五十二話 もういいよ

 ごぼごぼと口から空気の泡が漏れ出て、いよいよ月乃は限界だった。

 その時、無抵抗で沈むだけだった和の目が開き――しっかりと手を握り返される。

浮上の手助けをするようにミコが月乃の襟首を噛み、上へと四肢で水をかく。

 だが水の底から伸びてきた無数の黒い手が、行かせまいというように和と月乃に絡みついた。


(だめ……、も……苦しい……! ――だけど……)


 息が苦しい。視界がチカチカする。けれど、掴んだこの手だけは離したくない。 

 月乃は片手に握りしめていたお守りの袋を和の手に押し当て、その上から包むように自分の手を重ねる。


 諦めないから、諦めないで。


 そんな意味を込めた月乃の行動を、和はどう受け取っただろう。

 彼の表情は、水の中で引き寄せられて――抱きしめられたためよく見えない。


 水の底からウネウネと体をくねらせ黒い液を周囲にまき散らしながらのぼってくる、化け物がタコの足を伸ばしてきた。


 それが、月乃たちに届く前に、突然水が逆巻いた――。体はそのまま押し上げられて地上へと戻される。

 げほごほと咽せながらも新鮮な空気を取り込んだ月乃は、巻き上がった水が自分たち以外のモノも地上にさらしたことに気付く。


 骨だ。

 一つや二つではない。いくつもの人骨。


「……こ、れ……」

「黒い手の、正体だ」


 すぐ近くで声がして、月乃はハッとした。


「和くん……!」

「……お前、守ってくれるミコがいるからって、無茶するなよ」


 和の声は少しかすれていた。大丈夫かと顔色をうかがおうとして、自分が抱きしめられたままであると思い出す。

 これでは動けないが、羞恥心より先に月乃は水の中からのぞく化け物を視界に入れて悲鳴を上げ、自分から和に抱きつく。


「…………」


 和はそれをじっと見ていた。化け物もまた、じぃっと和を見つめている。

 やがて――。


「来ぉなイのォ?」


 ヒビ割れたような歪で耳障りな声が問いを発する。

 和はその問いかけに、頷くでも否定するでもなく――自分から手を差し出した。


「こっちだ」


 化け物が驚いた――ように、月乃には見えた。


「もう、底にいなくてもいいんだ」


 和が続ければ、化け物はあどけない子どものようにこてんと首をかしげる。


「そォなノぉ……?」

「うん」


 和が差し出した手に、異形の腕が伸びる。だが、和はためらいなく握ると、目をそらすことなくその姿を見つめて言った。


「もう逝け」

「イいの?」

「ああ」


 化け物の声が、弾んだ。無邪気な喜びに溢れた声が「いコう、いコう」と同じ言葉を繰り返す。

 バシャンと大きく水を跳ねさせた化け物は「みんな、いっしょにいこう」と遊びに誘う子どものようにはしゃいだ声をあげ、ぐるぐると円を描くように泳ぐ。


 そして水面に渦ができると期待するかのように和を振り返り――和は頷いた。さきほど月乃が返したお守りの小袋を開けて……中から小さな球体を取り出した。

 透明なそれを、ぽちゃん……と水に落とすと、水面が大きくうねり出す。


 暗く、冷たく、濁る水。それが、一瞬で濾過されたように透明度が増し水柱となって吹き上げる。。

 

「じゃア、まぁタ、ね?」


 にぃっと笑った化け物は自らその中に飛び込むと、水柱は勢いを増し天井を突き抜け――外へと到達すると、あっという間に蒸発した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る