十一話 『雲野 月乃』
今日は晴れだと天気予報で言っていたのに、帰宅途中で雨が降るなんてついてない。
おかげで余計な出費だと購入したばかりのビニール傘をさしながらコンビニを出た雲野 月乃はため息をついた。
好きなキャラクター商品の一番クジが今日からだったことを仕事帰りに思い出し、帰宅途中にあるコンビニに寄ったのだがその間に土砂降りになってしまった。目当ての賞品はもう出ていたし、今日は本当についていない。
明日、別のコンビニにいこうと決めて雨の中を歩き出す。
傘に叩きつけられる雨の音がうるさくて、これではなにも聞こえないな、なんてどうでもいいことを考えていたら。
「雲野 月乃」
そんな想像を否定するように、クリアな音が耳に届いた。
自分を呼ぶ声に、足をとめる。振り返れば、自分より年下の少年が立っていた。
引き結んだ唇に、不機嫌そうにひそめられた眉、気の強さを物語るようにじっと月乃を見る真っ直ぐな目。
この雨の中、傘も差さずに立っている彼にあいにく見覚えがなかった。
「どちら様ですか?」
「お前が手に入れたものは全部、雲野 月乃の物だ。返せ」
「……なにを、言っているんです? 雲野 月乃は、わたしですけど」
「お前は雲野 月乃じゃない。――偽物だ」
雨が激しさを増す。けれども少年の声はなにに邪魔されることなくハッキリと聞き取れた。
そして気づく。
この雨の中、傘もささずに立っている彼が、少しも濡れていないことに――。
荷物も傘も捨てて、走った。
家に逃げよう。あの家に逃げてしまえば、父と母が助けてくれる。
変な人に追いかけられたと言えば、ひとり娘を心配するに決まっている。
娘を心配する親ならば、不審者を追い払ってくれる。なにをしてでも、娘である自分を守らせる。
と、少し走ったところで足を取られ、つんのめった。
ばしゃっと水が跳ねる。
なんだと足下を見れば、そこには水があった。ただの水ではない。輪っかだ。水が、凝固され丸い輪を作っている。
これに足を取られたのかと顔をしかめるが、そもそも水がこんな風なかたまりになるだなんておかしい。
普通はありえない事象に驚いていると、体がぐっと重くなった。降ってきた雨がそのまま背中で大きなかたまりを作り、重しのようにのし掛かってくる。
「っな、なに、これ……!」
「俺は、逃げろとは言ってない。返せと言ってるんだ、偽物」
近づいてきた少年はやはり少しも濡れていない。そしてやはり、真っ直ぐに見つめてくる。その両目に、怒りの色を浮かべて。
「な……なんで……?」
かすれた声が出た。
「なんで? なんで!? 偽物じゃない! わたしは雲野 月乃! わたしが本物の!」
「お前みたいなヤツを、人がなんて呼ぶか教えてやろうか? 泥棒、だよ。クソッタレ」
「――っ」
違う。
雲野 月乃は呟いた。
違う。違う。違う。
だってほしかった。
たのしそうで、そっちはあかるくて、あたたかくて。
だから、帽子のかわりにもらってあげようと思ったのに――すぐだめになったから、ずっとずっと我慢した。機会を待った。人間は小さな存在に弱いと分かって、手にした抜け殻を利用した。
今度は失敗しないと、一息で丸呑みしてやろうと思ったら犬に邪魔されて……それでも頑張ったのだ。
なんとか必要な情報を手に入れて……ようやく、自分は《なんでもないモノ》から雲野 月乃という存在になれた!
あんなに大変な思いをして! 《名前のあるモノ》になったのに! 姿形のあるモノになったのに!
「それを、偽物だなんて……!」
許せない、と雲野 月乃は吠えた。
その口から吐き出されるのは、人の声とも思えない。むしろ、人語ですらない。地を這うように低く水の底のように暗い怨嗟の音、だ。
「馬鹿かお前は。水に関係する自分がこうして水にしてやられているのは、なんでか。考える頭はないのか。……ないから、力業で奪うなんて短絡的なマネをしたんだろうな」
黙れ!
雲野 月乃の形をしたものは、叫んだ。
それはもう、人が言葉として認識でないほどに崩れている。
けれど相対する少年はそれを聞き取り、吐き捨てた。
「そっちが黙れよ」
重さが、冷たさが、どんどん、どんどん増していく。このままでは、潰れる――そんな焦りが浮かぶ。
このままでは、なくしてしまう。自分のものを。自分の居場所を。そこまで考えて、雲野 月乃は人の言葉を取り戻した。
「い、いいの……!? わたしになにかしたら、返す返さないの話じゃなくなるけど……!」
こうやって言えば、人は怯む。
雲野 月乃になった自分を偽物という少年ならば、かじった残りかすのほうをどうにかしたいはずだ。自分に、この身なにかあれば、大変なことになるぞとチラつかせれば、もうなにもできない――。
その間に、逃げようと企てて、どうするのだと少年に再度問いかけようとすると、犬のうなり声がした。
「――え」
それは、あの夜に自分の邪魔をした、忌ま忌ましい犬で。土砂降りをモノともせず少年の後ろから駆けてくる。
確実に自分に向かってきていると察した雲野 月乃は重さで自由にならない体をバタバタ動かすがさして進めない。そうしているうち、あっという間に距離を詰めた犬が、飛びかかってきた。
「ひぃぃっ!」
「やめろ」
ピタリ。
犬が、止まる。ぐるると低くうなり、どうしてだというように少年を仰ぎ見ている。
助かった、と雲野 月乃は思った。助かった、今のうち逃げようと。ずり、ずりと体を引きずる。
「お前は、雲野 月乃の大事な家族だ。お前が自分のために誰かを傷つけたなんて知ったら、あいつは悲しむ。そういう人間だって、お前がいちばんよく分かっているだろう?」
ああ、馬鹿だ。
やはり馬鹿だ。
なにがあいつだ。
あんなもの、自分の食べた残りかすでしかない。
名前を手に入れたのは自分だ。姿を手に入れ、立場を手に入れた――そして、存在を取り替えた。だからもうアレはなんでもないモノ。
これからは、雲野 月乃は自分なのだ。
だから、部屋にある邪魔な犬の写真は捨てよう。
馬鹿みたいに大事に取ってある、使いもしない犬用のオモチャもだ。
これから先は、自分が本物。
自分がすることこそが、正しいことになるのだと、雲野 月乃はずるずると地べたを這う。
歪んだ笑みを浮かべながら伸ばした手を、誰かが思いきり踏みつけた。
「はい、ストーップ。ここから先は、通行止めでぇ~す」
「――っ!」
真っ暗なそこに、色が飛び込んできた。
柔らかそうな金茶色の髪に、蜂蜜を溶かしたような色の瞳。
突然視界を彩った明るい色に、雲野 月乃は目を見開いた。
甘い顔立ちだが、派手な外見。口調はゆるく笑みを浮かべているが――その目にはなんの温度も情もない。
雨より冷たいなにかがいた。
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