英雄譚(44) ヒーローは少女を救う。


「葵さん」


 深夜の帰り道――街頭のふもとで、彼女はひろととの再会を待っていた。


「また会ったね、ひろとくん」


 ひろとは、彼女の持っていた邪竜リントブルムの【忌物】を破壊した。

 いまの葵は【反英雄化】どころか、異能のひとつも行使できない。

 だが、たとえ特異な力がなくとも、敵対関係は生じるものだ。


「どうして、勝ったはずのひろとくんが、そんな顔をしているのかな?」


 しかし、ひろとの懸念は杞憂に過ぎず、葵は彼との殺し合いなどまったく望むところではなかった。


「だって……ボクは、葵さんの遺物を……」

「ほんとに、許せないことだよね。もう少しで、世界征服も夢じゃなかったのに」


 しんみりとした声で呟きながらも、葵のかんばせは曇ってはいない。

 その眼差しには寂しさだけが漂い、口角は自虐的に緩んでいる。


「たったひとつの夢……だったんだ。もしも、世界最強になれたのなら、誰だって、私をイジメることはできない。私だけの新世界で、みんなと仲良くすることができる。……ひろとくんは、そんな私が、可哀そうだって思ったの?」


「同情じゃないよ。とにかく、葵さんを助けなきゃってことしか頭になかった」


 ひろとは今一度、自分の知っている仲間たちの顔を思い浮かべる。

 孤独で生まれ育った少女がいた。能力には恵まれながらも、身体と母親には嫌われている少女がいた。運命に呪われ、復讐の鬼として生きてしまった少女がいた。


 彼女たちのことを思えば、目の前の少女にも言わねばならぬことがある。


「ボクはね……葵さん。悲痛な運命を強いられた人たちを、知っているんだ。中には葵さんよりも、力のまま暴れ回った人も知っている。その未来は、どっちも残酷で――だけど彼女たちは、いまも精いっぱい生きている。最近になって、みんなはようやく笑えるようにもなってきたんだ」


 ひろとは胸の内で、ただ一心に願っていた。

 どうか、葵さんにも知ってほしい。

 この過酷な世界の中でも、力だけが全てではないのだということを。


「ボクはみんなと過ごして、分かったことがあるんだ。特筆した力がなくったって、人は絶対に幸せになれる。この世界は、決して力が全てじゃないんだって、信じているんだ。葵さんも、きっとそうなんだって――」


「あはっ……あははっ……あははははははははははははははっ!!」


 ひろとの能書きを一蹴するかのような、突拍子もない少女の爆笑。

 葵が張り上げた笑い声には、壊れた道化師にも似た狂気が感じられた。


「あっははははははっ! 特筆した力がなくったって、人は絶対に幸せになれる? ううん、無理、無理! 幸せになんて、絶対になれっこないよ! 力がないのに、どうやって私は幸せになれるの! ――誰かが私を、イジメてきたら? 誰かが私を、バカにしてきたら? いったい誰が、私を守ってくれるの!? ねぇ、ひろとくん ――《誰が》、私を守ってくれるの?」


 葵がひろとを壁際まで押しやり、逃がすまいと両腕でひろとの顔を挟む。

 そんな少女の壁ドンにも意中になく、ひろとは同情に近い自戒の念を懐いていた。


 あぁ……結局彼女は、最初から他力本願なんだ。

 反英雄という異能もそうだ。それも元々、彼女自身の力ではない。

 小学四年生の頃に――芹澤葵の心は、完膚なきまでに、破壊されてしまったんだ。

 彼女は異能の力に頼らなければならないほど、自分では再起できないところまで、堕ちてしまっている。


「ひろと君。――とっても強いひろと君なら、私を、守ってくれるよね?」


 葵はひろとの手を取って、強引に胸へと押し当てた。それも、服の内側にだ。

 豪快な弾力がひろとの手先に伝わり、葵は「んっ」とわざとらしい声を上げる。

 色気を仄めかした顔の赤らみも、ジィっと見つめて、「好きにしていいよ」なんて言葉も、全てはひろとを誘惑するためだ。


 あえて下品にひろとの手をまさぐらせ、そのピンク色の先端を弄らせる。

 ピクンッと身体を震わせ、いっそうとひろとに胸を揉みしだかせる葵。

 淫靡に息を荒げて、彼女の孤峰は最高潮に硬直した。

 その勢いのまま、ひろとのもう片方の手を、自分の下半身へと押し付ける。


「ねぇ……ひろとくぅん……ほら、もっと……好きにして、いいんだよ?」

「葵さん……」


 はしたない顔で誘惑する葵だが、ひろとの顔は冷め付いている。

 芹澤葵という少女は、本当の意味で容赦がないのだ。

 彼女は自分自身の、最大の武器を理解しているし、男心も知り得ている。

 仮にいま、ひろとが「××××させろ」なんて言ったら、迷わずOKするだろう。

 異能を失ったところで、人はそう簡単には変われない。

 だからひろとは……彼女の胸から、手を離した。


「……ひろと、くん? ほら、ほらほら……ねぇ……好きに、しないの?」


 ひろとの心には既に、一ミリの迷いもなかった。


「強くなって」

「――っ」


 綺麗で可憐だった少女の横顔が、みるみるうちに憤怒と悲哀に歪んでいく。


 この現実を突き付けるのは、とても残酷なことかもしれない。

 それでもひろとは、ここで彼女に言うべきだと確信していた。


「強くなるんだ……葵さん。いつだって、自分を守るのは、自分なんだ。ボクが強くなれたのは、遺物だけのおかげじゃない。あの日――異能を持ってなくったって、ボクはトラックに走っていたし、お兄さんを手伝っていて、お婆さんを助けてもいた。もしかしたらボクは、そこで死んでいたかもしれない。でも、迷いはなかったんだ。変わろうって……弱い自分は嫌だって、本気で思ったから。葵さんだって、変われないはずが――」


 ポタリ、ポタリと、唐突に溢れ出した少女の雫が、二人の足元を濡らしていく。


「葵、さん……?」


 その歪んだ顔つきは、その震えた声音は、まるで幼い子どものようだった。


「いやだよ……いやだよ! ねぇ、お願い……私を見捨てないでよ、ひろとくんっ!!」


 地面に膝をついて、ひろとの袖を掴んで、わんわんと泣きじゃくる芹澤葵。

 その光景は、かつての彼女の再現のようにも見えた。

 四年三組での彼女も、こんな顔で泣いていた。

 けれど、どれだけ喚いたって、誰も助けてはくれなかった。

 ……彼女はいまも、あの頃のトラウマに囚われたままなのだろう。


「葵さん」


 手を、差し伸べてあげたくなった。

 分かった、葵さんがピンチな時は、いつでもボクが駆け付けるから。

 ひろとがそう言ってあげられたら、彼女はどれだけ安心できただろうか。

 けれどそれは、何の解決にもなっていない。

 ひろとが居ない時は……居なくなってしまった時は、彼女はどうやって、生きていくのか。


 芹澤葵を、本当の意味で救うには、ここで甘い言葉を掛けることではない。



「ひろと、くん?」


 少年は上着を脱いで、見ろとばかりに両腕を広げた。

 男子とは思えないくらいに線が細くて、背も小さくて、筋肉だってついていない。

 お腹もぷよぷよで、とても人に見せびらかせるような身体じゃない。

 そうだ……こんな矮小な存在が、英雄小峰大翔なんだ。


「見て! ボクはいつも、クラスでバカにされてる! こんなに小さくて、お前には何ができるんだって! フリオースにも、お前には何も出来ないと笑われた! これからも、たくさんの敵にそう言われるだろうし、クラスのみんなにも、いつもバカにされてる! でも、だからって、関係ないんだ! いくらボクが小さくたって、ボクが弱いことの証明にはならない! ――ボクは戦うよ、葵さん。毎日、心も、体も鍛えて、大きさなんて、関係ないんだって言ってやる! こんなに小さなボクだって、そう思えるんだ! いつも明るくて、可愛くて、スタイルだっていい葵さんが、できないはずがないんだって!」


 それは魂から絞り出した訴えだったのか、それとも真に願っていたからなのか。

 ひろとも涙ながらに訴えかけて、葵はそんな彼の必死さに釘付けになっている。

 本当に小さい……なんて、小さな体なんだろう。

 彼がどれだけの偉業を成し遂げても、現代のジークフリートだと明かしても、人々に認められることはないだろう。むしろ《チビなお前が》と笑われて、非難を受けるばかりだろう。きっと彼の生涯は、否定され続けるに違いない。


 それでも彼は、進むことを諦めないのだ。


 この矮小な体躯だってできるんだということを、必ず証明し続ける。

 ――ひろとの勇敢な姿勢は、今度こそ葵にも伝わった。


「ひろとくん……私、変われるのかな」

「変われるよ」

「本当に?」

「本当に」

「絶対の、絶対?」

「絶対の、絶対」

「……そっか」


 未だ確信は持てずとも、葵はようやく立ち上がった。

 不安げな顔つきはしているが、その眼差しには微かな光が灯っている。

 芹澤葵は、いま変わろうとしている。

 だったら、一言だけ――彼女を後押ししても良いと、ひろとは思った。


「もしも無理だって時は、ボクを呼んで。絶対に、葵さんの元に駆け付けるから」

「……ありがとう。ひろとくん」


 その時の芹澤葵の瞳には、なにが映っていたのか。

 少なくとも、あの日のトラウマでないことだけは、確かだった。

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