あなたの面影

三三九度

プロローグ

 その広い部屋にあるすべて窓には分厚いベニヤ板が打ちつけてあるため、室内はいつでも薄暗くて陰気な匂いに満ちあふれていた。ここに来てからというもの、この部屋が明るかったことは一度もなかった。晴れだろうが嵐だろうが関係なく、水底のような薄暗い闇の中に沈んでいる。おそらく、これからもずっと。

 女はアンティーク調の革張りのソファに腰をおろした。高価なソファは長い間、日の目を見ていないことに抗議するかのように、ぎっと軋んだ音をたてた。

 マホガニーの机の上に置いているラジオからは男性DJの陽気な声が流れている。

『今日は全国的に気温が高く、暖かな秋晴れの一日になるでしょう。また今夜は満月が、いつもよりも大きくて明るく見えるスーパームーンの日でもあります。帰り道に夜空を見上げてみると、見えるかもしれませんよ。リスナーの皆さんは月と言えば何を連想しますか? 僕は…』

 DJに促されるようにして女は顔を上げて窓の方を見あげた。ベニヤ板の隙間から差し込んだ日差しのなかを、細かな埃がキラキラと舞っているのが見えた。耳を澄ますと、窓の向こうからヒュウヒュウ風の鳴る音と、木々の葉っぱがこすれる乾いた音が聞こえてきた。

 女の頭の中に幼い頃の記憶がふいに蘇ってきた。

 真夜中。柔らかい風が首筋を撫でる丘で、少女と一緒に星空を眺めていた記憶。その少女は、女にとって最も大切な友人だったが顔や声を思い出すことはできなかった。

『先週の木曜日だったかな、夜中にはっと目が覚めたの。あれ、おかしいな。何でこんな時間に目が覚めるんだろうって思いながら寝返りを打とうとして気がついたんです。そう、金縛り』

 女は裁ちばさみで髪の毛を切りながら考える。あのとき隣にいてくれた子は、どんな子だっただろう。あのとき見上げた夜空はどんなだっただろう。どんな香りを嗅いだ? どんな音を聞いた?

 ──私はあのとき、何を思っていたの?

 ぱさり、と乾いた音とともに細い髪の毛の束が和紙の上に落ちた。毛束を丁寧に和紙でくるんで糊付けをする。その間も女は思考を続けていたが、考えれば考えるほど記憶の輪郭はあいまいになり、ついには溶けて消えてしまった。

 女は開いたハサミの刃先を左手首に押し当てた。手首は何度も切りつけたせいで、赤茶色に乾いた血と膿が傷口にこびりついている。それは手首だけの話ではなく、右と左の前腕のほぼすべてが血と膿とかさぶたで覆われていた。

 鋭い痛みとともに傷口から丸い血の滴があふれる。女は反対側の人差し指と親指で傷の両端をつまんで血液を押し出した。

 一滴、二滴、三滴…。

 髪の毛を包んだ和紙の上に赤い染みが広がっていく。

『どうして僕が急に怖い話を始めたのか、リスナーの皆さんにわかりますか? 実は本日ゲストに来ていただいている女優の桜川澪奈さんは、怪談話が大好きらしいんです。そうですよね、桜川さん?』

 ──桜川、澪奈…。

 女は動きを止めてラジオを見た。いつもならば血を五滴垂らしたところで止めるのだが、その日は違っていた。十滴以上垂れようが、和紙の上に小さな血だまりができようが、女は意にも介さなかった。

 目を見開いてラジオから聞こえてくる音だけに集中していた。自分と澪奈をつなぐ唯一の架け橋である、その小さな筐体を凝視していた。

 番組が終わった後も、夜中の十二時を告げる時報が流れた後も、女は身じろぎひとつせずにラジオを見つめていた。


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