英雄譚(39) ヒーローとヴィラン。
竜殺しの大英雄と、火竜の上級因子である【
ひろとはこの仇敵との戦いよりも、葵の身を案じていた。
葵さんはどこだ……自分に用があるのなら、彼女を傷つける真似はしないはず。
「葵さん……っ!」
幸いにも目当ての人物は直ぐに見つかり、フリオースの背後、コンテナ上に芹澤葵は寝かせられている。コンテナには魔法陣と幾重もの数列が書き込まれていて、葵を使って何かしようとしているのが分かる。
「葵さんを返してもらうぞ、フリオース」
「あぁ? ……んだ、ガキ?」
眉根には皺を寄せて、瞳には脅すような眼光を漂わせて、いつになく強気に出ているひろとだが、その足はぶるぶると震えている。以前、ひろとはこの男に胸郭を粉砕され、魂を引きずり出されかけたのだ。本能的な怯えも無理からぬ話で、その時のトラウマも、彼はまだ払拭できていない。
そして、こんな無様を晒す相手が現れれば、フリオースの爆笑は必然であった。
「ゲェアハハハハハハハハ! おイ、おいオぃおいおいオいおィ!! どこの世界に、足腰震わせながら、説教するヒーローがいるンだァ!!? 冷や汗から、ガキくせェしょんべんの臭いが垂れ流れてんぞぉ、クソガキィ!!!」
フリオースの挑発も、ひろとは歯を食いしばって聞き流した。
こいつは、相手の心を揺さぶり掛け、不意打ちを狙うような下郎だ。
いつ戦闘が起きてもいいように備えるには、決して怒りに呑まれてはいけない。
「何とでも言え。何が何でも、葵さんだけは返してもらうよ」
ひろとの言葉があまりにも解せず、フリオースの目つきは醜悪に垂れ下がった。
「ゲァハハハハハッ! そぉんなに、このおっぱい女が好きなのかよ! こりゃァ、相ッ当、重症だなァ!?」
「お前たちの狙いは、ボクの遺物だろ。人質なんて、卑怯なマネをするな!」
その瞬間、フリオースの爆笑がピタリと収まった。
ひろとが何を言っているのか、本当に分からないといった顔で。
「……クソガキ。てめェ、恐怖で頭がイカれちまったか?」
「もちろん、不利だってことは分かってる。ボクよりも、お前の方が格上だ。今からお前と、一騎打ちなんてことは――」
「ハッ……一騎、打ち??」
どうも、さっきから話がおかしいと、フリオースは注意深く辺りを観察する。
やはりそうだ……【楔の大英霊】も、【廃滅の吸血鬼】の気配も感じない。
ひろとたちが、あの両者に関わっていたことから、『ジークフリートの回収は不可』と判断していたが……まさか、見限られた? 目の前のチビに、護衛はない?
なぜ、どうして、どんな思惑があって、そんな決断を……分からない。
分からないが、千載一遇の好機だ。
このクソガキをしばき倒せば、あの【竜殺しの遺物】が手に入る。
「ゲッ……ゲヒィ!! おいおいおいまジかよまジかよ!! てっきりてめェらにゃあ、壮大な
「っ? さっきから、お前は何を言っているんだ?」
「そりゃァこっちのセリフだぜ、クソガキィ! こっちの狙いは、最初ッから、そこの
なにを、言っているんだ?
葵さんが、本命ということは……いやでも、彼らアイスストームとデスペラードは協力関係にあるはずじゃ……。
「どうしてだ。なんでお前たちは、葵さんを――」
「相変わらず、状況が読めてねェみたいだな、クソチビ」
フリオースは即座に【反英雄化】して、ひろとへと火球弾頭を連続照射。
同じく【英雄化】を行使したひろとは竜の右手で迎撃するも、その爆風までは防げていない。強烈な衝撃と烈火が、ひろとの総身を焼き尽くしている。だが、彼の焼け焦げた皮膚は、【不死】の力によって直ちに再生していく。
「そっちがその気なら、ボクだって容赦はしない!」
「バカが、ジジイのウンコみてェに遅ェ! ……だが」
一発、二発、三発、と放たれたひろとの右拳は、どれもフリオースには届かない。邪気によって身体強化しているのは、フリオースも同じ。そして邪気の熟練度も彼の方が一段上であり、フリオースの五体は更なる加速によって烈火も同然に戦地を駆け巡る。
それでも、フリオースには笑っていられるほどの余裕はない。
一瞬でも気を緩めれば、【竜殺しの右手】に粉砕されてしまうのだ。
あの一撃はまずい。たとえ一級因子のフリオースですら、ひろとを明確な脅威だと見て取っていた。
「あいつの動きが鈍くなった……いまなら、捕まえられるはず!」
フリオースの動きが僅かに緩慢になったところを突いて、ひろとは聖気を脚部に集中させる。大気を割り風を纏うほどの疾駆によって、ついぞ拳を命中させるに至る。
「それが、てめェの敗因だァ……早漏野郎」
と思った瞬間に、【フリオースだった男】は炎となって消えていった。
以前にも見せた、炎の分身術だ。
続けざまに現れた本物のフリオースによって、ひろとは腹部を貫かれてしまう。
――ところが、
「言った、はず……だよ……捕まえた……ってね!」
「……てめェ」
フリオースの右腕は、ひろとの腹に埋まったまま引き抜けない。
彼の有する英雄としての特性、【不死の肉体】が、即座に傷を修復したのだ。
あえておびき出されることで、フリオースの不意打ちを誘う。
これがひろとの、本当の狙いだった。
「か……はっ!!」
ひろとは自慢の右手に、ありったけの力と聖気を込めて掛け放つ。
一発目は顔に、二発目は腹に、三発目は腎臓へ食い込ませるように叩き込む。
苦悶に顔を歪ませるフリオースは、だが、ここで折れるような悪党ではなく、
「ク、ソ……ガアアアアアアアアアアアアアアアァァッ!!!」
フリオースは自分もろとも爆裂を引き起こし、強引にひろとと距離を取る。
「強い――これでもまだ、倒れないなんて……」
至近距離からの炎上を浴びて、致命的なダメージを負うひろと。
総身に聖気を送って【不老不死】を発動させるが、いよいよ余力がなくなってきた。肉体を全回復できるのは、あと二、三回が限度だろう。
「さあ、さァ、さァさァさァさァさァさアァ!!! 続きをはじめっぞ、ド早漏!! てめぇが粉微塵になるまで、何度でも爆破して、爆裂させて、床のシミにもならねぇまっさらな灰にしてやんぞ!!!」
フリオースの満身から溢れる邪気は、ひろとと圧倒的な差がある。
悔しいが、スタミナはフリオースに分があると認めるしかない。
長引けば不利は否めず、仕掛けるのなら短期決戦だ。
「……こうなったら」
竜殺したる【至宝の大剣】バルムンクを、召喚するかどうか。
あの最強の一振りなら、フリオースをも打ち倒すことが可能だ。
しかし、いくらフリオースでも、バルムンクに斬られれば死んでしまう。
彼の《命を奪う》という決断を取るには、ひろとは彼を知らなさすぎる――。
「どうして、こんなことを、するんですか!!? フリオースさん……あなたも、力が欲しいのですか!!?」
見当外れな問いかけは、フリオースをより饒舌にさせた。
「ゲェヒハハハハハハハハハァ! てめェ、生粋の悪党って、知らねエのかよォ?」
「いません! 最初から、悪い人なんていない……みんな、どこかで捩じれてしまっただけなんです!」
フリオースは、舌と目ん玉を剥き出しにして、狗のように唾を垂れた。
「ヒッヒヒハァアヒャアァ! どこまでも、カスに塗れた脳チン野郎だなァ! ――環境が悪い、教育が悪い、関わった人が悪い、親が悪い? ンなもん、ただの言い訳に過ぎねェだろうがよォ!!!」
辺り構わず火柱を上げて、全方位に大火球を炸裂させて、空の彼方から多量の火の雨を降らせる【
彼の双眸はグリングリンと回り続け、両手を蟲のように蠢かせている。
狂っているとは、何なのか。悪人とは、何なのか。
少年の勝手な想像を凌辱するかのように、フリオースはべろべろと舌を出して叫び上げる。
「幼少時代! オレぁ、園を追放された! それがなンでか、てめェには分かるか? 『だれかに会うたび、そいつをぶん殴り続けた』んだってよォ! 同じガキンちょを、殴って、殴って、殴って殴って殴って、ゲハゲハ笑ってたってよォ!! ンだぁ、親切なお医者さんは、下らねえ病名まで付けてたなァ!!! マスガキみてェにバカバカしい!!! たかだか他人を殴る程度に、理由なんザいるかよォ!!!」
悪人は劫火の海を錬成し、それは彼の怒号に合わせてひろとへと掛け放たれる。
「くっ……が、はっ……!」
ひろとは竜殺しの右手で相殺するが、動きは封じられたも同然だ。
この隙を見てフリオースは背後から差し迫り、怒涛の暴力によってひろとを完膚なきまでに蹂躙していく。フリオースが殴り蹴る度に、ひろとの身体は爆裂し、再生した途端に炎上する。途方もない痛みの連鎖には、ひろとは意識を保っているだけで精いっぱいだった。
「〝悪〟には、理由も美学もいらねェ!!! 気に入らなければ殺せ、欲しければ奪え! だって、なんで、どうして、だからァ!!? オレたちァ、発表会しにきてるわけじゃァねえンだ!!! 本能のままにただぶっ殺して、強くなるだけだろうがよォオ!!!」
彼の劣悪な絶叫を一つずつ噛み締めながら、ひろとはこくりと得心した。
自分は、審判者じゃない。神さまでもない。正義そのものなんかじゃ決してない。
だけど……自分が戦うべき相手は、いま定まった。
「なァ、カワイイ、可愛い、竜殺し。――オレの反英雄を、知っているか?」
「……っ!?」
突如として、フリオースは人が変わったかのように冷静さを取り戻した。
彼もただの狂人ではない。
ひろとから感じた、《本物の脅威》を察知してのことだ。
「火竜、ファフニール。だからその因子であるお前は、炎を扱えるんだろ」
フリオースはチッチッチ、と指を振りながら、露骨にひろとと距離を開ける。
「伝承じゃァ、ファフニールは、《毒竜》とも呼ばれた。なんでも口から、毒を吐いていたンだとよ」
「……それが、どうした」
「炎ッつうのは、喩えでもある。憎悪や、私怨を、表した現象。毒は、より真に迫るもンだ。毒が身体を蝕み、憎しみやら、苦しみやらを食って、《炎》を上げる。つまりだ、俺の炎は――」
時間稼ぎか?
これ以上、やつの手に乗るわけにはいかない。
ひろとはバルムンクを呼び出そうと、全ての聖気を解き放ち――。
「猛毒だァ! オレの毒はァ、マス掻くよりも効くぞ、クソガキィ!!!」
パチンッ――フリオースの指と指が、摩擦を発生させた瞬間。
「がっ!!?」
身体の内側から、天を衝くような盛大な火柱を上げたひろと。
これまでに幾度となく浴びてきたフリオースの炎は、ただの炎ではなく、《いつでも起爆可能な時限炎を仕込む猛毒》だと気づくには、あまりにも遅かった。
「あの世で覚えておくンだなァ、クソガキ。【
無念にも、黒く焼け焦げたひろとが、目を覚ますことはなかった。
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