている。
なにか理由があって残っているわけではない。持ち前の忍耐力と負けん気が発揮されているわけでもない。
夫婦間の会話はほとんど絶えていた。亮子さんは店の手伝いをしてくれないので、店のことはすべて悟志さんがやっている。といっても開店休業状態なので仕事などほとんどないが。
この家にしがみつく理由などどこにもない。今すぐにでも引っ越さなければ。
悟志さんは何度もそう自分に言い聞かせるのだが、なぜか気力が湧いてこない。気がつくと店を開け、厨房でぼんやりと天井を眺めている自分に気がつく。天井の向こうにあるのは例の部屋だ。あの部屋には、あれ以来一度も足を踏み入れていない。今も皮が積みあがっているのだろうか。
壁にかけてある鏡に映った自分の顔は、ひどくやつれていた。目の下のどす黒い隈と伸び放題の無精ひげ、への字に曲がった唇。散髪に行ったのはもうずいぶん前だ。
俺、こんな顔してたっけ。
土気色になった頬を掌でなぞる。乾燥した皮膚がぽろぽろと剥がれて床に落ちた。
思えばこの家に来てから自分だけでなく妻も、すっかり顔が変わってしまったような気がする。いや、変わり方で言えば妻のほうがひどいか。
彼女は少し前に顔面神経麻痺を発症していた。顔の右半分だけが、まるで誰かに下から引っ張られているかのように曲がっていた。口角が下がったせいで水もうまく飲めないらしい。
彼女が店に立たなくなったのは、その姿を他人に見られたくないからだろう。妻は日がな一日ソファに座りテレビと会話している。テレビの音量を最大にして、大声でしゃべっているのは、あの部屋から聞こえてくる音をかき消すためだ。
近所づきあいもなくなった。来たときはあんなに優しく接してくれていたのに、今は道で会っても挨拶もない。ただ遠巻きに迷惑そうな目をこちらに向けるだけ。
おかしな家。破れた夢。狂った妻。そして、壊れた自分。
悟志さんはガリガリと頬を掻いた。鱗のような白い皮膚が剥がれて、落ちた。爪の間には白い粉がみっしりと詰まっている。それでも悟志さんは頬を掻きつづけた。
「もう駄目かもしれないな」
独り言をつぶやく。搔きすぎて破れた皮膚から血が出た。
「もう駄目だ。うん、駄目だ。もう駄目だ」
悟志さんは何度もうなずいた。シンクに置いてある包丁を手に取った。光を反射して鋭く光る刃の表面に、頬を血で染めた異様な男の姿が映っていた。
死のう。
一度、決心すると心が軽くなった。どうしてもっと早くにこうしなかったのだろう。悟志さんは自分の間抜けさに苦笑した。頬の痛みがなぜだか心地よかった。
天井を見上げ、首筋に刃を押し当てる。冷たい刃の下で、温かい血液が流れているのが感じられた。
一気に突き刺すのはもったいない。ゆっくり時間をかけて頸動脈を切り裂いていこう。
少しずつ包丁を持つ手に力を込めた。皮膚が破れて血が流れだす感触が掌に伝わってきた。
その時、悟志さんはふと手をとめた。
ちょっと待て。俺はいったい何をしているんだ。
血で汚れた刃先を呆然と見つめる。自分がとてつもなく馬鹿なことをしていたことに気がついた。
俺が死んだら亮子はどうなる? あいつを一人きりにするつもりか? 自殺するなら、まず亮子を殺すべきだろう? どれだけ仲が悪くても長年連れ添った夫婦なんだから。
「死ぬときは二人一緒だ」
そう呟くと、悟志さんは包丁を持ったまま厨房を出た。
二階につづく階段を一歩一歩、踏みしめながら上がっていく。包丁を握った右手はじっとりと汗ばんでいた。踏板が、ぎっと軋む。引っ越してきたばかりの頃はあんなに嬉しかった木のぬくもりが、今はただただ忌々しい。こんな田舎、吐き気がするほど嫌いだ。
上を見あげる。二階まではまだ遠い。まるで死刑台へつづく階段のようだ。
上階からバラエティ番組の明るい笑い声が聞こえてくる。そういえば二人でテレビを見ながら笑い合っていたこともあったっけ。たった一年ほど前の出来事なのに、もうずいぶん遠い昔のことのように思えた。
ぎっ。
悟志さんの脳裏に、はじめて二人でデートに行った日の光景が浮かんだ。雪の降る寒い日。寝坊して、待ち合わせに三十分も遅刻してしまった悟志さんを、彼女は許してくれた。実は私も今来たばかりだったの、と笑いながら。彼女の鼻は真っ赤だった。
ぎっ。
会社から独立して、家庭を顧みずにがむしゃらに働いていたあの時期。
「新婚なのに寂しい思いをさせてすまない」と謝る悟志さんの肩を、彼女は力強く叩いて言った。「湿っぽい顔しないでよ。家のことは私に任せて、あなたは仕事に打ち込みなさい」と。
ぎっ。
一歩踏み出すたびに、悟志さんの胸の中に懐かしい思い出があふれてきた。思い返せば妻には迷惑をかけてばかりだった。それなのに彼女は、いつでも笑って許してくれた。妻はそういう女なのだ。情けない自分を、優しく力強い眼差しで見守っていてくれた。
ぎっ。
悟志さんは階段をのぼり切った。彼の口から嗚咽とも咆哮ともつかない声が漏れていた。胸の中は懐かしい思い出でいっぱいだった。けれどその思い出の中にいる亮子さんの顔は、どれもピントがぼやけて曖昧だ。
悟志さんは妻の顔を思い出すことができなくなっていた。必死に記憶を手繰り寄せてみるが無駄だった。代わりに浮かんでくるのは、今の顔──口角が下がり、虚ろな目をした生気のない亮子さんの顔だった。
リビングの扉の向こうからは相変わらず陽気な笑い声が聞こえてくる。
悟志さんはドアノブに手をかけた。ドアノブを回す。部屋に一歩足を踏み入れた途端、糞尿の臭いが鼻をついた。
「亮子…?」
亮子さんがソファの上でうつ伏せに倒れている姿が、目に飛び込んできた。
白い革のソファはどす黒い血で染まっていた。床に投げ出された右手のそばに、剃刀が落ちている。彼女のスカートの裾は糞尿で汚れていた。
「亮子っ」
慌てて彼女のもとに駆け寄る。机の上に置いてあったスタンドミラーが、その振動によって音をたてて倒れた。
死んでいるのは一目でわかった。しかし受け入れることができなかった。
悟志さんは「りょうこ、りょうこ」とうわごとのように呟き、彼女を抱きおこした。
「あああ、りょうこ…、どうして、」
ソファに座らせた亮子さんの頬を両掌で包みこむ。彼女の目はすでに白く濁り始めていた。半開きになった口の隙間から紫色の舌が覗いていた。冷たくて粘ついた血液が掌を汚した。
──ぺり、ぺりっ、ぺりっ…
聞き覚えのある音がした。悟志さんははっと顔を上げて周囲を見回した。例の部屋からではない。音は妻の身体から聞こえていた。
その時、亮子さんの顔が剥がれた。いや、正確には“亮子さんの顔の皮膚が剥がれた”の方が正しい。まるで壁に貼ったポスターが剥がれるように、粘ついた音をたてながら、彼女の皮膚は額からべろりと剥がれた。
──ぺりっ、ぺりっ…
額、頬、顎の順に、真っ赤な筋肉組織と脂肪があらわになる。とても現実におこっている光景だとは思えなかった。悟志さんはただ見ていることしかできなかった。
亮子さんの”顔“は、べちゃり、と音をたてて彼女の膝の上に落ちた。残ったのはむき出しになった異形の顔貌だけだった。えんじ色の筋組織と血に染まったオレンジ色の脂肪、それらとは対照的な白い歯。極彩色の地獄絵図が、彼の眼前に広がっていた。
気がつくと悟志さんは絶叫していた。
その時のことはあまり記憶にない。あとから聞かされた話では、近所の人からの通報によって駆けつけた警察官に取り押さえられたとき、彼は亮子さんの皮膚を自分の顔に貼りつけていたのだそうだ。
警察にはずいぶん疑われた。
しかし亮子さんの身体から薬物が検出されなかったこと。亮子さんの顔の傷に生活反応が見られたこと。亮子さんの身体に防御層がなかったこと。以上の点から警察は、心を病んだ亮子さんが自分で顔の皮膚をそぎ落としたあと、首をかき切って自殺したのだと結論づけた。
異様な死に方だったということもあり、葬儀は家族だけで行われた。亮子さんの家族から自殺の理由についてしつこく尋ねられたが、答えることができなかった。悟志さんにも明確な理由などわからなかったのだ。
いや、強いて言えばあの音か。もしくはこの家。だが、そんなことを彼女の両親に言えるだろうか。この家のせいで妻がおかしくなったんです、と?
葬儀を終えた夜、悟志さんは喪服のままで寝室のベッドに寝そべった。身体も精神も疲れ果て、服を脱ぐ気力すら湧いてこなかった。
目を閉じて右隣のスペースを掌でそっと撫でた。まだ妻のぬくもりが残っている気がした。不思議なものだ。あれだけ毎日のように喧嘩をしていたのに、死んだ途端、急に妻が愛しく思えてくるのだから。
妻の枕を胸に抱いた。妻の匂いがした。嗚咽が漏れた。閉じた瞼の裏で、あの夜に見た、盛り塩のように積みあがった白い皮膚がちらついた。
妻の匂いと例の音に抱かれながら、悟志さんの意識は次第に遠のいていった。
どのくらい眠っていたのだろうか。悟志さんは尿意で目を覚ました。どうやら昨晩は飲みすぎたらしい。
悟志さんはベッドで上体を起こした。
部屋の中は真っ暗だ。障子戸から差しこむ青白い月明かりだけが唯一の光源だった。足だけで探りあてたスリッパをはいて部屋を出る。
用を済ませ、暗い廊下を戻る頃には目はすっかり冴えていた。広い家の中は凍りついていた。震えが止まらないのは二月の寒さによるものか、妻を失った寂しさによるものか。
悟志さんはひとつ、大きなくしゃみをした。乾いた空気の中で悲しみがまた心に募った。
寝室のドアを開ける。そこでふと彼は動きをとめた。この時の心境はいま振り返ってみても、わからないのだという。悟志さんは一歩、二歩、後ろに下がると身体の向きを変えた。例の部屋の方に、まるで引き寄せられるように。
悟志さんは部屋の前に立った。闇に包まれた廊下の中に、白い障子戸が浮かびあがっていた。
取っ手に手をかけ、そっと開いた。
人がいた。
死に装束をまとった女が部屋の中央に、仰向けで寝ている。青白い月光に照らされた灰白色の肌は、女が死んでいることを物語っていた。
そのせいだろうか。つんと上を向いた鼻とふっくらした唇、小さな顎、固く閉じた目のふちを彩る長いまつ毛。女の美しい顔を構成するそれらのパーツの一つ一つが、悟志さんに、ぞっとするほど冷たく不気味な印象を与えた。
女の枕元には紺色の着物を着た男が正座していた。男は死んだ女の顔を食い入るように覗き込んでいた。男の顔は陰になっており見えない。
悟志さんは息をのんだ。目の前に広がっている光景に理解が追いつかず、悲鳴すらあがらなかった。ただ耳の奥で鳴りつづける心臓の音を聞くことしかできなかった。
男が女の顔に手を伸ばした。男の両掌が愛おしむように女の頬を包みこむ。その指先はおもむろに女の生え際へと向かった。
男は生え際に、親指以外の八本の指を突き立てた。かなり力を入れているらしい。手の甲の筋が隆起している。
ずちゅ、と水っぽい音がして、第一関節が女の額に沈んだ。
悟志さんの脳裏に、筋組織をむき出しにした真っ赤な妻の顔がフラッシュバックした。彼には男がこれから何をしようとしているのか、手に取るようにわかった。
やめろ、やめてくれ。
悟志さんは男に向かって叫ぼうとした。が、彼の声が外に出ることはなかった。それどころか、身体はピクリとも動かない。この時はじめて自分の身体が金縛りにあっていることに気がついた。
せめて目だけでもそらそうとしたが、なぜか彼の視線は吸い寄せられるように、男の方へ──男の指先へと注がれた。
男の手がゆっくりと動いた。その指は、果たして、女の顔の皮膚をつまんでいた。
──ぺりっ、ぺりっ、ぺり…
あの音が室内に鳴り響く。毎日聞いていた音。この部屋から聞こえていた音。そして、妻が死んだ日、妻の顔から聞こえた音。
女の皮膚が剝がれていく。
乾いた血が剥がれる音が室内に響く。男はまるで死体にかけた顔当を取るかのように、繊細な手つきで皮膚を剥がしている。額、頬、顎。上から順に女の皮膚の下にある筋組織があらわになった。美しかった顔はもはや見る影もないほど、おぞましい形相に変わっていた。
その時、悟志さんの足元の廊下が、ぎっと軋んだ。
男がふいに動きをとめた。男の指につままれた皮膚が空中で波打った。
しんとした部屋の中で自分の荒い呼吸音だけが響いている。心臓が恐ろしいほどの速さで脈打ち、冷や汗が首筋を伝った。
男がゆっくり顔をあげる。
のっぺらぼうだった。ゆで卵のようなつるりとした顔の表面には目も鼻も口も、本来人間にあるべきパーツが、その男の顔にはなかった。
悟志さんは意識が遠のいていくのを感じた。
翌朝、目を覚ましたとき悟志さんは物置部屋の真ん中に倒れていた。
窓からは明るい陽射しが降り注いでいる。
見慣れない天井を見上げている意味を、朦朧とした意識の中で考える。顔の皮膚全体がつっぱっていた。右手で頬に触れてみると、粘ついた感触がした。いつか搔きむしった時にできた傷が開いていたらしい。
そうだ、あの男。
慌てて上体をおこし、周囲を見回す。あの男の姿はどこにもなかった。もちろん女の顔から剝ぎ取った皮膚も。
両手で自分の身体を抱いた。震えが止まらなかった。寒さのせいもあったが、それよりも昨夜の恐怖がにわかに蘇ってきたのだ。
そしてふと、こたつ布団に半ば埋もれるようにして落ちている古い桐箱を見つけて、悟志さんは呻き声をあげた。おそるおそる四つん這いでそれに近づいた。
そっと桐箱を手に取る。
色あせた紫色の紐が結んである古い桐箱。それは間違いなく、ここに引っ越してきた初日にあの蔵の中で見つけた桐箱だった。
でも、いったいなぜこんなところに? あの蔵は出入り禁止にしたから誰も使っていないはずだ。まさか妻が?
悟志さんは紐をほどいた。
蓋を開けると、ところどころカビが生えて退色した小豆色の布が出てきた。埃っぽい臭いが鼻をつく。布は厚さや手触りからして、そうとう価値のあるものだろうと思われた。
震える手で布をめくる。
中から出てきたのはお面だった。
黄土色の表面には絵付けがされておらず、ただ目と鼻と口の部分に穴が空いているだけだ。唇の隙間から覗く小さな歯が、見る人間になんとも不気味な印象を与える。経年劣化によるものか、ところどころ茶色や黒に変色していた。
それにしても妙なお面だった。こういった古いお面はたいてい、木を彫って作られている。しかしこのお面はとても木材でできているとは思えなかった。
いったい何でできているのだろう。
悟志さんはお面を手に取った。しっとりと手に吸いつくような感触。
これは、革か…?
それに気づいた途端、悟志さんはぎょっとしてお面を取り落とした。お面が桐箱の縁にぶつかり乾いた音がした。
それは間違いなく人間の皮だった。木彫りの面に人間の皮をはりつけたもの。汚れだと思っていた黒い染みは黒子だ。
では、昨日の夜にあの男が行っていたのは…。
背筋にぞっと悪寒が走る。今までずっと聞いてきた音、妻の異様な死に方、昨日の夜の光景。すべてが一本の線でつながってしまった。
悟志さんは両手を服の裾で何度もぬぐった。手に吸いついた柔らかい皮の感触が消えなかった。指の皮膚が破れて血が出るまで彼は手をぬぐう行為をやめなかった。
悟志さんはそのあとすぐに家を引っ越したそうだ。最低限の荷物だけを持って、残りはすべて業者に処分してもらった。一分一秒でもあの家にとどまることが耐えられなかった。
お面もおそらく処分されたのだと思う。
今思うとなぜあんな不気味な家に住み続けていられたのか、さっぱりわからないのだという。
神奈川県の実家に引っ越してからは悟志さんの体調はみるみる回復していった。音に悩まされることもなく、頬の傷もまもなく塞がった。イラストレーターの仕事も再開した。亮子さんが亡くなったことを除けば、すべてが元通りだ。
いや、一つだけ変わったことがある。
他人に顔を覚えてもらえなくなったのだ。取引先の人、前の会社でお世話になった先輩や同僚、古くからの友人…。みんながみんな、悟志さんが話しかけると少し怪訝そうな顔をする。そしていくつか言葉を交わすうちに、ようやく彼のことを思い出したかのように笑顔を浮かべる。まるで、あまり話したことのない学生時代の同級生に、街でいきなり話しかけられた時のような反応だ。
毎日顔を合わせている両親ですら、彼らと同じ反応をする。居間に座っている悟志さんの顔をぎょっとした様子で見つめ、それから「なんだ、お前か」と安堵の表情を見せる。そういうことが数えきれないほどあった。
だから悟志さんはもう諦めているそうだ。
きっと自分はあの男に顔を剥がされてしまったのだろう。だから仕方のないことなのだと。
(了)
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