西瓜頭
阿炎快空
西瓜頭
——キャハハハハ。
——キャハハハハ。
——そう言えばさぁ、みんなアレ知ってる?呪いの〝
——〝目隠し唄〟?知らなーい。
——私も知らない!何それ、何それ!?
——ちょっと前に違う学校の友達から教えてもらったんだけどね。これ、マジでヤバいやつらしいから、あんまり広げちゃ駄目だよ?
——とか言って、さっそく自分が広げてんじゃん!
——アハハ、まあねー。
——で、どんな噂よ?
——えっとねー、まずこうやって、手で両目を隠すの。
——うんうん。
——でね、この状態で、声にだしてこう歌うの。『にたにた、ぐるぐる、ふーらふらー。ずるずる、ぶんぶん、ぐっちゃぐちゃー』。
——えー、何その変な歌詞?
——仕方ないでしょ、私が考えたわけじゃないんだから。
——はいはい。それで?
——そしたら、今のフレーズを三回連続で繰り返すの。キチンと節つきでね。そうすると、何と次の日の朝……
——次の日の朝?
——頭がね……西瓜になっちゃうんだって!
西瓜?
こっそり聞き耳を立てていた俺は、思わず吹き出しそうになるのを必死で堪えた。
俺の名前は、本田
今は日曜の夕方。場所は電車の中。
クラスの友人達数人と、映画を観に行った帰りの出来事だ。
現在、グループ内で車内に残っているのは、俺と親友の
そんな俺達の座っている座席のちょうど目の前。
吊り革を掴んだ四、五人の女の子達——おそらく、年齢は俺達と同じくらいだろうか——が、キャッキャと笑い合っている。
「何それぇー?」
「西瓜って、あの、畑になる西瓜?」
「そうそう、その西瓜!」
いや、その西瓜なのかよ!
思わず心の中でつっこんでしまう。
どうやら聞き間違いではなかったらしい。
俺はにやけているのがバレないように顔を伏せつつ、頭が西瓜になってしまった自分を思い描いてみた。
想像の中の俺は、ハロウィーンのカボチャのお化けのように、目、鼻、口がくり抜かれた西瓜をすっぽりとかぶっている。
なんともまあ、シュールな画だ。
そんな俺の思いを代弁するかのように、一人の子が「てゆーかさー」と声をあげた。
「全っ然怖くないんだけど、その呪い。むしろ、西瓜になるとかちょっと可愛くない?」
「いやいや、違うんだって。あのね——」
語り手の子が弁解を始める。
が——その内容を、俺は最後まで聞くことが出来なかった。
電車が止まり、扉が開く。
吊り革を一斉に手放す女の子達。
どうやら、この駅で降りるらしい。
「——西瓜になるって言っても、顔が本当にそうなる訳じゃなくて——」
その声はホームの喧騒にかき消されてしまい——やがて、扉が閉まった。
次の瞬間、俺の隣で「ぷっ」と小さな音が聞こえた。
見れば、俺と同じく吐き出すのを我慢をしていた亮平の肩が、ぷるぷると震えている。
「くっ——くくくっ」
「はははっ」
俺達はほぼ同時に、ダムが決壊したかのように笑い出した。
周囲の乗客が眉をひそめてこちらを見るが、気にしてなどいられない。
「き——聞いたか、今の!?」と亮平。
「聞いた、聞いた!」と俺。
「なんか、こう——もっと他にあるじゃん!いや、パッとは出ねえけど、他に、いろいろさあ!」
「わかる、わかるよ、亮平」
亮平の言葉に、深く肯く俺。
季節は夏。
怪談と西瓜、どちらもシーズンではあるが——何も、ミックスさせなくてもいいだろうに。
「普通はさ、『毎晩血塗れのババアが枕元に立つ』とか、『一週間後に全身の血を抜かれて死ぬ』とか——なんか、そういうんだよな?」
「そうそう!それをさあ——『西瓜になる』って、お前——」
亮平はそこで言葉を切ると、
「——なんだっけ?えっと、ぐるぐる、ずるずる……?」
と、問題の〝目隠し唄〟とやらをうろおぼえで唱え出す。
「違う、違う」
俺はそれを遮ると、両手の平で目を覆い隠し、正しい歌詞を口ずさんだ。
「にたにた、ぐるぐる、ふーらふらー。ずるずる、ぶんぶん、ぐっちゃぐちゃー」
独特の節回しまで完璧に再現した歌唱に、
「ヤバいヤバいヤバい!ヤバいよ拓海!西瓜になっちゃうって!」
そう言ってゲラゲラ笑いながら、亮平が俺の肩を揺する。
「ぐるぐる、ふらふら——」
「カブトムシ寄ってきちゃうってーっ!」
こうなったら、もう止まらない。
俺はおぼえたばかりのその歌を、両目を隠して三回きっちりと歌いきった。
その場では盛り上がったものの、そんな馬鹿なやりとりは、俺達にとっては特に何ということもない日常の一幕に過ぎない。
現に亮平と別れて家に着く頃には、そんな唄のことは綺麗さっぱり忘れてしまっていた。
その晩、俺は夢を見た。
真っ暗闇の中、誰かが例の気持ち悪い唄を歌っている。
にたにた、ぐるぐる、ふーらふらー ずるずる、ぶんぶん、ぐっちゃぐちゃー
女だ。
若い女が、楽しそうに口ずさんでいる。
にたにた、ぐるぐる、ふーらふらー ずるずる、ぶんぶん、ぐっちゃぐちゃー
にたにた、ぐるぐる、ふーらふらー ずるずる、ぶんぶん、ぐっちゃぐちゃー
声は徐々に徐々に近づいてきて、そして——……
目覚めた時、俺は全身汗びっしょりだった。
荒い息を落ち着かせながら、先ほどの悪夢を反芻する。
まったく、厭な夢だった。特に厭だったのが、夢のラストだ。
不思議とその箇所だけ記憶が曖昧なのだが——女の声は最後に、俺も知らない〝目隠し唄〟の続きのパートを歌った気がするのだ。
どうしても思い出せないが、何だかとても不穏な歌詞だったのだけは覚えている。
まあいい。
今日は月曜日。さっさと気持ちを切り替えねば。
欠伸を噛み殺しながら洗面台の鏡に目をやった俺は、
「——うおおっ!?」
そう叫び、その場で腰を抜かしてしまった。
「な……な……!?」
何とか自力で立ち上がり、恐る恐る鏡を見る。
そこには、パジャマを着た西瓜頭の姿があった。
にわかには信じがたいことだが——鏡に映っているのは紛うことなき西瓜である。
昨日想像していたような、目、口、鼻はない。
本来の顔より一回り大きい、まん丸なフォルム。
鮮やかな緑の中を走る、黒の縦縞。
やはり、西瓜だ。
それ以外の何ものでもない。
まさか本当に、例の〝目隠し唄〟の呪いで!?
「何してんの、お兄ちゃん?」
不意の呼びかけにハッとして洗面所の入り口を見ると、中学生の妹が怪訝そうにこちらを伺っている。
「お、おい、美佳!俺の顔、なんか——なんか、変じゃないか!?」
「はあ?お兄ちゃんの顔が変なのは、元からでしょ?」
「いや、そういうことじゃなくて!」
何だその薄い反応は!?
まさか美佳には、俺の顔が普段通りに見えている——?
「そ、そうだ!鏡!鏡見ろ!」
「きゃっ、ちょっと、何よ!?」
ひょっとしたら、問題があるのは鏡の方かもしれない。
俺は美佳の両肩をがっしりと掴み、無理やり鏡の前へと立たせた。
「どうだ!?どうなってる!?」
だが——
「……変なお兄ちゃん」
——美佳は気味わるそうにそう呟くと、逃げるように洗面所を後にしてしまった。
残された俺は、鏡で確認しながら、首の上に乗った大きな西瓜へと、ゆっくり震える右手を近づけた。
西瓜の表面へ指先が触れる——が、感触は一切ない。
指は西瓜をすんなり通過し、俺の頬へと当たった。
まるで、昨日観たSF映画に出てきた立体映像みたいだ。
俺は両手で顔面を触って、自分の顔の形を確かめてみた。
目、鼻、口、耳——全て異常なし。
西瓜に覆われ確認はできないが、確かに存在はしている。
一体どういうことだ?
この鏡の中の西瓜頭は、俺にしか視認できないのか?
混乱しつつも、朝食を食べに居間へと足を運ぶと、一足先にテーブルについていた父親が、
「おー、西瓜かあ」
開口一番、こちらを見るなり嬉しそうにそう言った。
思わずビクリと体を震わせた俺だったが、父親が見ていたのは俺ではなかった。
「じゃーん」
俺の脇を通って、おどけた調子の母親が居間に現れる。手に持ったお盆の上には、皿に切り分けられた一家四人分の西瓜が乗っていた。
「大きいでしょ。これ、うちの庭で採れた西瓜よ」
えー、すごいと、美佳が大声をあげる。
「これ買ったんじゃないの?ホントにうちでつくったの?」
「だからそう言ってるでしょ?まったく、あんたも拓海も、家のことには全く興味がないんだから」
俺は曖昧な笑顔を浮かべながら、椅子に腰を下ろした。
スプーンで西瓜を口に運びながら、おれは思った。
——これ、〝共喰い〟にはあたらないよな?
その日、学校に着いた俺は、すぐさま亮平の席へと向かった。
「おい、亮平!どうしよう、ヤバいことになった!」
「ヤバいこと?何だよ、何かやらかしたのか?」
「昨日のアレ、おぼえてるか?呪いの〝目隠し唄〟」
「ああ、アレな。何だっけ?ぐるぐる、ふらふら——」
「馬鹿、馬鹿!やめろ!歌うな!」
「は?何だよ、急に」
きょとんとする亮平に、俺は自分の身に起こったことを説明した。
しかし。
「いやいやいや、終わったネタいつまで引っ張るんだっつうの。つうか、そんなことより昨日の映画だけどさ——」
まあ、仕方がない。
俺がこいつの立場でも、同じような反応をするだろう。
仕方がないことではあるが——くそう、腹が立つ!
その後の授業中も、俺はずっと心ここにあらずだった。
こっそりスマホをいじって、『顔 西瓜 鏡 呪い』や、〝目隠し唄〟の歌詞で検索をかけてみたが、それらしい噂はヒットしなかった。
ネットで調べれば呪いの解き方もわかるのではと期待していたのだが、そこまで有名な都市伝説でもないのだろうか?
こうなってくると、会話を途中までしか聞けなかったのが悔やまれる。
私服だったため彼女達の学校もわからないし、もはや顔もおぼえていない。
『三日経てば元通りになる』とか、そういう平和なオチが用意されていればいいのだが。
そんな希望的観測を抱いている間にも時間は過ぎ——放課後がやってきた。
沈み始めた太陽が、街を赤く染めあげる。
サッカー部の練習も終わり、俺は一人、人気のない線路沿いの住宅地をとぼとぼと歩いていた。
案の定と言うべきか、練習にも全く集中できなかった。
右側の鉄条網の向こうには線路が走っており、左側には住宅地のブロック塀が立ち並んでいる。
俺はポケットからスマホを取り出すと、インカメラであらためて自分の顔をチェックしてみた。
「スマホのカメラでも、やっぱりこうなるか……」
画面にでかでかと映った西瓜を眺め、俺は大きく溜息をついた。
まるで、顔を加工できるスマホアプリの様だ。
今のところ、髪のセットが困難なことくらいしか実害は出ていないが、何とも気が滅入る。
まさか、一生このままなんてことはないよな?
もし俺が女だったら、化粧やら何やらで、今よりもっと大変だったかもしれないが——それを不幸中の幸いと喜ぶ気分にはとてもなれなかった。
「ざけんなよ、ったく——ん?」
カメラをオフにしようとした俺は、液晶画面に映った〝それ〟に気がつき、歩みを止めた。
俺の背後、少し離れた位置。
そこに、女が立っていた。
まだ若い見た目のその女は、白と青を基調とした、涼しげな浴衣を着ていた。
どこかで祭りでもあるのだろうか——そんな呑気な発想を、もう一人の冷静な自分が瞬時に否定する。
違う。
何かがおかしい。
ぼさぼさと伸ばし放題で、乱れた黒髪。
外だというのに素足でアスファルトを踏みしめており、その肌は病的に白い。
そして何より目を引くのは、だらんと垂らした片手に握った、木の棒だ。
木製バットにしては明らかに太く、表面も荒削りだ。
重量もそこそこありそうで、先端が地面についてしまっている。
棍棒——そんな物騒な単語が、頭に浮かんだ。
明らかにまともではない。
一体、いつから背後に居たんだ?
俺の驚愕を知ってか知らずか、女が口の両端をにたりと歪めて笑った。
ぎょっとして振り返った俺は、その結果、更に驚くこととなる。
女の姿は、影も形もなかった。
そんな馬鹿な。
見間違いのわけがない。
——それは、ふとした思いつきだった。
俺は震える手でスマホを操作すると、カメラをインカメラから背面のものに切り替え、無人の通学路を液晶画面に映す。
「わっ……!?」
居た。
画面の中に、浴衣の女が。
間違いない。
こいつは俺の西瓜頭と同じ性質の〝何か〟だ。
慄く俺に構わず、女は棍棒を両手で握ると、持ち手の先端を自らの額にあてた。反対側は地面につけて、棍棒を中心にぐるぐると時計回りに回転を始めた。
俗に言う、〝ぐるぐるバット〟というやつだ。
YouTuberの動画や運動会、もしくは西瓜割りの際に行われるような——西瓜割り?
嫌な予感に、全身の毛が総毛立つ。
思わず後ずさる俺の目の前で、女は回転をやめると、
ひひ——ひひひ——
そう笑いながら、ふらふらとした足取りで、道を蛇行し始めた。
片手で引きずる棍棒が、ずるずる、ずるずる、と音を立てる。
回転による目眩に加え、女はどうやら目も見えていないようだった。
西瓜割りに必須な目隠しをしていないにも関わらず、ブロック壁や、電柱にぶつかってはよろめいている。
その理由はすぐにわかった。
ようやく気づいたが——楽しそうに笑うその女の目蓋は、糸によって両眼共に縫い合わされていた。
「ひぃっ」
俺が小さく声を漏らしたその瞬間——女の足がぴたりと止まった。
俺の方に、張り付いた笑顔を向ける。
こいつ——音で位置を探っているのか?
そう気づいた時には、女は既に走り出していた。
棍棒を振り上げ、一直線に迷いなく。
張り詰めていた緊張の糸が、ぷっつりと切れた。
「う、うわああああああっ!」
きっと、悲鳴をあげるべきではなかったのだろう。
しかし俺は、もはやそんな正常な判断ができる状態にははなかった。
俺は恐怖で絶叫しながら、恥も外聞もなく、転がる様にして逃げ出した。
「誰か——誰かあっ!」
その時だった——前方左手のブロック塀から、ぬっと人が現れたのは。
より正確に言えば、その人物が現れたのは塀ではなく、塀の一部を切り抜いて設置されたドアからだった。
時折見かけるそのランニングシャツを着た太ったおじさんは、俺の姿を見るなり、ギョッとしてその場に立ちすくんだ。
「助けて——助けてくださいっ!」
俺は助けを求めておじさんに抱き付いた。
こちらの体勢が崩れていたため、レスリングのタックルの様な形になってしまったが、構ってはいられない。
「ちょ、君、どうした?何があったんだ?」
おじさんは少しだけよろけつつも、でっぷりとした腹で俺を受け止めた。
「ほら、落ち着いて。もう大丈夫だから——なんなら、警察に——」
ぶぉん——ゴッ。
風切り音と共に、鈍い、嫌な音が響いた。
腹にうずめていた顔をあげると、おじさんの首が曲がってはいけない角度で曲がり、髪の薄くなり始めた後頭部がこちらを向いていた。
おじさんの体が顔面から——つまり背中から仰向けに、アスファルトへと倒れる。
ひゃはははははははっ!
すぐ後ろから、女の心底楽しそうな笑い声が聴こえる。
俺は狂ったように叫び声をあげながら、再び走りだした。
このままでは、俺も殺される。
更に進むとブロック塀が途切れ、雑草で荒れ放題の、開けた空間が現れた。
詳しくは知らないが、昔からここに建っている何かの工場跡だ。敷地内には未だにトタンで覆われた、二階建てのボロボロの建物が残っている。
俺は開きっぱなしのシャッターから、廃工場の中へと逃げ込んだ。
建物の中は、埃まみれのだだっ広い空間に、机や段ボール、よくわからない謎の機材などがそこらじゅうに転がっていた。
あちこちの壁に空いた穴から差し込む光が、薄暗い屋内を照らしている。
俺が身を隠す場所に選んだのは、大きなドラム缶の陰だった。床へと座り込み、背中をドラム缶にあずける。
俺は荒い息で居場所がばれない様、左手で自分の口を覆った。右手には、スマホを握ったままだった。
自分ではおぼえていなかったが、おじさんに抱き付いている間も、ずっとスマホは握りしめていたらしい。
よく手放さなかったと、自分を褒めてやりたかった。これがなければ、女の位置を確認できない。
幾分体力を回復した俺は、ゆっくりと立ち上がり、周囲を見回した。
今だに心臓はバクバクとなっており、鼓動の音で女に気づかれしまうのではないかという恐怖があった。
カメラ機能で、自分が入ってきたシャッターの辺りを確認する——誰も居ない。
あの女はまだ、近くに居るのか?
もう、諦めてくれたのだろうか?
目が見えない状態でこれだけの時間標的を見失えば、普通ならば諦めるほかないだろう。
だが、この状況が普通でないのは一目瞭然だ。
これが〝目隠し唄〟の呪いの、真の恐ろしさというわけか。
あの女に——〝アレ〟に、果たして『諦める』という概念はあるのだろうか?
一度撒いてしまえれば、この現象はそれで終わってくれるのか?
そもそも、西瓜割とはどのような遊びだったか?
棍棒を振り下ろした際、西瓜を割りそこなえばそれで終了。違う誰かに挑戦権が移るというのが一般的だろう。
〝アレ〟は狙いを外し、俺ではなくおじさんを殺した。
であれば、もう自分は安全なのではないか?
いや——俺はすぐに、自分の楽観的な予想を否定する。
先ほどの女の笑い声。あれには、勝負に負けた悔しさは混じっていなかった。
おそらくだが、ゲームはまだ継続している。棍棒を避けたところで、一時的な命拾いにしかならない。
かといって、まともに喧嘩もしたことのない自分が、一撃で成人男性を殴り殺す怪異相手に勝てるとも思えなかった。
根本的な事態の解決——このイカれたゲームを終わらせる方法——それを見つけなければ——
そんな風に、あれこれと考えを巡らせていた、その時だった。
顔の前にかざしていたスマホの画面が突然切り替わり、『
同時に、軽快なメロディーが建物内に響き渡る。
しまった!
慌てて音を消そうとしたが俺だったが——時すでに遅かった。
みぃいつぅけぇたぁぁぁあ
楽しそうな女の声が、すぐ隣で聞こえた。
「ひいっ」
声のした方に目をやりつつ、咄嗟に身を引いた俺の鼻先を、何かがかすめる——棍棒だ。
すぐ傍の、身を隠していたドラム缶が、大きな音を立てて凹んだ。
俺は悲鳴をあげながら、再び走り出す。
背後からは、様々な物が破壊される音が、連続的に響いた。
足音や呼吸音に気を使っている余裕はない。
立ち止まれば、死ぬ。
転びそうになりながらも、再びシャッターを潜って廃工場を抜け出す。
笑い声に追いかけられつつ、俺は線路沿いをひたすらに走った。
涙で視界が滲む。
駄目だ——もう——走れない——
俺は最後の力を振り絞り、建ち並ぶ住宅の内の一軒——その狭い庭へと投げ込んだ。
隣家との間に設けられた芝生の上をよろよろと走る。
いや、もはや走っているとは到底言えない。
歩いているに等しい速度だ。
ぶぉん。
もはや聞き慣れた風切り音とほぼ同時に、俺の左肩に重い衝撃が走った。
骨が粉々に砕ける感覚。
悲鳴をあげ、倒れ込んだ俺の手から、スマホが投げ出される。
ひひ……ひひひひ……
楽しんでいる。
手負いの獣をじわじわ追いつめるように、俺をいたぶって楽しんでいるのだ。
「う……うう……」
うつ伏せの状態で、俺は芋虫の様に芝生を這った。もはや、藁にもすがる思いだった。
何とか、ここから逃げなくては。
しかしやがて——そんな俺の腰を、見えない足が踏みつけた。
ひひひっ、ひひっ
「ぐあっ……」
俺は首を捻り、居間に面したガラス戸を見上げた。
そこにはうっすらと、俺と、俺の背を踏む女の姿とが映っている。
女は、棍棒で俺の頭——正確には、頭を覆う西瓜の表面を、トントン、トントン、と軽めに叩いていた。
狙いを——定めている。
「や、やめろ……」
ひひ……ひひひひっ!
棍棒が、天高く振りかぶられる。
にたにた、ぐるぐる、ふーらふらー……
女は、そう口ずさんだ。
その声は確かに、昨晩、夢で聴いたのと同じものだった。
「い、嫌だ——」
ずるずる、ぶんぶん、ぐっちゃぐちゃー……
「だ、誰か——助け——」
やがて女は、握りしめたその棍棒を、西瓜目掛けて勢いよく振りかぶる。
「——助けてえええええええええええええええ!」
——俺のあげた悲鳴は、すぐ脇の線路を通過した電車の音にかき消され、誰にも届くことはなかった。
西瓜の割れる感触を腕に感じ、女はひひひと嗤った。
女は棍棒を投げ捨てると、縫った糸の端を掴み、右目、左目と、順に糸を引き抜いていく。
ゆっくり目を開け、戦果を確認しようとした女だったが——その表情が、驚愕に歪んだ。
踏みつけていた獲物から足をどけ、二歩、三歩とよろよろ後ずさる。
「——見たな?」
俺は肩の痛みに耐えながら、ガラス戸に映る女を睨みつけた。
声の震えを自覚しつつも、女に告げる。
「お前は、西瓜を——俺の頭を割ったと思い込んで——目を開いて、確認した——勘違いして、ゲームを降りたんだ——だから——」
女が叩き割ったもの——それは俺の両親が庭の端のこじんまりとした畑で育てている、まだツルに繋がったままの西瓜だった。
俺の逃げ込んだ、この家の表札は「本田」。
そう——ここは俺の自宅だ。
芝生を這って畑の傍らまでたどり着いた俺は、女が棍棒を振り下ろす直前、転がっていた西瓜の一つを必死に引き寄せたのだ。
棍棒を避けつつ、自分の顔があった場所に西瓜を置いて身代わりにする——正直、ギリギリな賭けではあった。
しかし。
「だから、このゲームは——俺の勝ちだ!」
俺の宣言を受け、女は悔しそうに歯噛みした。
獣の様に唸り声をあげながら、乱れた髪をぐしゃぐしゃと掻きむしる。
まさか、逆上してこのまま襲い掛かってきたりしないよな?
そもそも、これでゲームが終了するというのも、俺の希望的観測に過ぎないのだ。
途端に不安になる俺だったが、
「ちょっと——何叫んでるの、あんた?」
突然割って入った緊張感のない声。
俺は思わずガラス戸から視線を外し、声のした方を見た。
視認はできないが、女が立っているであろう位置の更に向こう——両手で自転車を押した母親が、眉根をよせて立っていた。近所で買い物でもしていたのか、カゴにはビニール袋が入っていた。
「お、おか——」
俺は慌てて、ガラス戸に視線を戻す。
——そこにはもう、女の姿は映っていなかった。
「あーあー、こんなにしちゃってえ」
呆然と座り込む俺を尻目に、母親は俺の傍までやってくると、割れた西瓜を見下ろし溜息をついた。大方、俺がふざけて割ったとでも思っているのだろう。
緊張の糸が切れた俺は、その場でわっと泣き出してしまった。
「ちょ、ちょっと——何?どうしたの?」
おろおろする母親に構わず、俺はいつまでも泣き続けた。
——へーえ、助かったんだ、その男の子。よかったじゃん。
——でもさ、もし棍棒で頭の西瓜を叩き割られてたらどうなってたんだろ?やっぱり死んじゃうのかな?
——ううん、それがね……西瓜を割られた人は、みんな抜けがらみたいになっちゃうんだって。
——抜けがら?
——それって、何だっけ——〝植物状態〟的な?
——ううん、じゃなくて。何て言えばいいんだろ……生きてはいるんだけど、まるで魂が抜けたみたいにぼーっとしてるんだって。で、起きてる間中、ずーっとぶつぶつ呟き続けてるんだってさ。
——呟いてるって、何を?
——だから、例の歌詞よ。『にたにた、ぐるぐる、ふーらふらー。ずるずる、ぶんぶん、ぐっちゃぐちゃー』って、繰り返し何度も。
——えぇー、何それぇー。
——ね?ヤバいでしょ?
——でも酷くない、その女?何でそんなことするんだろうね?
——そりゃあ……やっぱり、〝食べる〟ためじゃない?
——え?でも、みんな別に、食べられたりしてないんでしょ?
——そうだよ。さっきは抜けがらになって終わり、って話だったじゃん。
——ううん、これは単なる想像だけど……現実じゃなくて、鏡の向こうの西瓜を食べてるんじゃないかな?
——鏡の向こう?
——だって、せっかく割った西瓜だよ?食べるでしょ、それは。想像してみてよ――誰も知ることもない鏡の向こうで、女がにたにた笑いながら、例の唄を歌ってるの。
——……
——ぐちゃぐちゃになった断片を両手で拾い上げてさ。赤い汁を着物にぼたぼた垂らしながら、真っ赤な果肉を、むしゃむしゃ……むしゃむしゃ……って。
——ちょ、ちょっとお!やめてよ怖いこと言うのー!
——アハハハ、ごめん、ごめん。単なる噂よ、噂。
——もぉーっ。
——キャハハハハ
——キャハハハハ――……
にたにた、ぐるぐる、ふーらふらー……
ずるずる、ぶんぶん、ぐっちゃぐちゃー……
ぼたぼた、むしゃむしゃ、にったにたー……
ひひ……ひひひひひっ!
西瓜頭 阿炎快空 @aja915
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