二十二話 新しい日常=非日常
梅雨の季節に入って、空気もジメジメする毎日。
月乃は、紙のファイルとしてまとまっていた古い記録をパソコンに入力していた。
主な内容は不審者と思われる情報だ。
夜中に特定の通りを通ると聞こえる足音、おーいおーいと呼ぶ声など気味が悪い。自然と月乃の眉間にしわが寄ってくるが、足下に寝そべる犬――ミコを見ると自然と気分が落ち着く。
もっとも、ミコはすでに死んでいる。本来ならの姿も見えないはずが、この事務所にいる間は別だった。元々不思議な事件がきっかけで、ここで働くふたり……祭と和というデコボココンビと知り合った月乃だ。
記憶を消されて普通の生活に戻ったが、めぐりめぐってまたふたりと会い、彼らの元で事務員として働くことになって、ようやく記憶を取り戻した。
祭と和は、守秘義務という観点から……という理由もあるが、月乃が二度と不思議なことに関わらなくて済むようにという好意から消したというが――結局戻ってきたのだから、そういう縁だったのだろう。
そんな数々の不思議を目にすれば、多少のことでは動じなくなる……のだが、一点だけ。ミコはこのままここにいて大丈夫なのかと心配だった。
だが、祭いわくミコは月乃を守っているらしい。気が済むまで守ってもらうのが月乃の役目だと言われ、ミコが同意するように鳴けば、月乃に拒否することはできない。
なので、月乃の新しい職場には一見人当たりのよさそうな上司と、パッと見とっつきにくそうな童顔無愛想な先輩、そして可愛い可愛いミコがいる。
最後のメンバーのおかげで、最高の職場になっているのは月乃だけの秘密のつもりだが、おそらくバレているだろう。ミコグッズを持ち込んでもいいよなどと言われているのだから。
「あー……もうすぐ昼か」
ふと、向かいで月乃と同じようにパソコンを相手にしていた先輩こと和が声を上げた。
彼もまた古い記録を入力しているのだが、事件や事故などの痛ましい記録が多く、月乃も閲覧が許可されていない。
和がいつも仏頂面なのは、もしかしてこのせいだろうか――少しばかり失礼なことを考えた月乃は目があった和に「なんだよ?」と問われて慌てて首を横に振った。
「い、いいえ、お腹すいたなって思って」
とってつけた言い訳のはずが、月乃のお腹ぐぅ~と鳴った。
「……」
「…………」
和は真顔で沈黙し、月乃は真っ赤になって絶句する。ミコだけが「休憩? じゃあ撫でて!」とばかりに嬉しそうに尻尾を振っていた。
「……あ、うん、昼飯にするか」
「うぅ……ごめんなさい……」
我に返った和が、ぎこちなく呟き焼きそばパンを取り出した。謝る月乃に、気まずそうに首を振る。
「いや、腹は減るもんだし。腹が減れば鳴るもんだし……まぁ、謝ることでもないだろ」
和が思いきり気を遣っているのが分かるため、いたたまれない。しかも、自分の昼食が小さくて可愛いお弁当だから、余計にいたたまれない。
お前はあれだけデカい腹の音を鳴らしておいて、それで足りるのかと思われそうだ。
「お前、それで足りるのか?」
やはり突っ込まれた。恥ずかしい、と月乃は顔を覆いたくなる。
「俺のツナおにぎり、食うか?」
未開封のおにぎりを取り出す和に、月乃は慌てて首を振った。
先輩の優しさが身にしみるが、本当にタイミングが悪かっただけで月乃は別に大食いではない。
むしろよく食べるのは和のほうで、おにぎりをもらってしまえば彼が午後にお腹を減らすのは目に見えている。
気持ちだけもらって、昼食に手をつける。
「祭さん、帰ってきませんね」
この事務所の責任者である祭は、本日は朝から出かけていた。おかげで事務仕事が捗ると言っていた和は「放っておけ」と気にした素振りもない。
「つーか、その口調」
「え? なにか、変でしたか、日根先輩」
「……変でしたかって……まぁ、常識的ではあるんだけど……なんか慣れないっつーか」
ムスッと呟いて、焼きそばパン最後の一口分を放り込んだ和はなにか考える様子で黙っていた。
「別に、敬語はいらないから」
「え?」
「先輩とか、いらないし。前みたいに呼んでいい」
前みたいというのは、アレだろうかと月乃は顔を青くする。
彼と出会ったとき、年下――それも高校生くらいだと思って、下の名前にくん付けして馴れ馴れしく話しかけていたアレだろうか。
「で、でも……!」
「おっさんは普通に呼んでるだろ」
「それは、祭さんが堅苦しいのはあんまり好きじゃないからって……」
それでもわきまえるべきところはわきまえて、言葉遣いは崩していない。そんな月乃に、和は「お前に今さら敬語とか、違和感あるんだよ」と言うのだ。
「で、でも、実際年上だったわけですし……」
「あー、分かった。じゃあ先輩命令。前にみたいに普通に話せ。なんか違和感あって鳥肌が立つ」
それはちょっと酷いと月乃が眉を垂れ下げると、和はおかしそうに笑った。
「……もう、一生懸命挽回しようと頑張ってたのに、ひどいよ和くん」
「やっぱりそっちがいい。そもそも、なにを挽回するんだよ」
「だって、同じ職場で働く年上の先輩を、勝手に年下だと思ってたなんてバレちゃったんだよ? 悪印象を払拭しないとって」
「別にお前に悪い印象なんて持ってないのに、なにを払拭するんだよ。意味分からない奴。……お互い、こっちの話しかたのほうがやりやすいんなら、断然こっちでいいだろ」
バレていた、と月乃はまたしても顔を覆いたくなった。
和に呼びかけるとき「日根先輩」ではなく「和くん」と呼びそうになって誤魔化していたことを、当の本人に気付かれていたのだから。
「だいたい、おっさんが面白がるんだよ。俺が先輩風吹かせてるーとかさ」
「あははは……」
思い当たるふしがあった月乃が思わず笑えば、笑い事ではないと言う和も笑っていた。
そんな和やかな昼食時間を過ごしていた月乃たちだったが、不意にミコがピクリと耳を立てて――。
バタン!
「呼んだかなぁ~?」
大きな音とともに扉が開き、祭が謎の決めポーズをして現れた。
呆気にとられる月乃とミコ、和は「ぁあ?」とドスの利いた声を上げ騒々しく戻ってきた祭をにらんでいる。
「誰も呼んでない」
「はい、ツレない! なごちゃん、ツレない!」
「……ドアちゃんと閉めろ。あとこっちは飯時だ、ドタバタすんな」
「お偉いさんたちとの会議に参加してきたおじさんをさぁ、もうちょっと労ってくれないかなぁ?」
しくしくと口で言いつつドアを閉めにいく祭に、月乃は「おかえりなさい、お疲れ様です」と声をかけた。目に見えて祭の表情が明るくなる。
「月乃ちゃん……ありがとう……! くぅぅっ……!」
「え、泣くほど……?」
偉い人たちとの会議というのは、祭ほどの人でもやはり負担なのだろうかと思い、月乃はお茶を入れましょうかと声をかける。
「いいよ、いいよ、休憩してて」
「でも……」
「気を遣わないでいいんだよ~、休憩時間はちゃんと休憩して欲しいからね~。ほら、見てごらん、なごちゃんを。人を無視しておにぎり食べてるよ。……なごちゃーん、ただいまぁ~」
ツンツンと和の肩をつついた祭。和はその手をうるさそうに振り払う。
「飯食ってるとき邪魔すんな」
「はいはい、分かりました。……まぁ、休憩時間なんだからゆっくりしなさいな」
誰が邪魔をしているのだと言いたげな和に対して、祭は悪びれのない笑顔を浮かべて手にしていた大きな封筒を振った。
「午後からも、楽しい仕事が待ってるよ、皆の衆!」
月乃は表情を引き締め、ミコもそれに習うようにキリッとする。
そんなひとりと一匹を見た和は「じゃあ、午後もやるか」と大きく伸びをした。
「はい、先輩!」
「わん!」
窓の外を見れば、晴天。
梅雨だというのに、珍しくからっと晴れた気持ちのいい天気だった――。
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