第20話 聖女ミカ / ミカエラ

◇◇◇



「聖女ミカよ。目を覚ましなさい」


 少女の意識は、厳かな、それでいて暖かな声によって引き上げられ、浮かび上がった。

 目覚めた少女は、自身が見覚えのある宿屋の一室の、いつかのベッドに腰掛けていることに気がついた。

 けど、一体どうして? と少女は自問した。

 

「ここは、貴女の心の中」


 隣に気配を感じた。

 そこにいたのは、柔和で穏やかな美しいかんばせの女性だった。ただ、不思議なことに、それが誰なのか認識出来なかった。はっきりとそこにいるはずなのに、まるで脳に曇りガラスでも被せられたかのように、何度思い出そうとしても、何故かその人物が誰なのかがわからなかった。


 気配に気づかなかっただけで元からあったのか、それとも急に現れたものなのか、それすらミカにはわからなかった。

 わからないことだらけの中で、ミカが女性の言葉を鸚鵡おうむ返しに呟いた。


「心の、中?」


「そう、私が身体から離れた貴方の魂を、貴女と私の間にある《えにし》を手繰たぐり寄せて、この場に引き戻しました」


 声は暖かく、優しさに満ちていた。

 生前・・から常に、己の心の内に暖かな存在を感じていた。

 今、自分の隣でベッドに腰掛けている人物はそれと同じ存在なのだと、確信した。


「……」


「浮かない表情をしていますね」


 美しい女性が誰なのか、見えずとも少女には理解できた。

 

「貴女のその表情も致し方ないことでしょう」


 声には確かな思いやりが感じられた。


「クラーテル様……、どうして私を引き戻されたのでしょうか?」


 少女の記憶のとある・・・箇所以降は、様々な要因によって完膚無きまでバラバラにされていた。酷い部分になると二つの記憶が重複していたり、書き換えられたりといった、およそ人間の所業とは考えられない何かを施されていた。

 ただしかし、枷を外し、くびきを壊した彼女は、思考の自由を取り戻していた。それゆえ、不自然な状況を把握し、冷静に努めて考えることができた。


「私は、このまま消えるべきでした」


 何が正しくて、何が間違えていたか。


「私は、このまま消えたかった」


 彼のこと。勇者のこと。己のこと。

 誰が何をして、誰が何をされたのか。

 その全てを、彼女はほぼ理解できた。

 否、できてしまっていた。


「私はもう、生きてなんていたくなかった」


 せきを切ったような心情の吐露はもう止まらなかった。


「私は浅ましくも醜い女です。今だってそうです。

 私はこの期に及んで、消えてしまいたいなどと口にしながらも、もしもあの日・・・に戻ることが出来たならと、現実から逃げるようなことを考えています」


 彼女達が今いる空間は、彼女の心───記憶にある、とある宿屋であった。


 少女にとっての、そこ彼の隣は唯一の場所であった。


 そこはもう、二度と戻ることの出来ない、いつかの、あの日の、あの場所であった。




 ───明日ダンジョンを踏破したら、貴方に伝えたいことがあります。




 伝えたかった思いがあった。

 自身の立場や状況を認識してなお、ゆずれない願いだった。


《封印迷宮》で再会した彼のことを思い出した。

 自分達の罵声に、困ったように苦笑する彼の隣には、既に新しいメンバーがいた。

 あの場所───彼の隣は、私の、私だけの場所であった。

 そのはずだった───


「けれど、もう、どうあっても、元に戻ることはありません」


 その言葉が無様で独り善がりなこともわかっていた。

 あのときに想いを馳せて後悔することは惨めで、何より醜悪であることを彼女は知っていた。それでももはや彼女は自分では己をとめることができなかった。


「貴女は、このようなところでいなくなるべきではありません。

 これまでに貴女は、数え切れないほどの多くの人の命と、心を救ってまいりました。その功績は、誰もが知るところでしょう」


 暖かな声が告げた。


「私は───」


 少女が言い募ろうとしたのを、声は遮った。


「貴女がいなくなることで大勢の者が悲しむでしょう。

 そして何より、貴女には、まだやらなければならないことがあるはずです。そうではありませんか?」


 誰にどれだけ悲しまれたとしても消えてしまえば同じだ。

 全てが終わる。ただそれだけ。

 それで、構わなかった。


「クラーテル様。私は、取り返しのつかない罪を犯しました。どうしたって私はもう、現実と向き合うことができません」


 現実と向き合うことは、時として何よりも残酷なのだ。


「ならば、貴女は自らの罪を認識してなお、贖うことなくこの世を去ろうというのですか?」


 少女の返答に、美しい女性───クラーテル教主神クラーテルは少女へと厳しい視線を向けた。


「貴女が己の罪を認識し、真に罪を贖いたいのなら、他者からの赦しを乞う必要はありません」


 その言葉は綺麗事ではない。


「貴女が、傷を負わせた彼に、贖いたい気持ちがあるのであれば、貴女は、逃げるべきではない」


 クラーテルは少女に安易な道を選ばせない。


「逃げずに、精一杯向き合いなさい」


 クラーテルの視線はどこまでも厳しい。


「己に向き合い、彼に向き合いなさい」


 厳しさこそが、唯一全てを救う手段であった。


「そして、赦しを乞わず、赦しを求めず───」


 現実と向き合うことは何より残酷で、何よりも難しい。


「───ひたすらに過去を償いなさい」


 少女は己に向けられた厳格な視線の、その奥にある真なる優しさに気づいた。


「その道は、貴女にとって茨の道となるでしょう。

 ときには過去の己を思い出し、その身を儚くしたい思いに駆られるかもしれません。またときには、道半ばで貴女も傷つき、あの時に逃げれば良かったと思う日がくるかもしれません」


 赦しを乞わず、赦しを求めず。

 ひたすらに、心のままに。

 それは永遠にも似た何かだ。


「私に、そのようなことができるでしょうか?」


 既に大きく道を踏み外した少女に、自信なんてものはこれっぽっちもなかった。


「私には、自信がありません……万が一また道を踏み外してしまったら……」


 クラーテルは「くふふ」と笑ってみせた。


「貴女のその気持ちが、まことの心より出ずるものであれば、これまで貴女の心の内にいた私は、貴女の母として、姉として、友人として、いつだって貴女の背中を押しましょう」


 主神クラーテルはぬばたまの黒髪を揺らし、少女を抱きしめた。


「わ、わたし……」


 少女の頬をつつと涙が伝った。

 こらえていたものがこぼれ落ちた。


「大丈夫ですよ、聖女ミカ───いえ、聖女ミカの名を継し者、ミカエラ。ここ・・では、私は聖女としての貴女ではなく、ミカエラという一人の人間である貴女と対話しました」


 主神クラーテルは赤子をあやすように、少女───ミカエラの背中をとんとんと叩いた。


「これまで、たくさんの辛いことがあったでしょう。そしてこれからも、今まで以上の苦しみが貴女を襲うでしょう。だから今だけは、私は、聖女ミカではなく、ただのミカエラとしての貴女をねぎらい、その功にむくいましょう」


 主神であるクラーテルの言葉に、ミカエラは、自然ととめどない涙が流れるのを感じた。


「これまで、よく頑張りましたね」


 クラーテルの言葉には万感の思いが込められていた。

 そして、クラーテルはミカエラにも届かぬ声で、


「いつか貴女が己を赦し、彼に赦される時が来るように、私は貴女を見守り続けましょう」


 そう、呟いたのだった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る