第26話【勇者の撤退と聖女の噂⑤(均衡は崩れた)】
◇◇◇
二つの衝撃が彼女を襲った。
腹に一つと胸に一つ。
薄れ行く意識の中、
事実、凶悪な魔物が蔓延る迷宮の──その最奥まで
相手の攻撃は全て
【笑っていた──笑ってい嫌だ忘れたくないやめてごめんなさいイチローたすけてたすけてごめんなさい大好きだよイチロー】
そこで彼女の意識は完全にブラックアウトした。
◇◇◇
たったの一分に満たぬ時間で三人の主力が失せた。
既に帯同したパーティの内の半分は動ける状態になかった。微かな希望に掛けて耐え忍んでいた二人のタンクも、今や生死不明の重体だった。加えて勇者パーティの主力メンバーたる一人は身じろぎもしない。
単純な算数だ。相手が二体に増え、こちらは三人減った。
ギリギリ保たれていた均衡は完全に崩れた。
先程までですら、恐怖に駆られて叫びだしそうな中、誰もがそれを押し殺して、全員の生還を掛けて必死に戦っていた。
けれど口元を押さえるようにして塞き止められていた感情が噴出するのは、もはや時間の問題であった。
さらに悲劇は続く。
ギャリリ。
ヒーラーの一人が胴を深く切り裂かれ、何一つ抵抗することなくどさりと倒れた。
◇◇◇
イライザにとって危険は隣合わせであった。
死地から生還したことも両の指では数え切れないほど経験していた。
「大丈夫よアナタ達!! 落ち着きなさい!! まだ勇者パーティが残っているわ!!」
意識のある少女が「ひっ」と息を飲んだ瞬間、彼女は叫び声を上げさせる前に自らの声を張り上げた。
生還に必要不可欠なものは、冷静さを失わないことと、最後まで身を投げ出さない生き汚さであった。
イライザは、倒れ伏した自分の娘を生還させないといけないというその一心だけで、まるで満杯のコップから表面張力だけでギリギリいっぱいに維持された水のように、何とか恐怖心を捩じ込めたのだった。
ただ彼女自身も、自らが周りを鼓舞するために名前を挙げた勇者パーティが本当に頼りになるのか、もう信じ切れてはいなかった。
◇◇◇
勇者であるリューグーインは、ズボンの生温い湿り気に気付いた。
情けないことにイライザの鼓舞でようやく己を取り戻したのだ。
それと共に、茫然自失の内に
「ミカァ! みんなに《回復魔法》を掛けてやれ! 誰一人死なせてはいけないッッッ!!」
「わかりました」と一言
◇◇◇
聖女によって《回復魔法》が施されたといってもすぐに意識が戻るわけではなかった。
たとえ意識が戻ったとしても、瀕死の重症からすぐに戦線に復帰出来る人間など───どこかの英雄級の探索者を除いて───いるわけはなかった。
「ミカァ! 回復が終わったなら僕に結界を張れぇぇっ!」
勇者リューグーインが声を震わせながら叫んだ。
「はい、勇者様! 何人たりとも勇者様には指一本触れさせません!」
聖女ミカはそれが当然だと言わんばかりに、己と勇者を固い結界の奥に守護した。
「エリス! お前なら出来るだろうっ! ダメならそこで寝てるアンジェを叩き起こして二人でやっつけろ!」
勇者リューグーインは作戦とも言えない作戦をしたりがおで叫んだ。
◇◇◇
これが本当に勇者なのか?
これが今まで、七つもの《新造最難関迷宮》を踏破したパーティなのか?
安全圏から独りで前線を支える味方へと与えられる指示──それは妄言にも似た、愚かな作戦だった。
イライザには理解が出来なかった。
勇者パーティからすれば所詮自分達は余所者である。
だからこそ私達の帯同パーティを見捨てるというのなら、百歩譲って理解も出来よう。
自分だって、極限の事態に陥って、己の娘と他人のどちらかしか助けられないとなれば迷わずに娘を選ぶ。
だけど、
だけど、これは───
◇◇◇
エリスの働きは獅子奮迅とも言えるものだった。
後方で突き刺さった槍を抜いてやり、投擲を弾き飛ばし、蛇腹剣を受け流し。
けれど───彼女にはもう撤退以外道はないことがわかっていた。
されど彼女は精神を防御へと集中させた。
槍の投擲と、蛇腹剣の高速攻撃──そのどちらも、たったの一撃すら見逃すことは出来ない。
見逃してしまえば次こそは死者が出てもおかしくなかった。
エリスは覚悟を決めて腰に差した聖剣を解き放った。
◇◇◇
あの日から私は、遠いところまで来てしまった。
私は───私は彼が大好きだった。
彼は最高に気の合う親友で、何かと世話を焼いてくる兄のようでもあった。
ずっと彼の隣にいたかった。
それは、彼と添い遂げることを意味しているが、彼とならそれはむしろ望むところだった。
いつも一人になると、悶々と彼との将来を夢想した。
私は十歳のあの日から、両親をはじめとした身内から愛されることはなかった。けれど、プルさんのお陰で、親とは何か、愛とは何かを知った。
私達二人なら、私がどれだけ欲しても与えられなかった、あふれんばかりの愛情を、二人の子に与えられるんじゃないだろうか、などと考えて赤面し、「うがー」ともがくこともしばしばだった。
恥ずかしいけれど、それは嘘偽りない純粋な気持ちだった。
彼となら、己の心の奥にあるもっとも大事なものを、互いに尊重し合い、心を通わせ、躊躇うことなく互いの心に踏み込み、全身全霊でもって触れ合い、抱き合うことが出来るのではないか───それこそが確信にも似た、切なる願いだった。
けれど、それももう、今は遠い、あったかもしれないいつかの、どこかだ。
私には、全てを終わらせ、彼に償う責任がある。
それがどれほど、つらく苦しいことでも私は───
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