第3話
男は、なおも思う。「頼朝の首が取れなかったことが心残りだ」
男は、最後まで頼朝の首をとの願いが強く、ついには阿弥陀仏を称えることもなく、高熱の苦しみのうちに絶命した。このことが彼の一生をよく表している。
かくも権勢を誇ったものが、時代に与えたものは一体何だったのか。
平安の陰湿な権力争いの中で、ある意味振り回された平家一門。
彼らは、いくら得意面をしても、単に新しい時代の狭間に咲くあだ花となったに過ぎない。
一時は自分たちが作った都に遷都を図ったり、天皇一族の中に潜り込もうとしたが、それも結果を出してはいない。
哀れ、彼ら一族は海の平家らしく海に消えていくのか。
一の谷、屋島、そして追われ追われて壇ノ浦へ。敵は三千余艘、対して操船に長けているとはいえ平家はすでに一千艘にしかならず、敗戦の色は濃く、形勢不利と見た味方の裏切りも多かった。
おびただしい血が海を汚す。
もはやこれまでと、彼の身内が次々と海に沈んでいく。
兄弟たち。息子、娘たち。孫たちまでも。
碇を背負って自ら身を投げていくものも。
妻がまだ幼き安徳天皇を抱え、三種の神器とともに海に飛び込んでいった。
一体、平家とは何だったのか?
後世に、富に狂った悪人どもとして名を馳せるだけなのか。
男には、すべてが見えていた。
それでも執拗に自らの思いを遂げようと荒波に向かうのだ。ああ、なんと、この男はそれを何度となく繰り返しているのだ。決して浄土へはこの海からはたどり着くことはできないことを知りながら。
声が聞こえてくる。どこからか?
暗雲が渦を巻く空を見上げる男の目に入ったのは、はるか彼方から近づいてくる天女なのか。
ぼんやりした輪郭が次第に明確になっていく。
現れたのは、安徳の母、清盛の娘である建礼門院だ。
懐かしさのあまり男の目に涙が光る。
「懐かしや。そなたはどうしていたのだ?」
建礼門院は静かに応える。
「父上をお恨み致します。私は、海に嫌われて、敵の武将に捕らわれた後、大原の庵に引きこもることを許されました。
そこで日々、叔父叔母、兄弟姉妹、そして子どものために、念仏を称え、一門の成仏を祈っております。
皆、浄土への道は遠いものの、あなた様に限っては、おそらく決してかなわぬものと思います。
ある時、後白河院にお尋ねいただきました。
院はわたくしの不幸を嘆いていらっしゃいましたが、院にとっても、この世はままならず、先の短い身を振り返り、ご自身の生き様をひと時の夢の如しと語っていらっしゃいました。
本にこの世は、人を恨み、人を貶めて争いばかり。
私は、あらゆる不幸を見てまいりました。
先立たれた一門を弔い、浄土への祈願に明け暮れる日々なのです。
権力と財でこの世を十二分に謳歌され、信心すら忘れてしまったあなた様は、まだこの世に未練があるのでしょうか」
船頭たち、いや餓鬼と呼ばれる亡者たちは、黙って櫓をこいでいる。
いや、時の波間を潜り抜けているのだ。いつまでも、いつまでも。
静かな波の間に時代が沈んでいく 寺 円周 @enshu314
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