英雄譚(36) ヒーローは君を救いたいから。


「ひろとくん。もしかして、私を探しに来てくれたの?」


 葵が揺らすブランコの隣で、ひろともそっと腰を下ろす。

 彼はまだ、自分が何をしたいのかの結論が出ていない。

 芹澤葵を悪人として断罪するのか、それとも友達として見逃すのか――。

 答えは出ていなくとも、心は既に決まっていた。

 彼女の隣に腰掛けたという無意識の行動自体が、ひろとの解答だった。


「うん……そうかもしれない。ボクは、葵さんと戦いたくないから」


 葵は呆気に取られたかのように絶句し、一拍間を開けて笑みを零した。

 その桜色の唇はにやりと歪み、また蠱惑的に胸を寄せてひろとを窺う。


「どうして? 私のこと、好きになっちゃった?」

「好きだよ。葵さんのことは、友達として」

「……っ」


 葵はあくまでも、揶揄ったつもりだ。

 それなのにひろとは真摯に答えてくれて、彼の向ける眼差しには覇気を感じる。

 だけど、なぜ彼はそこまでして、自分を助けようとしているのか。

 普通、二度も殺しにきた相手のことなんて、信用するはずがない。

 

 ――しかし解せないのはひろとも同じで、彼は葵が悪人であると信じられない。

 いまもこうして隣り合って、笑顔を湛えて、年相応の中学生にしか見えない彼女が、どうして反英雄などに堕ちてしまったのか。


 ひろとには是が非でも、問い質さねばならぬことがあった。


「ねぇ……葵さん。葵さんはどうして、アイスストームに入ったの? ジークフリートの遺物だって……どうして、集めてるのかなって……」


 葵はブランコから降りて、公園を歩き始める。遠い過去を見つめるように、空を向いていて、その横顔はいつになく冷ややかに取り澄まされていた。


「ひろとくんは、この世界のことを、どう思う?」

「この世界って、えっと……いい感じ、とか?」


 べつにふざけているつもりではない。ただ、ひろとにとって世界は特別、賞賛するものでもなければ、憎しみを向ける対象でもない。普通に暮らして、過ごして、いま自分がいる場所だという認識だ。


 そんな能天気な思考回路のひろとに、葵はほんのりと目尻を垂れ下げる。

 いいな。平和そうで、羨ましいな。

 彼女が向けた一瞥には、僅かな羨望と憧憬が秘められている。


「私はね……ずっと、力が欲しかったの。誰にも無視されない、否定されない、大きな……とっても、とーっても、大きな力が」


 力を欲する理由は、人それぞれだ。

 復讐を果たしたい、有象無象を蹂躙したい、あるいは権威を誇示するためであったり、注目を浴びたいからという人も中にはいるだろう。

 いずれにせよ、ただ力が欲しいという理由だけで、人は反英雄になんて堕ちない。

 そこには必ず、よこしまな情念が渦巻いているはずだ。


「リントブルム――その象徴は氷と嵐で、かつて多くの国を災厄に招いた竜は、とても素晴らしい力を持っていたんだ。その氷嵐は暴力的で、圧倒的で、ただの人間程度なら、簡単に捻り潰せちゃうくらいに」


 葵が手のひらをかざすと、轟々と荒れ狂う氷嵐が公園一帯に吹き荒ぶ。

 設置された遊具はことごとく凍え、地面は一瞬にして蒼い凍土へと変貌する。

 大気はここだけ酷寒のように冷え切っていて、身震いしてしまうほど気温も低い。


「ね? 力って、こんなにすごいものなんだよ♪ この力を手にしてから、私の人生は、何もかも変わった。街行く人々も、学校でイキり散らかしてるお猿さんも、みんなアリさんみたいに小さく見えたし、些細なことも気にしなくなった。気が付けば、周りには私のことを褒めてくれる人ばかり。これも全て、私が強いからだよね?」


 ひろとは胸に手を当てて、自分の過去を思い返した。

 いじめられていて、学校では友達もおらず、いつも孤独な日々を過ごしていた。

 ひょんなことから【英雄】になって以降、素敵な人たちと関われた。

 これが《力の素晴らしさ》と錯覚するのも無理はなく、一歩間違えたらひろとも、彼女のように力に溺れていたのかもしれない。

 だけど……いや、ひろとに限ってはそんなことはないと言えた。

 彼はいまも、自分が些末な人間であると頑なに信じ、そのために努力を積み重ねている。――葵のように、些細なきっかけで道を踏み外す人を救えるようにと。


「……分かるよ。ボクも、昔より……少しは、変われた気がするんだ。【ジークフリート】の力を授かってから、出来ないことも出来るようになった。こんなボクが、誰かを救えるようになった。……でもね、葵さん。いくらすごい力を持っていたって、誰かを傷つけていい理由にはならないと思うんだ」


「……どうして? 私たちは、偉い人間なんだよ、ひろとくん? 何の力もない人を傷つけるのも、傷つけないのも、私たちの自由だよね?」


「葵さん……」


 この時初めて、ひろとは葵に咎めるような視線を向けた。

 価値観の違いとか、そういう話ではないくらいに、彼女は根本的に人としての一部が捻じ曲がってしまっている。


 ひろとが懐いた想いは、同情でも、憤怒でもなく、《彼女を改めさせなければならない》という、ひとりの英雄としての使命感だった。


「ボクたちは人間なんだよ、葵さん! 無暗に人を傷つけて、いいはずがない! これは英雄とか、反英雄とか、そういう話じゃなくて、人として、守るべきルールだと思うんだ! 葵さんは……ボクと仲良くしてくれた。あの時みたいに、みんなと仲良くすることだってできるはずだよ! きっとまだ、ボクたちは分かり合える……だからそんな力は捨てて、ボクたちと、一緒に――」


 彼の必死の訴えも虚しく、ひろとに突き付けられたのは、勁烈な冷気の束だった。


「ひろとくん……」


 突如として吹き荒れた吹雪によって、視界は著しく悪化し、大気の温度は氷点下を切った。寒さのせいで、ひろとの身体は痙攣を引き起こし、皮膚には焼けたような痛みが走る。


「分かってない。やっぱり、なんにも分かっていないんだね、ひろとくんは」

「……葵、さん」


 少女の面貌は憤激に歪み、漏れ出た吐息には獣のような熱が帯びている。

 自分の知っている《芹澤葵》とあまりにもかけ離れた破壊の化身に、ひろとは背筋に悪寒を走らせながら、彼女が何に怒っているのかも理解できないでいる。


 善を尽くす英雄と、悪を担う反英雄。

 異なる魂を宿す両者が、ただの舌戦で打ち解けられるはずもなく、あるいは双方の決裂は必定の運命にあったのだろう。


「力があったら、使っちゃいたいと思うのが、人間でしょ? 自分より弱いひとを、たくさん、たくさん、イジメちゃうとか、ストレス発散に、ボコボコにするとか、人間らしさっていうのは、そういうところにあるんだよ?」


 ひろとはごくりと息を呑み下しながら、これまでの彼女の人物像を撤回した。

 芹澤葵という少女は、ガラス細工のように脆いのだ。

 彼女の根底にあるのは――虐げられたくない、狙われたくない、他人よりも優位に立ちたい、弱いものイジメをして満足したい……そういったドロドロとした優越感が中枢にあって、だからこそ葵は、《小峰大翔》をお気に入りとしていたんだろう。


 彼なら、絶対に逆らわないと知っているから。

 どんなに意地悪をしたって、弄んだって、反撃もしてこないのだ。

 あの日、博物館でデートに誘ったのも、ひろとのひ弱さにあったのかもしれない。


「最後通牒だよ――ひろとくん」


 葵は虚空より顕現させた、幾重もの氷槍の切っ先を彼に定めながら、


「【ジークフリート】を渡して。渡してくれたら、私たちは、あの頃に戻れる。友達にだって、恋人にだって、なれるの。この前みたいに、一緒にご飯を食べて、映画を見に行って、エッチなコスプレだってしてあげる。ひろとくんなら、私が徹底的に《管理》してあげる。だから……その遺物を、私に渡して」


 あくまでも葵は誘惑をしているつもりだが、ひろとの顔色は、この凍て付いた大気の如く冷めている。

 あの頃に戻れる……友達にだって、恋人にだってなれる?

 冗談を抜かすな。彼女が求めているのは、都合のいい【下僕】だけだ。


 しかし葵は【下僕】などとは思っておらず、それが本当に、芹澤葵と小峰大翔の正しい関係なのだと妄信している。

 そんな致命的な認識の差に気付いていない彼女を、ひろとは絶対に助けなければいけない。


「ひろとくん? ……なんの、つもり?」


 ひろとは無防備にも両腕を広げて、無抵抗のポーズを取っている。


「戦いません」

「さっすが、ひろとくん♪ 遺物を、タダでくれるなんて――」


「ボクは葵さんと、戦うつもりはありません! けれど、遺物を渡すこともできません! 竜殺しの遺物を葵さんに渡せば、状況がさらに悪化してしまうんです! ボクは葵さんが、悪の道に進んでしまうことが嫌だ……だから、葵さん!! どうか、もう一度だけ、ボクと話し合ってはくれませんか!!」


「……はぁっ」


 その時の葵の顔は、なんと表現したらいいのだろうか。

 苛立ちと殺意が、ふんだんに込められた目つき。

 世界一ウザい男子が目の前にいる時くらい、女子を捨てた顔をしていた。


「ひーろーとーくーん? ちゃぁんと、私の話を、聞いていたのかなぁ?」

「聞いてましたよ。悪い人なんだって、思いました」

「だったら、今さら話し合いなんて、あり得ないよね?」

「いえ……葵さんは、悪くなってしまった人なんです。元から悪い人ではないと、信じています」


 怒りすら通り越して、葵は肩を落として鼻白む。


「ほんっと……ひろとくんって、お人好しだよねぇ……私は弱いものイジメが、だぁい好きなの。さっきから、何度もそう言ってるのに、どうして――」


「だったら、どうしてボクとお話してくれるんですか!」

「……っ」


 ひろとの喝破は、饒舌な葵を黙らせるほどには真に迫っていた。


「今だって、そうです! ほんとに弱いものイジメが好きなら、さっさとボクを殺してるはずです! 河川敷でボクを追い詰めた日も、葵さんは、躊躇っていたじゃないですか!」


「……」


 よほど痛いところを突かれたのか、葵は押し黙って反論のひとつも出そうとしない。その視線はグラグラと腐った木の根みたく不安定になって、吹雪の勢いも弱まっている。


「ボクは、葵さんを助けたい。本当にただ、それだけなんです」


 葵は躊躇するように、幾度か口を開けたり閉じたりした。

 迷いが見られる。彼女はやはり、根っこからの悪人ではないんだ。

 あるいは、誰かにそそのかされただけのかもしれない。利用されているだけなのかもしれない。

 ひろとはそう葵を信じて、今一度「葵さん」と言葉を掛ける。

 どんなに過酷な壁が立ち塞がっていたとしても、助けてあげたいと、その一心で。


「本当に……助けて、くれるの?」

「二言はありません。絶対に、助けます」


 ひろとの即答を、彼女はどのように受け止めたのか。

 葵はなにか決心したように拳を固めて、「あのね、ひろとくん。私――」そこまで切り出した時の事だった。


「「っ!!?」」


 篠突く火球に紅蓮の柱、渦を巻いて迫る烈火の旋風が、二人を襲う。氷嵐と劫火がせめぎ合い、公園内には赤と青、この世ならざる異能の奔流で溢れ返った。


 奇襲だ。それも、数体どころではない……反英雄たちの軍勢だ。

 これだけの力には、完全体の【反英雄化】を行使せねば対抗できない。

 そう判断した葵だが、反転しようとした時にはすでに遅く、


「葵さん――葵さん!!!」


 何者かが葵の腹部を殴打し、無抵抗となった彼女を連れ出していった。


標的ターゲット、捕獲しました!」

「こんなに、上手くいくなんてよ……こいッつぁ、最高に狙い得だァ!」


 ひろとがまさかと思った通り、葵を拉致したのはフリオースたちだった。 


「待て、このボクが相手に――ッ!!」

「てめェとやり合うつもりはねえよ、竜殺し」


 ひろとが飛び出した頃には、フリオースたちは火炎ポータルで離脱していた。


「ク、ソ……またボクは……どうして、守れないんだ……っ!」


 己の無力さに打ちのめされて、ひろとは無人と化した公園の地面を殴りつけた。

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