第2話

 入道こと後白河法皇は、梅の香に導かれて庭に下りていく。


 既に桜が芽吹き、梅の花びらがそこかしこに散り落ちている。


「彼らも悲劇よなあ。先代が築き上げた権力の座を、子孫たちは守ることができない」


 何不自由なくのほほんと育てられた子たちに罪はないが、責任はある。


 自分たちを頼って従ってくる郎党たちをないがしろにして、主従関係の大切さを忘れてしまっていた。つまり、大事にしなければならない施しを忘れ、奉仕のみを要求していると、入道は考えるのだ。


「だから敵に対峙しても、大将がまともな指揮を取ることもできず、相手が寝返りを打つ物音ですら恐れをなし、配下の者のことなどほったらかして、真っ先に逃げ出してしまうのだ」


 そもそも、清盛自身も周りの苦労もろくに知らず、配下の者のことなど、とんと関心をもたない男だった。


 保元の戦いでは、過分な褒賞を得たが、それにもまして商才に長けて金儲けがうまく財を積み上げたのだ。


「あいつの海外貿易で儲けたその金でわれわれも甘い汁を吸うことができたというわけだが、あいつは、その金にあかして人心を得たと思い込んでいたのは、バカ者というほかない。あの世でも金が通用すると思っていただろうが、あにはからんや、あの世じゃ何の神通力もないと知って、今頃悔し涙を呑んでいることだろうよ」


 それにしても勢いというものは、その都度波となって時代を制するものなのか。もはや延々と紡がれてきた朝廷の力も情けないほど弱体化してしまっている。それこそ自業自得というものだろう。


 ちいさな子や孫に地位を与え、責任ばかりを押し付けて、権力だけはいつまでも握ったままだ。


 実に醜い。


 そんな卑劣な手法が慣習化し、政治などどこ吹く風、思うがままの世を謳歌する。


 そんな都合の良い時代がいつまでも続くわけもない。一方で朝廷をうまく利用していい思いをしようとした輩もすでに逃げ出して、すっかり都の華も陰りが見えている。


「こんな夕闇にどのような光を望めばよいのだろうか。安徳が出ていった今、後鳥羽を天皇にしてうまく収めることもできるが」と、後白河院はあくまで未練がましく女官たちが待つ玉座に戻る。


「三種の神器があればいいのだが、いや無くても適当にやるかな」


 入道は、もう歌を詠むことを諦め、手にした筆をもって、側女たちの着物の裾に分け入り、いつもの手習いを始めていた。


  ・・・・・・・・・・


 潮の流れは相変わらず速く、行く手を拒む。


 弓の名手が射落とした扇が波のまにまに浮き上がってきては、沈んでいったり、誰も手にすることもせず流されていた。


 すでに戦はところを移している。


 清盛には見える。孫の命が短いことも、我が一族の世も終わりに近づいていることも。


 いまさらその男は何をするために荒波の海戦のただ中に行こうとしているのだろうか。彼の祈りが、彼の罪業を帳消しにして、一族の再興を可能にするとでもいうのか。


 男も、都の入道を恨んでいる。


 そもそもあの後白河院が添えものでしかなかった天皇の座を守れたのは、清盛の軍勢が保元の戦で、義朝たちと一緒に時の上皇軍を追い落としたからだ。さらにその後の義朝たちの乱では、捕らえられた院を、何とか苦労して救い出すということがあった。

 

「そんなにも協力してやったのに、我らに対する仕打ちはなんとも酷いものだ。やっかみに過ぎないのだが、ついには、源義朝の息子たちに秋波を送って、我らを追いつめてくるのだ」


 潮の流れに逆らって進む小舟の舳先に立ち、襲い来る高波を忌々しく見つめる男の目には一条の涙が見える。波しぶきがそれを隠しているが、船頭たちには相変わらずの見続けてきた風景だ。

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