5.残酷な人形劇と、未完の物語
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――都合の良い奇跡は起こらない。
人の身に過ぎた願いは叶わない。
けれど、私の額に触れた『神なるもの』は、微笑みながら語る。
『たとえ『神なるもの』の奇跡は起こらずとも、誰かを救うことはできる。誰かを助けたい、許したいと……そう願う人間の意志だけが、闇の底で足掻く誰かの光になれるのです。人を信じなさい。誰かを愛しなさい。あなたの抱く心ひとつで誰かが救われるのだとしたら、それは紛うことなき奇跡と呼ぶにふさわしい』
真白の光は悲しいほどに透き通り、嘘偽りなど簡単に暴いてしまうだろう。白い花のごとき【光冠】を戴く『神なるもの』は、紫の瞳を静かに閉ざすと、立ち尽くしたままの私の背を押した。
『いきなさい。あなたを待つ時間の果てへと。結末は変えられなくとも、まだ答えは何も決まっていないのですから』
光は、あらゆるものを白日の下にさらしだす。罪も、罰も。そして、刻み付けられた私の後悔さえも。
白い輝きが扉を形作り、私はためらうことなくそれを開け放つ。踏み出した一歩先が闇だったとしても、私はオーリにもう一度会いたい。
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――The Last Day 10 Years Ago.
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――扉を開くと、綺麗に着飾った男女の人形が座っている。
真っ赤な絨毯の上で両手両足を投げだし、不格好に傾いた顔がこちらを見つめていた。窓から差し込む夕日が、空虚なまなざしを赤々と染める。目にしたものを受け止められず、『僕』の呼吸は数秒の間、はっきりと止まった。こんな現実、あってはならない。
あれはただの人形。そうでなければおかしい。だって、二人が、父と母があんな最期を迎えるなんて『救いがなさすぎる』。いつだったか、救いのない人形劇を見た父さんだって言っていたじゃないか。『バッドエンドにしても、もう少し捻りがなきゃあな』――言うだけなら容易いだろうに、と僕は笑ったのだったっけ。
湿った床を踏みしめるたび、錆びた鉄のにおいが立ち上った。一体、彼らの身に何が起こったというのだろう。今朝別れた時には、少なくとも死の影などかけらも感じなかった。
唐突に訪れた日常の終焉。温かだった陽だまりは血だまりに沈み、むせかえるような異臭に包まれていた。何も変わらないと思っていた、ありふれた日々の終わりがこんなものだなんて、あんまりだ。悲しみや怒りより先に虚しさが胸を満たして、鼻の奥がつんとする。しかし、涙は一滴もこぼれず、僕は黙って唇を噛みしめた。
母が好んだ白い小花を散らした可愛らしい壁紙や、父が買い集めた陶磁器の天使たちはすべて、真白だった表面にどす黒い穢れを纏っている。乾ききった血の跡を見れば、『犯人』が両親をこんな風にしてからかなりの時間がたったのは間違いがなかった。
――そう、『犯人』。こんな異様な惨劇を引き起こした『犯人』は、必ずいる。
僕は、ゆっくりと背後を振り返った。何かの気配を感じたとか、そんな曖昧な理由じゃない。ただ、確かに『そこ』にいると理解した上で、鋭く言葉を放った。
「こんなことをしでかしたのは、お前なのか」
相手を真正面に捉えた瞬間、背後から首筋に冷たい刃があてがわれた。ひりっとする感覚と同時に痛みが襲い、僕は短い悲鳴を上げる。そうか、僕も殺されるのか。何もわからないままに、命を刈り取られて――。
「兄さんは殺すな」
冷めきった声が聞こえ、首筋に触れていた刃の気配が離れる。反射的に振り返っても、そこには両親の亡骸があるだけだった。今、背中越しにいた【モノ】は一体何だったのか。幻か、それとも……。だが、少なくとも首筋を伝う血の温度は現実だった。
「……『オーリ』……。父さんと母さんをこんな風にしたのは、お前なのか」
『オーリ』。名を呼びかけると、弟は猫のように目を細めた。見た目はいつもと変わりないのに、緑の目に光は宿らない。黄昏よりも暗いまなざしに、僕は思わず身震いする。知りたくなかった真実が、何も知らなかったという事実が、心を冷たく突き刺そうとする。
「そうだよ。おれがやった。二人は、おれが殺した」
「……どうして……!」
「どうして、だって? 本当に何も知らないんだね。こいつらが何をしていたか、気づいてもいなかったのか」
呆れたように首を振って、オーリは低い笑い声を立てた。笑みをかたどっただけの、暗い表情と声音。絶望的なまでに理解を拒絶する横顔は、確かに弟のものなのに、かつてのオーリとは似ても似つかない。心のない笑みは、谷底を削る水のように僕の感情を削り取っていく。
「こいつらは、父さんと母さんじゃない。二人の皮を被った【化け物】だ」
オーリは右手を横に薙ぐ。刹那、夕闇色をした光刃が虚空に現れ、高い音とともに僕の頬をかすめていった。まさか、これは【魔法】――? 身をすくめた僕の背後で肉を断つ鈍い音が響き、同時に何か重いものが床に落ちる。
「見ろ。あれが人間に見えるのか」
命令を受けた人形のように、僕はのろのろと振り返る。果たして、オーリが放った光の刃は両親であったモノを引き裂いていた。首から肩にかけてを切り裂かれた二人は、傷口からどす黒い何かを滴らせ、小刻みに震えながら地面へと倒れる。ぐしゃりとしか形容できない音が聞こえた瞬間、亡骸は醜く膨張し、真っ黒い奇怪な塊へと姿を変えてしまった。
「父さんと母さんは、とっくにいなくなってたんだ。見た目は同じでも、中身は人ではないものに入れ替わってた。こいつらはずっと……おれたちをだましてきたんだよ」
ぐずぐずに崩れた肉塊は、何かを求めるようにうごめき続けている。醜悪すぎる光景に、僕は口元を押さえることしかできなかった。父と母は、いつからこんなものに成り変わられていたのだろう。おぞましさで視界が狭まり、何も考えられなくなる。
「何も知らなかったのは兄さんだけだよ。こいつらは……おれたちを食うために二人のふりをしてたんだ」
「食う……だって……? なんのために?」
「さあね、化け物の考えることはわからない。理由なんて、知ったところでわかるわけないだろ?」
オーリは歪んた笑みを浮かべる。化け物だから、理解できるわけがないから、両親のふりをしていたから。だから、無抵抗な相手を殺したのか。
「二人は、抵抗しなかったんだろう? もしかすると、父さんと母さんの心は残っていたのかもしれない」
「何が言いたいんだ、兄さん」
「もし……もしだ。二人に心が残っていたなら……。お前が殺したのは、化け物じゃない。父さんと母さんだ……」
「だから?」
オーリの口調は風のない夜のように静かだった。僕の言葉が理解できないわけもないだろうに、どうしてそんな風に無関心な顔ができるのか。どうしてもその心が理解できない。
「だから何? だったら兄さんは、こいつらに食われても良かったって言うのか? 父さんたちを奪った化け物と、仲良く暮らせばよかったって?」
「違う。違うんだ、オーリ」
「何が違うんだよ。兄さんは都合のいい夢を見てるだけだ。こいつらに人の心なんてあるわけないだろ……! そうでなかったら、あんな」
オーリのまなざしに敵意が混じる。けれど、たとえオーリの言うことが事実だったとしても、父と母を殺していいわけがない。もしかしたら元に戻す方法があったかもしれないのに――。
「どうして、何も相談してくれなかったんだ……? 僕たちの両親のことだろう? なぜ、ひとりで決めてしまったんだ」
「どうせ兄さんにはわからない。きれいごとばかり言って、俺だけを責めるの? いい子ぶるのもいい加減にしてよ。おれはあんたを守ってやったのに!」
「僕は『父さんと母さんを殺してくれ』なんて頼んでない!」
僕たちの思いは決定的にすれ違う。心は互いを見ていたはずなのに、発した思いは相手に届かない。僕が思わず叩きつけた言葉は、オーリの顔色を変えるに十分だった。もともと青白かった顔からは完全に血の気が引き、瞳の奥の暗闇が一層深く大きくなる。
「なら、もういい」
拒絶の言葉を吐き、オーリは背を向ける。もう何も信じないと語る背中は、遠ざかった心の分だけ、僕から離れて行こうとしていた。
「オーリ」
行くな、と。たった一言が、どうしても言えなかった。差し伸べられなかった手の向こうで、オーリの姿がにじみ消えていく。引き留めなければ二度と会えない。頭のどこかで理解していても、僕はたぶん、オーリを許し切ることができなかったから。
「さよなら」
永遠に分かれるための挨拶なんて、あまりにも虚しい。夕日とともに消えた弟の姿を、僕は一生忘れられないだろう。
「さようなら、兄さん。もう二度と、おれのために振り返らなくていいよ」
――結末は、変えられない。
しかし、答えはまだ何も決まっていない――。
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