第2話

①罪悪感



 スマホの目覚ましが鳴って身体を起こし、音を止めた。ベッドから降りてカーテンを開けるとまぶしい朝日が一直線に部屋に入り込んできて、目が焼けるんじゃないかというくらいに眩しかった。それでも頭はぼんやりとしていて、靄がかかっているみたいだ。寝起きなのに全身に疲労感がある。

 昨日は結局、何時に寝たのか分からないし、寝てはいるはずなのに一睡もしていない気すらしてくる。お兄ちゃんの見せてくれたあの反応が頭から離れず、罪悪感で胸が締め付けられてなかなか眠りに就けなかったからだ。

 だけど、僅かでもお兄ちゃんの支えになれるならこの罪悪感も悪くないかもしれない。

 自分で付き合うことに承諾しておいて罪悪感を感じているなんて、被害者気取りのシンデレラごっこもいいところだとは自分で思わなくもない。

 だけど。

 だって、しょうがない。

 しょうがないって諦めることもきっと逃避なんだろうなとは思いつつ、いつまでもぼぉっとしていられないので制服に着替えることにした。

 着替え終えて洗面所に降りて顔を洗い、髪を梳かして前髪を整えると、近くで見ないと分からない程度だけれど、目の下にクマができていることに気が付いた。

「うわぁ」

 思わず声が出てしまった。

 可愛く着飾りたいという気持ちはあまりないけれど、可愛くないのも、それはそれで嫌だ。だからといってメイクをする気にもなれないけれど。

 そもそもわたしはメイク道具を持っていない。精々が色付きリップくらいだ。蕾華に頼めば色々貸してはくれるだろうけれど、クマ隠し目的でも校則違反だろうし、隠さなければいけないほど酷いクマでもない。

 というか、蕾華にメイク道具を貸してなんて頼んだら、ルンルンと鼻歌でも歌いながらわたしにメイクを施してくれそうだ。

 楽しそうにしている蕾華が目に浮かんで、わたしも少し楽しくなり頬が緩んできた。

 この表情をなるべく維持することを意識してキッチンに向かうと、お兄ちゃんは既に起きていた。因みに、わたしがどれだけ早起きしても何故か、いつもお兄ちゃんの方が先に起きているのだ。

 実はタイムリープでもしていて、わたしが起きる時間を知っているのではないだろうか? 

 そんなことを思わせられるほど、お兄ちゃんはいつも早起きだ。

「お兄ちゃん、おはよう。相変わらず早いね」

「おはよう美蓮。俺もさっき起きてきたばっかりだよ」

 振り向いてそういったお兄ちゃんはわたしと目が合うなり、照れくさそうに笑った。そんな態度を見せられてわたしも照れてしまい、笑って誤魔化した。

 少しの間、見つめ合ったまま微妙な沈黙が続き、

「あ、朝御飯作らないとな」

「そ、そ、そうだね」

「食パン焼いてくれるか?」

「うん」

 お兄ちゃんの一言でなんとか状況を脱することができた。

 食パンを袋から取り出してオーブントースターにセットすると、お兄ちゃんの居るコンロの方からカレーの匂いがしてきた。

 見ると卵焼きパンで、切ったキャベツをマヨネーズで炒めたものにカレー粉をかけていた。もしかして、さっき起きてきたばかりというのは嘘なのでは?

 そう思うと少し複雑な気持ちになってきたけれど、トースターの中のオレンジ色の光を見つめて自分の心を誤魔化すことにした。一〇〇パーセント人工の光は眩しすぎなくて、今のわたしにとって丁度いい。

 朝御飯の支度が終わり二人で食卓に着いた。食パンに炒めたキャベツ、切ったソーセージ入りの卵焼きを挟み、手を合わせた。お兄ちゃんも手を合わせたのを見てから、

「いただきます」

「いただきます」

 声を揃えて言った。

 朝食を終えて一緒に家を出た。お兄ちゃんが鍵を閉めるのを待っている途中、後ろから風が吹きつけて来て何気なく振り返った。そこにあるのは当然、いつも通りの庭と道路で、五月の朝の強風は少し肌寒いものの、なにも代わり映えなんてしない。わたしとお兄ちゃんが付き合い始めても、世界は何も変わりはしないのだ。

「お待たせ」

 後ろから声を掛けられ、首だけで振り返った。

 隣までやってきたお兄ちゃんに、右手を差し出した。お兄ちゃんがわたしの手を取り、わたしが指を絡ませて恋人繋ぎをしてみると、お兄ちゃんは少し照れながら笑顔を向けてきた。わたしはそれに、悪戯っぽく笑ってみせて歩き出す。

 お兄ちゃんは道路に出てから家に、

「行ってきます」

 と言い、わたしも続けた。

「行ってきます」

 誰かが見送ってくれるわけじゃない。習慣でそうしているという面ももちろん大きい。だけどわたしは、この家に帰ってくるために「行ってきます」と言っている。わたしが居て、お兄ちゃんが居るこの家が、わたしの帰りたい場所だから。

 学校に向かって歩きながら、わたしはお兄ちゃんに話しかけた。

「お兄ちゃんと手を繋いで登校するの、小学生のとき以来だね」

「そうだな。ほんと、この前までこんなに小さかったのに」

 お兄ちゃんは鞄を持っている方の手で腰くらいの高さを示した。

「それだとこの前じゃなくて、幼稚園くらいまで前だよ」

「そうか? そう、だな。確かに。でも、やっぱり大きくなったなぁ」

「お兄ちゃんも、大きくなったねぇ」

「そりゃ、美蓮を守らなきゃいけないからな」

 神妙な顔をしていたお兄ちゃんが口の端を上げてそう呟いた。

 そういう意味でなら正直なところ、十分すぎる以上に、十全とどころか万全に大きくなっている。わたしはこれまで、なんなら進行形でたくさん、恩を返しきれないくらいお兄ちゃんに守られている。

 それを伝えようとしたとき、斜め前方からはっきりとしていて上品さのある声を掛けられた。

「おはよう。広務。美蓮ちゃん」

 そちらを見ると、長くてきれいな黒髪をストレートにしている、おしとやかな雰囲気の女子生徒が鞄を両手で持って電柱の傍に立っていた。

「梓。おはよう」

「おはよう、梓ちゃん」

「あら、今日はずいぶん仲が良いのね」

 梓ちゃんはわたしたちの挨拶を頷きで受け止め、わたしとお兄ちゃんの繋いでいる手を見ながらにこやかにそう言った。そしてお兄ちゃんの顔のすぐ近くまで顔を近づけると、梓ちゃんより少し背の高いお兄ちゃんの目を上目使いでじっと見つめた。

「嫉妬しちゃいそう」

 梓ちゃんはたぶんだけど、お兄ちゃんのことが好きなのだと思う。わたしの浅い人生経験でもはっきりと分かるほど、梓ちゃんはお兄ちゃんに好き好き光線を出している。その証拠に、

「ははっ、何言ってんだよ」

 とお兄ちゃんが冗談だと受け取って流すと、梓ちゃんは少し俯いて残念そうに小さくため息を吐いた。しかしそれは今に始まったことではなく、梓ちゃんは諦めることなく何年もアピールを続けている。

「じゃあ私とも、今日も仲良くしてね」

 そう言うや否や、お兄ちゃんの腕に抱き着いた。

 今日もいつも通り、である。

 尤も今日はわたしが居るので、お兄ちゃんの鞄を持っている方の腕になったのだけれど。

 梓ちゃんはいつも、お兄ちゃんの腕に抱き着いて身体を密着させている。毎日のことながらスキンシップが過激過ぎると思う。

 路上でそんなことをしてお巡りさんに怒られないものかと思うけれど、今までにそんなことはなかったのでこれくらいは普通なのかもしれない。勿論、わたしからしたら、そこまでするにはハードルが高すぎるけれど。

 もしここまでやっている梓ちゃんがお兄ちゃんにて好意がないとしたら、いくらお世話になっている梓ちゃん相手でも引いてしまうだろう。梓ちゃんはそれくらい、お兄ちゃんに対して好きだと態度に出している。

 一方、こんなにも想いを寄せられているお兄ちゃんが好きなのは、わたしなのだ。そう思うと頬がとても熱くなるのと同時に、申し訳のなさが湧いてきた。梓ちゃんがお兄ちゃんのことを好きなのは分かっているのに、わたしたちが付き合っていることを言わないのは、なんだか不誠実のような気がしてきてしまう。

 そういえば、わたしとお兄ちゃんの関係って秘密なのだろうか?

 付き合っている相手がお兄ちゃんじゃなかったとしても、誰彼構わず言い周るようなことはしたくないけれど、わたしたちが恋人だということを、梓ちゃんや蕾華にずっと言わないままで居るのだろうか?

 お兄ちゃんはどう思っているのだろうと思って見上げると、梓ちゃんを見ながら何ともいえない微妙そうな表情をしていた。相変わらずわたしには、お兄ちゃんの考えが読めなかった。

 そのまま何事もなく学校の玄関に着き、下駄箱の位置が違うわたしは二人と別れた。教室へ向かう途中の階段でスマホを取り出して、お兄ちゃんにラインしてみた。

【わたしたちの関係って、秘密なの?】

 パンダが「?」の看板を掲げているスタンプを添えてからスマホをしまい、再び教室に向かって歩き出す。教室には既に蕾華が居て「彼氏」についてあれこれと追及された。わたしは申し訳なく思いながらも「蕾華の方は好きな人とかどうなの?」と誤魔化したら、蕾華は笑いながら誤魔化されてくれた。

 本当に良い子だと思う。



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