③最期の言葉


 スーパーにて今日の晩御飯が肉じゃがに決定し、明日の晩御飯は焼きそばに決定した。買い物が終了してサッカー台で食材をエコバッグに詰め終えると、お兄ちゃんがノータイムで袋を持ちあげた。

「あ、わたしが持つよ?」

「俺が持つからいいよ」

「う、うん。ありがとう」

 そんなやり取りを終えて何事もなく家に帰り、冷蔵庫に食材をしまった。リビングのソファに腰を下ろしテレビを見て休憩するお兄ちゃんの横にわたしも座ってからしばらくして、ようやく、一番知りたかったことを尋ねるための心の準備ができた。心の準備が必要なことに少し憂鬱を覚えながら、口を開く。

「ねえ、お兄ちゃん。訊きたいことがあるんだけど」

「ん? なんだ?」

「お兄ちゃんはわたしに告白してくれた訳だけど……わたしのどこが好きなの?」

「うん?」

 お兄ちゃんは笑顔を浮かべたまま固まってしまい、数秒経ってから、

「え、えっと」

 口ごもりながら前髪を掻き上げた。

「どこって、強いて言うなら」

 また少し固まり、

「美蓮は良い子だし、俺は美蓮を可愛いって思ってる。だけど全部好きって言うか。だって、好きってそんな理由のあるようなものじゃないだろ?」

「そう、だね」

 お兄ちゃんがそういうのならきっと、そういうものなのだろう。それにお兄ちゃんを疑っても意味がないし、第一わたしにはお兄ちゃんを疑うなんてできない。

 だからきっと、好きっていうのは、恋というものは、

「そう、なんだね」

 わたしはニコリと笑顔を見せてから立ち上がった。

「部屋着に着替えてくるね。それから晩御飯作ろう?」

「ああ、じゃあ俺も着替えてくるよ。ちょっと変な汗掻いたし」

「え?」

「なんでもないよ」

 着替えるの後はなんて言ったか分からなかったけれど、なんでもないならなんでもないのだろう。お兄ちゃんはテレビのリモコンを取って電源を落とした。わたしは「お先に」とだけ告げて二階の自分の部屋に向かって外着を脱いで、ゆるっとした薄い赤色のルームウェアに着替えた。

 わたしは可愛い服を着るがあまり好きではないのとはまた別に、かっちりとした服というのも好きではない。なんなら買い物や学校もパジャマで行きたいくらいだ。もちろん、人目がなければの話だけれど。かちっとが嫌いなわたしでも年相応の羞恥心はある。

 ルームウェアとはいえ姿見で確認して、指先で前髪を整えてから部屋を出た。

 キッチンに向かうとお兄ちゃんは既に食材や鍋を出しており、レンジが鳴った。何日か前から冷凍してあったミンチだ。

「お兄ちゃんって、こう、色々と早いよねぇ」

 呟くと首を傾げられ、なんでもないと首を左右に振ってから手を洗う。ニンジンと包丁を手に持ち、皮を剥いていく。

 二人で料理するようになってすぐの頃はピーラーを使っていたけれど、いつのまにか包丁で剥けるようになっていた。本当はジャガイモだって剥けるけれど、心配性のお兄ちゃんは頑としてジャガイモ係を譲らない。わたしだってジャガイモを剥くくらいで手を切ったりしないのに。そう思っているとお兄ちゃんの方から視線を感じた気がして、横を向いた。

「どうした?」

「お兄ちゃんこそ」

「いや。指、切らないよな?」

「き、切らないよ!」

 最初はお兄ちゃんの手伝い程度だったけれど料理をするようになって五年、さすがにそんなミスはしない。そう思うと思わず大声が出てしまった。

「そ、そうだよな。ごめん」

「ううん。わたしも、心配してくれてるのにごめんなさい」

 わたしがお兄ちゃんに安心させてあげられないからいけないのだろうけれど、わたしはそんなに頼りなく見えるのだろうか。

 支え合わなきゃ、いけないのになぁ。

 そう思いながら野菜の皮を剥いていき、切り始める。動揺したせいで大きさがそろっていないものが幾つかあったけれど、大袈裟に言えばお兄ちゃんも半分くらい悪いと思う。



 わたしたちは晩御飯をだいたい七時ごろに食べ始める。別に何時に食べたっていいし、お腹が空いていたら早めに食べ始めることもあるけれど、基本的には七時ごろだ。お父さんがお仕事から帰ってくる時間にお母さんが合わせていて、今でもわたしたちの習慣になっている。今日も御飯が出来てから食べるまでに時間があり、わたしはお風呂掃除を始めた。

 お風呂掃除は一日ごとの交代制だ。

 自分の部屋はそれぞれで適宜掃除することになっているけれど、そのほかの部屋は基本的に毎週、一緒に掃除している。料理を二人でやっているのは、お兄ちゃんが心配性というのもあるけれど、一人で何もできなかった小さい頃の名残だ。とはいえこれは良い名残だと思う。二人でなにかに取り組めるのは、とても心地の良い名残だ。

 因みに買い物に二人で行くのは、わたしの要望だったりする。というのも、交代で買い物に行くようになるとお兄ちゃんは、お米とか油とか、そういう重たいものをわたしに持たせまいと、まだ買わなくてもいい段階で買ってきてしまうからだ。

 そういう気遣いはとても嬉しいけれど、同時に少し寂しくなる。とはいえ、結局買い物の時はお兄ちゃんが荷物を持つし、二つ以上あっても重たい方を取られてしまうのだけれど。

 お兄ちゃんは本当に、優しいなぁ。

 掃除が終わって給湯を押し、洗面所で前髪を整えてからからお兄ちゃんの居るリビングに向かった。

「おつかれ、美蓮」

「うん」

 返事をしてお兄ちゃんの拳二つくらい隣に腰を下ろした。正面のテレビは電源が入っておらず、わたしたちを映す鏡のようになっている。画面の向こうに少し暗い、わたしたちだけしかいない世界があるみたいで面白く、同時にそれはそれで笑えないなぁなんて思っていると、ピコピン! とお兄ちゃんのスマホがラインの通知音を鳴らした。

 テレビ越しに見ていると、お兄ちゃんは眉間に少し皺を作りながらスマホの画面を見た。そんな難しい相手なのだろうかと思ってお兄ちゃんの方を向いてみる。

 どうかしたのかを聞こうと思ったが、単なる質問でさえ敷居が高くて、躊躇ってしまう。なんでもないと返されるだけならそれで良いけれど「一々尋ねてくるなんてウザい」なんて風に思われたらと考えると、それだけで身が竦んでしまう。お兄ちゃんがそんな風に思う訳ないことはわたしが一番分かっているけれど、それでも、弱いわたしはそんな風に思ってしまう。

 だけど、いつまでもこんなことでは永遠にお兄ちゃんを支えられないのだ。

 そう思って、勇気を出して尋ねてみた。

「どうかしたの?」

「いや。あずさだよ」

 そう言いながらスマホを見せてくれた。

 梓ちゃんはお兄ちゃんと幼稚園の頃から一緒の幼馴染で、昔はよくわたしとも遊んでくれた。お兄ちゃんと梓ちゃんが中学生になってからはわたしとは交流が少なくなったけれど、最近でもたまに遊びに来るし、お兄ちゃんから梓ちゃんの話を聞いたりもする。

 お兄ちゃんに出来ないような相談に乗ってくれている人で、わたしにとってはお姉ちゃんみたいな存在だ。

 因みにお姉ちゃんみたいな存在はもう一人いる。それはわたしとお兄ちゃんの後見人であるお母さんの妹、あかりちゃんだ。明ちゃんは仕事の関係上あまり家に居ないけれど、とてもよくしてくれている。

 それはそうと、梓ちゃんがどうしてお兄ちゃんを困らせることがあるのだろうと思いながらお兄ちゃんに届いていたラインを読んでみると、内容は今度遊びに行こうというお誘いだった。

「なんで悩むことがあるの?」

「え、いや。だって」

 スマホを返すと、お兄ちゃんはスマホとわたしとを何度か交互に見て、

「俺は美蓮のことが好きだから」

「っ……」

 不意打ちで言われると照れてしまって、頬がかぁーと熱くなった。それと同時に、告白への答えを出せていないことを思い出し、自分の罪悪感を誤魔化すために慌てて切り返した。

「それと、どう関係あるの?」

「美蓮が俺の告白にどう感じているか分からないけどさ、なんか浮気してるみたいだなって思うとちょっと嫌で」

 真面目な顔でそう言われて、思わず吹き出してしまった。

「っぷ、あはは」

「み、美蓮?」

「そんなの気にしなくていいのに」

 お兄ちゃんは本当に真面目で、真っ直ぐだなぁ。

「わたしは、わたしたちがどんな関係になったって、お兄ちゃんの足を引っ張りたくない。お兄ちゃんがやりたいことをやるのに、わたしに遠慮する必要ないって」

「美蓮……」

「それに、浮気は男のステータスってテレビで言ってたし」

「それ言ってたのドラマの中の話だし、言った人浮気相手に刺されてたからな!?」

 お兄ちゃんは驚いた後に、笑いながらそう言った。びっくりの表情はレアだなぁ、と思いながらわたしも笑い返した。

「ありがと、美蓮」

 ひとしきり笑ったあとにお兄ちゃんはそう言いながら、梓ちゃんにOKのスタンプを送っていた。

 二人で少しゲームをしてから晩御飯を食べて、お風呂に入り自分の部屋に行った。

 机の上で充電しておいたスマホをチェックすると、蕾華からラインが来ていた。内容は他愛もないことだったけれど、そんな他愛もないお喋りがわたしは好きだったりする。ドライヤーを取り出して髪の毛を乾かしながら返事を書くとすぐに既読が付いて、さらに新しい話が飛んできた。

『そういえば明日の体育、持久走だね!』

【えぇ、やだなぁ】

『美蓮、運動神経はいいけど体力ないもんねぇ』

【うぅ。体力って、どこかに売ってないかな?】

『売ってたら怖いよ!』

『売ってる人居たとしても悪魔の取引的なやつだよそれ笑』

【確かに】

【笑】

 そんな会話を続けているうちに、

『そういえば告白された件、どうするか決まった?』

 質問の直後に、瞳孔がシイタケの形をしたなにかのアニメキャラが「わくわく」と言っているスタンプが送られてきた。


――好きなら付き合ったら良いし、好きじゃないなら付き合うべきじゃないってあたしは思うかな。


 蕾華は今日、そう言ってくれた。

 そしてわたしは、お兄ちゃんを男の人として好きなのかをもう一度考え直してみることにした。事実として、お兄ちゃんの手の暖かさは心地よかったけれどドキドキはしなかった。可愛いや好きと言われても、ちょっと照れくさくて嬉しかったけれど、だからといって別にドキドキはしなかった。

 結論として、たぶん、わたしはお兄ちゃんを恋愛の意味では好きではないらしい。

 でも。

 でも、だ。

 わたしと手を繋いだだけであんなに嬉しそうな顔をするお兄ちゃんを振るなんて可哀そうだし、それに、そんなことをしたらわたしとお兄ちゃんとの間に少なからず溝が出来てしまう。お兄ちゃんは優しいからきっと、何事もなかったかのように振舞ってくれるだろうし、わたしもそうありたいけれど、たぶんわたしは、そんなに強く振舞えない。

 そう思うとわたしの頭の中で、お父さんの声が響いた。もう既に存在しないはずの声が。力のない、だけど切望の籠った、最期の言葉が。


――兄妹支え合って生きるんだぞ。


 もしわたしがお兄ちゃんを振ったら、わたしはお兄ちゃんを永遠に支えられなくなりそうだ。それだけは絶対に避けないと。

『おーい』

『美蓮ー?』

『どした?』

【ううん。考えてただけ】

『おぉ!』

『それで、どうするの?』

 またしても先ほどと同じ「わくわく」のスタンプが送られてきて、わたしは口元を自嘲気味に歪めながら返事を送った。

【付き合おっかなって】

【思ってる】

 そのあと(変換ミスやら短いメッセージの連投やらが続いたのでおそらく)かなりテンションのあがっていた蕾華とのやり取りをしばらく行っていると、

『お母さんにお風呂入りなさいって怒られた(´・ω・`)』

 と送られて来た。

【また明日ね】

【おやすみ】

『うん。おやすみ!』

『あ、付き合い始めてもあたしと仲良くしてよね笑』

【もちろん】

【こちらこそ、これからもよろしく】

【笑】

【それと、ありがとう】

 蕾華から「おやすみ」のスタンプが送られてきたのを見て、わたしは「おやすみ蕾華」と口の中で呟いてからスマホをスリープにした。

 本当、蕾華は良い友達だなぁ。そう思いながら姿見で髪の毛を整えて、お兄ちゃんの部屋の前に向かってノックをした。

「お兄ちゃん、入っていい?」

「いいぞ」

 ドアを開けると、勉強机の前の椅子座ってこちらを向いているお兄ちゃんと目が合った。机の上にはノートや教科書、筆記用具が広がっていた。

「ごめんね、勉強中に」

「美蓮より大事な勉強なんてないさ」

 優先してもらえる嬉しさはこれから伝えることの気恥ずかしさを薄めてはくれなかった。けど、お兄ちゃんを目の前にやっぱりなしとはいかない。怒りはしないだろうけれど、それはただ迷惑と心配をかけるだけだ。

 わたしはゆっくりと深呼吸をして心を少し落ち着かせてから、言った。

「いっぱい考えたんだけど」

 お兄ちゃんが期待と不安の混ざったような顔になり、わたしはもう一度深呼吸して、パジャマの裾をぎゅっと握りながら伝えた。

「わたしたち、付き合おっか」

 お兄ちゃんは少し固まってから、とても嬉しそうに微笑んで、

「ごめんな……。いや、ありがとう、美蓮」

 と、そう言った。

 少し申し訳なさそうにしているように見えたのはきっと、わたしの気のせいだろう。



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