海を歩く

梨子ぴん

海を歩く

月が映る海の波打ち際を、俺は歩いていた。

波が寄せては返し、俺の足元を濡らしていく。

海水はやや冷たかったが、それが心地よかった。

ぼんやりと、時折星空を見ながら砂浜を踏む。

すると、美しい歌が聞こえた。とても綺麗な声音で、俺は気になって辺りを見渡した。

人影を見つけたので、俺は声をかけようとした。

けれど、月の光に照らされたそれは人間ではなかった。

上半身は確かに人間だったけれど、下半身が魚の形をしていたのだ。

俺は怖くなってその場を離れようとしたが、動けない。

「こんばんは。貴方も夜の散歩?」

思わずうっとりしてしまうような、それでいて穏やかな声で話しかけられた。

「ふふ。照れてるの? 人間はいつもそうだね」

「お前は……何だ」

「僕? 僕はタラッサ。貴方は?」

それは優しく微笑みかけてくる。男の俺でも魅入られてしまうような美しい顔立ちをしていた。

「俺はオルフェン」

「オルフェン。明日も来てよ、約束ね」

誰がお前のような化け物と会いたいと思うのか。

だが、俺は「わかった」と頷いていた。

どうして。

タラッサと名乗る化け物は、嬉しそうに尾ひれを動かしていた。




「……あ?」

いつの間にかまたすぐ夜になって、俺は暗い海にいた。

昨日よりも海に深く足を踏み入れていたので、さすがに身体が冷えている。

「寒い」

足を上げ、家に帰ろうとした時だった。

歌が聞こえる。

俺は歌が聞こえる方へと引き寄せられていく。海から離れたいのに、身体が言う事を聞いてくれないのだ。

「オルフェン、今日も来てくれたんだね。嬉しいよ」

タラッサは、俺が今まで出会ったどの人間よりも美しい顔と声をしている。けれども、月明かりに晒されたその身体は、やはり人間ではないのだ。

「オルフェン、今日はどんなことがあったんだい? 僕に聞かせておくれよ」

「わからない。気が付いたらここにいたんだ」

「そっか。なら仕方がないね」

タラッサは寂しそうにしていたが、何かを思いついたのか目を輝かせた。

嫌な予感がする。

「貴方の身体に触ってみてもいい?」

「だめだ」

「ちょっとだけだよ」

「……だめだ」

「そう、残念。明日も来てね」

「来ることができれば」

ああ、俺はこいつと話すのが怖い。

人間じゃないのもあるが、俺はタラッサの声にひどく惹かれていると自覚があるからだ。

話せば話すほど心地よく、家に帰りたくなくなってしまう。

ああ、嫌だ。とても怖い。

俺はタラッサに別れを告げ、家へと歩みを進めた。




「オルフェン。最近の調子はどうだ? 良さそうには見えるが」

「カーシウスさん」

カーシウスさんは木こりをやっていて、身寄りがなく孤立している俺にもすごく優しい。

ただ、俺が村で遠巻きにされているのはそれだけが理由じゃない。

俺以外の村人は金の髪に青の瞳を持つが、俺は烏のように黒い髪に黒の目をしていた。

人は自分と違うものを恐れる、毛嫌いする。

「カーシウスさんは俺が機嫌良さそうに見えますか」

「おうよ。もしかして誰かいい人ができたのか?」

「いや、そんなわけじゃ」

「なにせ最近、仕事が終わったらすぐに海の方に行くだろう。海に何かあるのか?」

カーシウスさんは俺の顔を心配そうに覗き込んできた。

カーシウスさんは優しい。

だから俺は巻き込みたくない。あの化け物に、タラッサに会わせてもよいものか。

でも、俺だけであの化け物を抱え込むのが怖かった。

だから俺は言ってしまった。

「カーシウスさんも、海に行きますか?」

「木こりの俺が、久々に海を歩くのも悪くねえなあ」

カーシウスさんは彼方にある海を見つめる。

俺は、ここから聞こえるはずもないあの怪物の歌が聞こえた気がした。




夜の海。

空は星が瞬き、月がぽっかりと浮かんでいる。

浜辺を歩いていると、タラッサはいつもの岩に腰かけていた。

「こんばんは。今日は新しい人を連れて来てくれたんだね」

「オルフェン! すげー美人じゃねえか」

「カーシウスさん……。でもそいつ、下半身が魚ですよ」

「そりゃ儂らとは容姿は違うが、言葉は通じるじゃねえか」

「カーシウスは物分かりがいいねえ、素敵だ」

タラッサは口元を抑えながら、くすくすと笑っている。

カーシウスさんは気分を良くしたのか、捲し立てるように喋り始めた。

「オルフェン、このお嬢さんとはどこまでいったんだ!?」

「いや、海で会って喋ってるだけですよ」

「もったいねえなあ。もっとガンガンいけ!」

完全に酔っ払いに絡まれているような気持ちだったが、無下にはできなかった。

きっと、一人ぼっちの俺に、嫁の一人でもできてほしいという気持ちなんだろう。

まあ、その対象は美人だけど男だし、そもそも人間ではない。

「俺はもう帰ります」

「儂はもう少しこのお嬢さんと喋ってから帰るぞ」

「ご自由にどうぞ」

「オルフェン、また明日も来てね」

タラッサが耳元で囁いてきた。

蕩けるような声が耳から頭に広がって、身体全身がぞくりと震える。

俺は身体を握り締めながら、岐路に着いた。

そして、翌朝。

カーシウスさんは帰ってこなかった。




「お前のせいだ、オルフェン」

「……」

村長の重い言葉が、肩にのしかかる。

俺は何も答えることができなかった。

その通りだと思ったからだ。

俺が、あの化け物――、タラッサに会わせなければよかったのだ。

俺は自分の意思でタラッサに会いに行く。

カーシウスさんを何処へやったのか、とか。

どうしてお前はここにいるんだ、とか。

尋ねなければいけないことがたくさんある。

俺は夜が来るのを待った。




「タラッサ、話がある」

「オルフェン、今日も来てくれたんだね。嬉しいよ」

化け物は、いつもと変わらず美しい微笑みをたたえている。

「カーシウスさんはどこへやった?」

「カーシウス? ああ。あの老爺か」

「そうだ。昨日の夜から帰ってきてないんだ」

「海の底にいるよ」

「は?」

「カーシウスに会いたいの?」

「ああ」

「会わせてあげる。ほら、この玉を飲んで。じゃないと潜れないから」

タラッサの手の平の上に小さな真珠のような白い玉があった。

俺はそれを受け取り、一気に飲み干した。

「じゃあ、行くよ」

タラッサは俺の手を取って、海の底へと潜っていた。




海の底は暗く、ほとんど光の届かない砂底に俺達はいた。

「こんなところにカーシウスさんはいるのか?」

「いるよ。ほら、そこ」

タラッサが指さしたのは、白骨化した人間だった。

俺は身体が震えた。

「なんで」

「だって、皆で食べちゃったもん」

「は……?」

「老いた爺さんだからさ、食べ心地は悪かったけどね」

何を言ってるんだ。怖い、怖い、怖い!

「でも、オルフェンは違うんだ」

タラッサは頬を赤く染めて、うっとりとした目で俺を見つめる。

「好きなんだ。君の誰にも靡かない強さや、うっかり僕と話してしまう迂闊さと優しさ。どれも僕の夢中にさせてくれる」

違う。

俺は容姿から周りに相手にされていないだけだ。

こいつは勝手に俺の妄想を作り上げて、それに妄念を抱いているだけにちがいない。

「俺、帰るから」

「ここまで来て、帰れるわけないでしょ?」

タラッサが俺の頬を両手で包み込んで、そして、唇を重ねて来た。

「ん……っ」

「可愛い」

突き放そうと思っても、添えられているだけの両手の力が強すぎて振りほどけない。

口の中にどんどん舌が入り込んでくる。

「ふっ、あ……、んっ」

口の端からは唾液が漏れてしまうくらい、気持ちが良い。

怖い。

俺はこのままどうなってしまうのか。

ああ、でもそれ以上に気持ち良さが勝っていく。

「僕のこと、好きでしょ?」

「好きじゃ、ない」

タラッサは目を見開いて、牙を剥いて笑った。

「そういう強情なところも可愛いなあ」

駄目だ。

やはりこいつは化け物で、言葉は扱うけど話が通じないんだ。

俺は海の底から抜け出そうとした。

そこで、足に異変を感じた。

慌てて見ると、俺の足は魚の形になっていた。

「なんだこれは!」

「薬の効果だね。君はどんどん、僕達を同じ姿になって一生を僕と添い遂げるんだ」

俺は絶望した。

ただでさえ村で疎まれている俺がこんな姿で現れたら、どんな仕打ちを受けるのだろう。

怖い。耐えられない。

タラッサが肩にそっと手を置く。

「僕ならずっと君の傍にいて君を愛するよ、ね」

その言葉は救いのようで、聞けば聞くほど抜け出せない毒になっていく。

あの日、木こりである俺が気の迷いで海なんて歩かなければよかった。

ずっと、森の中で暮らしておけば……。

「オルフェン、これからもよろしくね。海の中をたくさん歩いて、ちょっとずつその身体に慣れていこうね」

俺は一筋の涙を流す以外、何もできなかった。


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海を歩く 梨子ぴん @riko_pin

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