英雄譚(10) ヒーローは二度目の混浴で……。


「来なさい、ヒロ」

「でも……」

「邪念は捨てなさい。これは、必要なことなのよ」

「う、うん。分かったよ、フー」


 その日の晩、ジークフリートとひろとは、また浴室に入った。

 電気を消したままで、窓から差し込む月明かりだけが二人を照らし出している。

 シャワーは弱の状態で、壁に掛けたまま。お湯ではなく冷たい水が、優しい雨のように二人を濡らしていく。


「……っ」


 月明かりに映し出されて、水を滴らせている彼女は、いっそうと幻想的に見えた。

 雪のように白い肌、キラキラと輝く頭髪、夜空のように美しい瞳……。


 胸は控えめシンデレラサイズだけど、無いわけじゃない。触れれば崩れてしまいそうなほど、儚く細い身体に、ツンと慎ましい色香が立っている。


 大きくはない。けれど、その錐は可憐で、優雅で、臆面も見せずに屹立している。

 未成熟な丘の上には、色素の薄い桜色が。

 慎ましくも凛と張っていて、彼女の堂々たる自信が現れている。


「ねぇ……わたしだって、恥じらう時もあるわ」

「あっ、ご、ごめん!」


 さすがに見られすぎは気になるのか、ジークフリートは耳まで紅潮させている。


「べつに、いいのよ。ヒロだって、男の子だものね」

「え、えと……男の子でも、ダメな時はダメだと思うよ……」


「わたしは、仕方ないものだって割り切ってるわ。そ、れ、に――わたしは、ヒロよりも遥かにお姉さんなのだから。リードするのが、お姉さんのつとめでしょ?」


「ぼ、ボクだってリードさせられてばかりじゃないというか」

「ふふっ、分かってるわ。とりあえず、ね……いまは、ここに」


 ジークフリートは右手を、ひろとの左胸へと押し当てる。


「さあ、わたしと同じようにして」

「同じようにって……」

「大丈夫。これくらい、気にしないわ」

「じゃ、じゃあ……お言葉に甘えて……」


 ひろとは心臓をバクバクとさせながらも、彼女の左胸へと指を埋めた。

 絹みたいにサラサラで、ほのかな体温と感触が指に纏わりつく。


「んっ……」


 少し緊張しているのか、ジークフリートの早まった鼓動を、ひろとは感じる。

 小さくとも、この軟らかな弾力は本物だ。

 それにひろとの小さな手には、ちょうどいい大きさでもある。

 手のひらから伝うふにふにとした手触り。

 この至福の瞬間を噛み締めながらも、ひろとは何とか我を保っている。


「あとは、おでこを……そう。目を閉じて、意識を凝らしなさい」


 ジークフリートの指示通り、ひろとは額を密着させた。

 お互いの呼吸が聞こえるくらい、睫毛が触れ合うくらい、密接に繋がり合っている。空いた左手は、お互いを支えるために肩へといった。


『さあ教えて。ヒロの奥底にあるものは、なに?』


 第一の問いが、ボクの脳内へと直接響いてくる。


「ボクは……」


 子供のころから、英雄に憧れてきた。

 誰かがピンチの時には必ず駆けつける、正義のヒーロー。


 けれどもそれは、仮初の意識だ。


 どうして、英雄にこだわるのか。英雄以外じゃ、ダメだったのか。

 突き詰めれば突き詰めるほど、もうひとつの自分が浮き彫りになってくる。


「小学校三年生のころ。ボクは、イジメに遭っていたんだ」


 あえて思い出したくない記憶でもあり、自分には友達がいない本当の理由。

 すこし記憶に触れただけで、強烈な立ち眩みに襲われるほどのトラウマだ。

 でもそのトラウマというのは、イジメられていたこと自体が原因ではない。


「ボクが小さいのは、生まれつきだった。力もないし、強く言い返せないし、毎日のように、からかわれてた」


 思い返すだけで、ぶるぶると身体が震えてくる。

 でも、ここで負けちゃダメだ。

 弱い自分に打ち勝つには……全てを、さらけ出さないと。


「からかいは、次第にエスカレートしていった。筆記用具や、靴がどこかにいくのは、普通のことだった。叩いたり、蹴られたりする時もあった。……でもね。ボクだけなら、まだ耐えられたんだ。ボクだけが、ひどい目に遭うのなら……いいのかなって」


 それは、四年生になった時のこと。

 クラス替えがあっても、ボクへのイジメは続いていた。

 物がなくなったり、突然強く叩かれたり、変なあだ名を付けられたり……。

 でも、ボクは特に抵抗しなかった。「あはは」と笑って、ごまかしていた。

 そんなボクをイジメていても、つまらなかったんだろう。

 だから彼らは、【新しい玩具】を見つけることにした。


「同じクラスになった男の子が、ターゲットにされた。その子もボクと同じくらい小柄で……いつも、おどおどとしていたんだ」


 ここから、ボクにとっての最悪が始まる。

 ボクだけのイジメならいい。

 でもボクのせいで、だれかが巻き込まれることだけは、耐えられなかった。


「男の子はね……二週間くらい経ったら、転校しちゃったんだ。なのに、ボクは……」


 いま思い出しても、手が震えちゃうくらいに、自分自身が許せなかった。


『教えて。ヒロは、なにが許せなかったの?』


 それは、できれば教えたくない。ずっと秘密にしておきたかったくらい、みじめで、哀れで、でも、ボクの夢にも直結していること――。


「ボクはっ……なにも、できなかったんだ。ボクのせいで、巻き込まれたのに……立ち向かうことも、できなかった。謝ることも……なんにも、できなかったんだ!!」


 本当の、本当に……悔しかった。


 自分でさえなければ、立ち向かえただろうか。クラスの陽キャみたいに度胸があれば、何とか言い返せただろうか。


 そんな言い訳を重ねることも嫌で、ボクは自分を変えたいと思った。


「アニメや漫画なら、絶対に、だれかが助けてくれる……その『だれか』に、ボクは憧れていたんだ。そうだ……ヒーローになろう。悲しむ人が生まれないように、ボクが皆のヒーローになるって……決めたんだ。ボクは、とっくの昔に」


 それはかつての英雄たちと見比べると、児戯のような努力だっただろう。

 筋トレは、走り込みに腕立て伏せ。

 命も、世界の命運も背負っているわけではない。

 何よりひろとには、生まれ持った才覚がない。

 鍛えても運動は音痴のままだ。

 いくらイメトレしても、会話もスムーズになりやしない。

 せめて勉強はと思ってみても、どれだけ勉強しようと上位はいつも他の誰かだ。

 現実は、過酷だ。

 自分ではどんな世界においても、ヒーローになれないと分かっていた。


『じゃあ、諦める? なれないと分かっているのなら、続けるだけ無駄よ』


 お前には、無駄。チビにはできない。小さいから、なれっこない。

 どれもが散々に、聞き飽きた言葉だ。

 けれど仮に不可能だったとしても、これだけは絶対に譲れなかった。


「なれるか、なれないかじゃない……ボクは、ヒーローになるんだ!」


 怯えることしかできなかった過去を、ひろとは断罪するかのように宣誓する。


「なにもできなかった、とっても苦しかった! 誰かが傷ついているところを見るのが、ボクは一番つらい! たとえ無駄だったとしても……ボクは絶対に、諦めない!」


 瞬間、赤と黒の旋風が、室内に渦巻き、


「おめでとう、ヒロ。それが……あなたの決意よ」


 ひろとの右手を覆う、赤黒い竜の鱗。

 それは、トラックから児童たちを咄嗟に守った時の、竜の篭手。


「フー……ボクは、本当に」


 信じられなさそうに目を白黒させる彼へと、英雄はとびっきりの笑顔を向けた。


「言ったでしょ。ヒロなら、できるって」


 自信満々の笑顔と同じく、彼女の質素な胸もピンと立っていた。


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