第19話 てがみ

☆☆☆



『セナへ


 なるべく早く帰ってくる。

 センセイもいるから俺のことは心配しなくても大丈夫だ。

 食事はセナのバッグに入れてるからちゃんと食べてくれよな。

 それからさ、俺が戻ったら一緒に飯食って、いっぱい喋ろう。

 一緒に日向ぼっこするのもいいな。

 今の俺の帰るべき場所はやっぱりセナのいるここだから。

 だからおかえりで出迎えてくれたら幸いだ。

 それじゃ、行ってきます。


                 イチローより』



☆☆☆



 彼女は、朝目覚めると、まずはその手紙に目を通す。


 それは彼が出発して以来のルーティンだった。

 彼女は、そうすることで彼の存在を感じることができた。


 センセイがかつて山を降りて以来、彼女は一人だった。

 隣でいつも快活に笑うセンセイが「ちょっと仕事があっての」と告げ、山を降り、長らく便り一つもないということは度々あった。


 そんなとき彼女は、己の心に大きな穴が空いたように感じでいたが、それならそれで、センセイが自分の元に戻ってくるまで、ここ───人の近付けない隠れ山で、何も感じないように、静かに、そしてひっそりと、それこそ生涯のおおよそを土の中で過ごすせみの様に、じっと待っていればいい、そう思っていたのだ。

 そう思っていたはずなのに───


 彼女は手にした手紙へと軽く唇を落とした。


 この広大な山に一人でいることが、彼らのいない日常が、今のセナにはあまりにも長かった。



☆☆☆



 センセイが戻る前、彼と二人で日々を過ごしていたときのことだ。

 地上へと降りなければならないと言った彼に、彼女は様々なお薬の入った袋を用意して持たせた。


「心配し過ぎだよ」と彼は苦笑していたが、その時の彼の気持ちが、今少しわかった。


 小屋の隅に置いていたのは、小さなマジックバッグだった。

「セナにも必要だろ」と彼が以前どこからか手に入れてきた代物であった。彼は「金はあるから大丈夫だ」と成金みたいなセリフを度々口にしていたが、それより以前に、街で情報を仕入れてきた彼が「そんじょそこらの料金では到底手に入れることは出来ねぇらしい」と言っていたことを彼女は覚えていた。


 マジックバッグの中は時の流れが非常に緩やかで───彼女のそれの中には、彼によって用意された、温めるだけで食べられる簡単な料理と、彼の愛飲しているポーションが大量に納められていた。


 ───心配し過ぎなのよ。


 彼女は自分の頬がゆるんでいることには、ついぞ気付くことはなかった。



☆☆☆



 取り出した瓶詰めのカレーをそのまま温め、ナンやフォカッチャにも似た薄い乾燥パンへと、スプーンでたっぷりと掛けて、そのままはむっと頬張った。その口休めには、これまた彼お手製のピクルスの酸味と食感を楽しんだ。


 現地の人から作り方を教わった彼が「昆布出汁を入れるべきかどうか、それが問題だ」などとぶつぶつと呟きながら、試行錯誤の末に作り上げた逸品だった。


 あの日、味見をしていた彼女に向けた彼の表情は憎たらしいほどのドヤ顔であった。

 彼の表情に、少しのイタズラ心が湧き上がり『まだまだね』と言おうかと思ったものの、心の中でぶんぶんと首を振り、素直に皿を差し出し『おいしいわ、おかわり』と素直に答えた。 すると何故か感極まった彼が『うおーーー!』と雄叫びを上げていたことを思い出した。


「おいしいわ。いつも、ありがとう」


 食事を終え、彼女は彼へと呟いた。

 

 

☆☆☆


 いつもの草原で───

 いつもの様に───


 彼女は舞った。

 何かを振り払うように、

 何かから逃げるように、

 そしてその何かを切り裂くように。


 本来、彼女に舞う必要はない。

 それどころか、食事すら必要ない。

 いや、食事どころか、睡眠も清潔感を保つ必要すらない。


 食事をせずとも、自然から得たエネルギーは無尽蔵であった。

 また超常の者である彼女には睡眠を取る理由もなく、塵や埃や脂などといった汚れは適宜分解され自然へと還った。


 とこしえに自然と同一する存在───それこそが彼女だった。


 舞は佳境へと入り、その動きは次第に荒さを内包したものとなる。


 彼女が、いつもと変わらずに、食事を楽しみ、睡眠をむさぼり、功夫クンフーを積むのは、いつか来たるセンセイと───彼のためであった。


 そしてまた、今の彼女を形作る日常こそが、彼らとの絆であり、繋がりであるからだ。


 さらに───彼女の舞が姿を変える。

 彼女から一層強い光の粒子が舞い散った。


 衣服が彼女に合わせて風になびき残像を残した。

 終幕はすぐそこ。

 動きはさらに荒々しさを増し、その艶麗さは芸術的ですらあった。

 そして、クライマックス───


「破ッッッッ!!」


 彼女は咆哮を上げた。


 木々が揺れ、ばさばさと鳥が空を駆けた。


 それと同時に、彼女が走り出した。

 正確に言うと、ふっ、ふっ、と短距離間を、姿を消しては姿を現す───を繰り返す、ある種の空間跳躍を行使したのだった。


 彼女の全速力は神がかっている。

 激しい鍛練の最中ですら大きく表情を変えなかった彼女───そんな彼女の表情には様々な色が浮かんでいた。


 そう。

 第一声は決まっている。


 一目散に小屋の前へと辿り着いた彼女は、向こうから手を振り現れた彼へと、真心を込めて、こう告げた。


「おかえり、イチロー」



  

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