3.『墓』を守るひとは、偽りの夢を見ない

  ――

 ――――


「オーリ」

 目を開くと、はるか上に白い真円が見えた。無意識の伸ばしていた手は、真ん丸な月を掴むように握りしめられている。


 ぼんやりとした視界の中で、私はぎくしゃくと体を起こす。どういうわけか全身が鈍く痛む。まるで激しい運動をした翌朝みたいに、関節やら筋肉がきしんでいる。どこかで全力疾走でもしたっけなぁ。のんびりと考えてしまったあと、はっと我に返って自分の額を叩いた。


 そうだ、私は崖から落ちたのだ。あんな底が見通せない穴に向かって落ちたのに、筋肉痛程度の痛みだなんておかしすぎる。


 慌てて立ち上がり、自分の身体を順番に確かめていく。脚や腕も折れてはいない。強いて言うなら、背中が他よりも痛む気はするが、それだって無視できてしまう程度だ。頭を入念に触ってみても、大きなけがはなさそうだった。


「……奇跡か?」

 実際、冗談ではなく奇跡としか言いようがない。常識的に考えて、下が見えないほどの深みに落ちるということは致命的だ。都合の良い奇跡など信じない性質だが、それ以外に自分が生きている事実をどう解釈すればいいかわからなかった。


 奇跡、奇跡だ。しかし、嬉しさよりも戸惑いが先立つ。生きているということが奇跡だとしても、このあと無事に戻れるかは別問題だ。頭をかきながら周囲を見渡せば、高くそびえたつ岩壁に空いた無数の横穴が目に入った。


「……これ、適当に進むと遭難するやつだよな。よくある物語的には」

 落ちてきた穴は手が届かないほどの高みにある。つまり、ここから出るためには横穴を通るしかないわけだ。しかし、当然のことながら、こんなところに案内板や地図などあるはずもない。自分の手持ちに役立つものはあっただろうか……。


 投げやりに自分の懐を探ったが、出てきたものは使いかけのマッチくらい。メモとペンを鞄に入れたのは間違いだったな。そういえば、首から提げていたはずの写真機はどこに行ったのだろう……?


 参ったな。頭上から月が遠ざかり始めているせいか、この空洞の中も暗くなり始めている。移動するか、それとも救助を待つべきか。消極的だがリスクも少ないのは後者。けれど、救助と言っても、あの御者が戻らない私のことを真剣に考えてくれるかは未知数だ。


 だとしたら前者か。私は仕方なくのろのろと歩き始めた。天然の洞窟なんて、迷宮の中でも一番たちが悪いだろうに。中途半端な奇跡を若干恨みながらも、手近な横穴を覗き込んでみる。すると、何の前触れもなく暗がりの奥から白い手が伸びてきた。


「……は?」

 まさか人がいる? しかし安堵は即座に裏切られた。白い腕は奇妙に揺れる。一本、二本。三本、四本、五本と――。


 私は声にならない悲鳴を上げ、後ろへと飛び退いた。何だ。これは一体何なんだ。うごめく腕たちは助けを求めるように、私に手を伸ばす。あまりのおぞましさに鳥肌が立ち、よろめきながらさらに後ろへと下がった。その時だった。


「――大丈夫、ですか」

 ざらついた低い声が耳元で響く。肩に冷たい手が置かれ、今度こそ私は絶叫した。全身を振り回し、何者かから逃れようともがく。


「落ち着いて。何もしませんから」

 困ったような声が聞こえたが、それどころではない。逃げようとした私は岩に足をとられ、その場でひっくり返った。頭を地面に打ち付ける――と思いきや、寸前で何者かに受け止められる。


「……大丈夫ですか?」

 無事を確認する声に、呆れが含まれていたのは言うまでもない。さすがに私も頭が冷えて、やっと相手の顔を見上げることができた。


 月の光を背に受け、黒い外套が浮かび上がる。その姿はさながら死神のような不吉さで、私は一瞬身を固くした。しかし、フードの下から覗いていた紫水晶にも似た澄んだ瞳と、聖像のような静謐さを含んだ表情を目にした途端、心を占めていた混乱と恐怖は音もなく溶けて消えていった。


「誰、なんだい。君は……」

 お前は誰だ。と、剣呑に応じる気にはどうしてもなれなかった。不審な相手であることは疑いようもないが、少なくとも敵意はなさそうだ。


 それに、横穴でうごめいていた白い手を目にしたあとでは、生きた人間に安心感を覚えても致し方ない。自分に言い訳しつつも、相手を油断なく観察していると、紫色の瞳は穏やかにこちらを見返してきた。


「自分は……そう……。皆からは『墓守」と呼ばれている」

「……『墓守』? ええと、もしかして、爆心地付近をうろついているという……?」

「おそらく自分のことです。戦場荒らしでもないのに、この辺りを『うろついている』のは自分だけでしょうし」


 ひょっとしなくても、失礼な物言いだったかもしれない。苦笑いとともに返された言葉からは、少し困ったような雰囲気が感じられた。


 いや、そうは言っても、こんなところに誰かいる方がおかしいじゃないか……? 言い訳を重ねながらも、私は相手に礼を言って立ち上がる。意識的に背後からは目をそらす。見ない、何も見ない。あんなのをもう一度見たら、今度こそ理性が吹っ飛んでしまう。


「それで、あなたはどなたですか? 見たところ、近隣の村民ではないようですが」

「ああ……私の名はグレイン。グレイン・C・セレスティライトだ。王都の新聞社で記者をしている」


 相手の正体は謎のままでも、一応助けられたことには違いない。自らの名前と所属を明かすと、『墓守』は私の顔をまじまじと見つめてきた。


「グレイン……さん……? 新聞記者さんなんですか?」

「グレインでいいよ。そう、一応だけど新聞記者をしている。今回、この『雷霆』の爆心地には取材のために来たんだ」


 別に嘘は何もついていない。私の語る内容に違和感など何もないはずだが、『墓守』はなぜか不審そうに眉を寄せた。透き通るばかりだった紫の瞳がわずかに険を帯び、別人のように鋭い視線を向けてくる。


「……なぜ、そんな嘘をつく必要があるんだ。『おれ』にはどうにもおかしな話に聞こえる」

「わたしが嘘をついているっていうのかい。どうして? そんなことをして何の意味があるって言うんだ?」

「どうして、だって? は、他でもない『あんた』が何も知らないふりをするのは滑稽じゃないか」


 断言口調でなじられて、私は唇を強く噛んだ。先ほど出会ったばかりの人間が、内心を見透かすような言葉を吐く。それが実に不愉快で……というよりも、『墓守』が何かを知っている可能性に思い至り、わずかな時間、私は自分で作り上げたはずの殻を捨てた。


「……お前、何者だ。何を知っている。いや……『誰のこと』を知っていたんだ」

「真意を隠したまんまの人間に話すことなんてないね。それに、今更何をしたって、誰を探したって無意味だ」


 それだけを言い捨て、『墓守』は背を向け歩き出す。やはり、こいつは明らかに何かを知っている。爆心地をうろついていることといい、もしかしなくても【この場所】にゆかりのある人間なのだろう。


「待て、話は終わってないぞ」

 引き留めたところで、どうせ『墓守』が振り返ることはない。だが、私の考えとは裏腹に、粗末な靴を履いた足はゆっくりと止まった。


「……あなたが求めている答えは、今更取り返しがつかないものだと、そうは思わないのですか」

 『墓守』はこちらに向き直った。先ほどまでの険はどこにもなく、凪いだ水面のような穏やかさだけがある。諭すような声さえも別人のようで――だがそれでも、私を見据えるまなざしの強さだけは変わりがなかった。


「何を知っても、何を理解しても……あなたは何も取り戻せないと理解しているんでしょう」


 『墓守』がどういう人間なのかは、これっぽっちも理解できない。黒い外套の姿にまとわりつく奇妙な歪さが、どういう意味を持つかなど想像もつかない。しかし私に向けられた視線の真摯さ、切実さだけは信用に値すると……そう思ってしまう私は、甘いだろうか。


「お前の言う通り、たぶん……いや、もう絶対に手遅れなのはわかっている。だからこれは私の自己満足で、単なる未練を断ち切るための行為なんだ」


 暗いだけの奈落に今一度だけ、月明かりが差し込む。空を見上げたところで、過ぎ去っていく月影には追い付けない。わかっている。本当はここを訪れることに何の意味もないのだ。これはただ、わかりきった答えを思い知りたいだけのわがままだった。


「私はここに『弟』を探しに来た」

 短く告げる。捉えどころのない紫の瞳が何度か瞬いて、『墓守』はやっと納得したかのように小さくうなずく。


「弟の名は『オーリ』。オーリ・S・セレスティライト。大戦末期……正確には月龍暦498年の『雷霆』投下直前、ディープヘイデン前線基地に配属された魔法兵だった。……お前は、弟を知っているのか?」


「その問いに対する答えは、『はい』寄りの『いいえ』です。……『自分』は彼を語る言葉を持ちませんが、あなたが結末を知りたいというなら、その手伝いくらいはできます」


 『墓守』の言葉はどこまでもまっすぐだった。嘘ばかり重ねてきた私にとって、眩しすぎるほどの誠実さ。初めて会った人間にそこまでして手を差し伸べる理由はわからなかったが、どんな真意があるにせよ、私にとってはありがたかった。


「ありがとう。是非に頼む」


 私の返答に、『墓守』は一度だけうなずいた。

「こちらこそ」


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